(2)



  ドアの前に座り込んでいたのは裕子だった。
「 お前、何しているんだ?」
  コンクリートの地面に直接腰を下ろし、寒そうに膝を抱え俯いている幼馴染に、光一郎は開口一番呆れたような言葉を出した。光一郎の後ろにいた友之もひょいと身体を乗り出して裕子のそんな姿を認め、驚いた顔をした。いつも明るく元気な「姉」が、何だかひどく小さく見えた。
「 遅かったね」
  ゆっくりと顔をあげてこちらを見た裕子は、まだ暗くなってもいないのに何だか酔っているようだった。頬が薄っすらと赤い。傍には見慣れたスーパーの買い物袋が置かれていて、中からはワインの大瓶が何本か顔を出していた。
「 えーと…。まあ、久しぶりに光一郎とも飲みたいなあと思って」
「 お前な……」
「 修司と喧嘩しちゃったの」
  光一郎の声をかき消して裕子は半ば怒ったようにそう言った。けれど吐き捨てるようにそう投げられたその台詞は裕子自身を萎えさせたのか、本人はその後ハアと大きくため息をついた。
  そんな幼馴染の態度を見た光一郎も小さくため息をついていたが、これに気づいたのは傍にいた友之だけだった。



「 だからね。修司はバカなの」
  光一郎の作った夕飯を頬張りながら裕子はたて続けに喋り続けた。3人でこうして食卓を囲むなど本当に久しぶりで、裕子も興奮していたのかもしれない。修司との「恒例の」喧嘩話にも熱が入っている。光一郎は何度か「食べながら喋るな」といつもの調子で小煩く注意してみたりもしていたが、それでも裕子の勢いは留まるところを知らなかった。
  友之は自分の箸を動かす事も忘れ、しばしそんな裕子の顔をじっと見つめ続けた。
「 あいつは勝手なのよ。いつだって、自分は知らない、勝手に向こうが惚れたんだとか言うけどね。来る者拒まず、結局あいつに真剣な女の子たちをからかって遊んでいるの。ねえ、光一郎はそういうのを同じ男として最低だと思わないわけ」
「 最低だな」
「 そうでしょ! うん、やっぱりコウちゃんは話が分かるよ!」
 裕子のその言葉に友之は反射的にぴくんと肩を揺らして目を見開いた。光一郎のことを幼い頃の呼び名で呼ぶ裕子は、何だか久しぶりだと思ったから。
「 ねえ、なら修司とはもう絶交だって言っちゃいなよ」
  そんな友之の思いには気づかず、裕子のまくしたてるような話は尚も続いた。
「 コウちゃんがそう言ったらきっとアイツ、すっごいショック受けるだろうし。わあ、それ見たい! すっごく興味ある!」

「 分かった、分かった」
「 何が分かったの? あのバカ幼馴染とはもういい加減縁を切る?」
「 ああ、切る切る」
「 本当〜? 怪しいなあ〜?」
  光一郎が裕子に対して思い切り適当に接している事は、傍から見ている友之などにしてみれば一目瞭然だった。けれども裕子は友之たちの部屋に来る前から既に何処かで飲んでいたのか、夕飯を摂る以前の段階からもうほぼ「出来上がって」いたようだったし、その後も自分で持参してきたワインを自分で空けてしまうなどして、相手の反応になどまるで構っていないようだった。
  だから友之にとって、そんな風に光一郎に向かってぺらぺらとよく喋る裕子の態度は、修司をなじるその内容よりも興味深いものだった。

「 おい、これもう片付けていいか」
「 駄目、まだ食べるの! もう、コウちゃんは本当に料理が上手なんだから〜。トモ君も幸せ者だよ、毎日こんな美味しいご飯が食べられてさ。ね? 友君?」
「 うん……」
「 おい、トモに絡むなよ」
「 え〜別に絡んでないわよ。コウちゃんはトモ君の事になるとすぐ怖くなるんだから!」
「 ………まったく」
  唇を尖らせてそう文句を言う裕子に、光一郎は実に嫌そうな顔をして、今日何度目かの大きなため息をついた。それから自分たちの食器を片付ける為に、友之と裕子をその場に残して台所へ行ってしまった。
  裕子はそんな光一郎の背中を眺めた後、ふっと自分もため息をついてワインの入ったグラスの縁を細く綺麗な指でつ、と撫でた。友之は裕子のその所作をやはりただ黙って眺めていた。裕子から目が離せなかった。
  裕子が光一郎の前でこんな風に饒舌になる事は滅多になかった。
「 ……そういえばトモ君たち、今日は何処に行っていたの?」
  不意に顔を上げて裕子が友之の方を向いてそんな事を訊いてきた。その目はうつろではあったが、声は割としっかりしている。酔っていたのではないのだろうかと友之はちらと思った。
「 お母さんの墓参り」
「 あ…そうなんだ……」
  私も誘ってくれれば良かったのに、と裕子はぽつりと言った。けれどもすぐに首を横に振ると 、いつも友之に見せる優しげな笑みになった。
「 楽しかった?」
「 え……」
「 あはは…お墓参りに楽しいって言うの、変かな? でも…そう、思ったから」
「 ……………」
  何だか見抜かれている気がする。友之は多少焦った気持ちになり、先刻までしきりに向けていた裕子への視線を下に落とした。裕子はいつでも自分にとって優しくて温かくて絶対に守ってくれる、自分を困らせたりはしない綺麗で素敵な姉だけれど、光一郎の事に関してだけは、時々ひどく言いようのない不安に駆られる事があった。
  裕子も光一郎の事が好きなのだ。
「 ……景色、見た」
  表出したそんな思いをかき消すように、友之は声を出した。
「 景色?」
「 うん……あの墓地の1番上に上ったんだ」
「 ああ…あそこ、上まで行くと街を一望できるのよね」
「 上がった事あるの?」
  裕子の勝手知ったるような発言に素直に驚いて友之はすぐに訊いた。裕子はそんな友之の態度にこそ驚いたようで多少途惑ったような顔を向けたが、すぐに笑顔になると頷いた。
「 上がった事あるよ。あそこは一通り回ったよ。トモ君家のお墓の周りも、うちのお墓の周りも。……高台の1番てっぺんも」
  裕子はそう言ってから、台所で果物の皮を剥いているらしい光一郎の姿をちらりと見やり、もう一度改めて友之の顔を覗きこんだ。
「 私、ああいう所って全部見ないと気が済まない性質だもん。探検とか大好きなの、トモ君だって知っているでしょ?」
「 うん」
  そういえばそうだと友之は思った。昔はよく姉の夕実とこの裕子と自分とで近くの森を散策したり、あの思い出の水源地でも防空壕跡を覗いて中に入れないか周囲を探ったりと…本当に色々な所を歩き回った。その中で、割と怖がりな夕実を先導し、裕子が先陣を切って前を歩く事も決して少なくはなかったのだ。
  それがいつの頃からか。
  裕子は夕実や友之に遠慮するような態度を見せるようになった。基本はいつでも明るく元気で意地っ張りの「強い」女性であるのに。

「 光一郎と一緒にそういう事するの、久しぶりでしょう」
  ぼうっと考えに耽っているような友之に裕子は声をかけ、それから再度ついとグラスの縁を撫でた。そうして薄っすらとした笑みはそのままに、裕子は言った。
「 ねえトモ君…光一郎は、優しい?」
「 え……?」
「 トモ君に」
「 うん」
  改まってそんな事を訊かれて一度は途惑い問い返してしまったものの、友之は慌てて首を縦に振った。最近ではそういう事…つまりは自分と光一郎の仲の事で裕子に心配をかけた事はないはずであるから、何かしてしまっただろうかと友之は内心で慌てた。
「 そっか…。それならいいんだ」
「 ………?」
  それとも。
「 お前、もういい加減それから手を離せ」
  その時、光一郎がようやく部屋に戻ってきて、ワインの入ったグラスに執着しているかのような裕子に咎める声を出した。そして皿に乗った形の良いリンゴをテーブルに置き、「これでも食べろ」と素っ気無く言う。
「 美味しそう! いただきます!」
  けれど裕子は光一郎のそんな態度に対し実に嬉しそうに笑った。ぶっきらぼうなそれでも、光一郎が裕子に優しく接しているのだという事は、友之にも分かった。
「 ………」
「 どうしたトモ。お前も食べていいんだぞ?」
「 あ…うん……」
「 早くしないと私が1人で食べちゃうよ、トモ君?」
  冗談めかした声でそう言う裕子に、友之は慌てて手を伸ばしてリンゴを掴んだ。自分の困惑を隠すようにリンゴをかじる。
  さっきの裕子は自分に別のことを訊きたかったのかもしれない。
  何となくそんな事を思った。

*

  友之が喉の渇きを覚えてふと目を覚ますと、隣室からぽつぽつと遠慮がちな小声の会話が交わされているのが聞こえた。
  光一郎と裕子の声。
「 ………」
  自分に笑って「おやすみ」を言った裕子は、まだ帰っていなかったのだ。少しだけ身じろいで傍の時計に目をやった。深夜の1時を回っていた。
「 お前はいつもそうだな」
  光一郎が裕子に言っていた。それは抑揚のない、感情の見えない声で。
「 自分が悪いと思う時だけだもんな。そうやって酔うのは」
「 ……私は悪くないよ」
「 一方的にあいつが悪いと思った時は、お前、喧嘩した後もいつもけろっとしているじゃないか」
「 ……今だってけろっとしているよ」
「 どこが」
  苦笑する光一郎の顔が容易に想像できた。友之はそっと上体を起こし、それから隣の部屋へ耳をすませた。
「 ……あいつがね……」
  裕子が言った。
「 あいつが…真剣に怒るのを見ると……もう本当怖いし……滅入る」
  どきんとした。
  修司の事を話しているのだろうか。 だとしたら「怒った」というのは修司の事なのだろうか。怒る? あの修司が。真剣に。
「 ……………」
  友之にはそんな修司の様子がどうしても想像できなかった。自分にとって第二の兄のような人である。優しくて頼りになって、自分の事を何でも理解してくれる不思議な人。居心地の良い人。
「 修司が悪党だって事、コウちゃんは知らないでしょう」
  そう言って裕子は自分の恋人のことを平然となじった。光一郎のそれに対する返答は聞こえなかった。
「 コウちゃんの前では、あいつはいつでも善人ぶって笑っているもの。トモ君に対しても。でもね、あいつはそれ以外の人には本当に冷たいのよ。本当にひどくて…ずるいのよ」
「 何がだよ」
「 ………コウちゃんやトモ君と仲良くしていること」
「 バカいうな」
  光一郎の多少語尾の強い声が友之の耳にすっと届いてきた。怒っているようではなかったが、同じ年の幼馴染をたしなめるような口調ではあった。
「 お前の言っている事の意味が分からない」
  そして追い討ちをかけるようにそう言った光一郎に、今度は裕子が強い口調で返してくるのが聞こえた。
「 修司がね、ムキになるのはコウちゃんが絡む時だけよ。だから私にもあんな風に怒ったのよ」
「 お前が俺の何を言ったって言うんだ」
「 ……………」
「 さっき話していた事は嘘なのか? 喧嘩の原因はあいつの女遊びなんじゃないのか? いつもの喧嘩と違うのか?」
「 そんな……たて続けに訊かないでよ……!」
  押し殺すような裕子の声。裕子は泣いているのだろうか。友之は次第に早くなる心臓の鼓動を抑えようと必死に手で胸元を掴みながら、そろりと掛け布団をめくり少しだけ寝床から移動した。光一郎の声がより聞こえやすくなった。
「 お前が訳の分からない事ばかり言うからだろう。それで修司は今何処にいるんだ。居場所、知っているのか」
「 知らないよ…。怒って怒鳴りちらした後、またどっかへ行っちゃったもの…。マスターに訊いても何も知らないようだったし……」
「 ……………」
「 もし居場所を見つけて今回の喧嘩の理由を尋ねたって、きっとあいつはコウちゃんにだって教えないよ」
「 何でだ」
「 くだらないからって」
「 くだらないのか」
「 ……………」
「 くだらないのか、喧嘩の理由」
「 ………そうよ」
  ヤケになったように裕子はそう言い、それから何かを煽ったようだった。光一郎の「もういい加減にやめろ」という声が聞こえたから、まだ何か酒を飲んでいたのかもしれない。あんな風にヤケになって酒を煽る裕子など、友之は知らなかった。
  ……もっとも、裕子という人間の何を友之が知っているのかと問われれば、恐らく友之自身は何一つまともに答えることはできないのだろうけれど。
「 ねえコウちゃん…。私だって…色々考えるよ…。いつだって能天気で煩いだけの女じゃないのよ……」
  テーブルの上でうつぶせにでもなったのだろうか。裕子の声は先刻よりもくぐもったようになった。
「 もうすぐ就職活動の事だって考えるよ…。女だしね…。優秀なコウちゃんと違って今から対策練らなくちゃ……」
「 いつだって優等生なのはお前の方じゃないか……」
  翳ったような光一郎の声。きっと光一郎は今裕子のことを優しく見つめてやっている。見なくとも友之にはその様子が容易に分かった。
( あ……?)
  けれど。
  そう思うと、何故だかは分からないけれど。

( 何……何なんだろう……)
  友之は自身で怪訝に思い、先ほどもやったように寝間着の上から自らの胸元をぎゅっと掴んだ。

  胸が、痛い。

「 裕子…おい、そのまま寝るな…」
「 ねえ…コウ…光一郎…眠いから…。このまま、もう、眠らせてよ……」
「 分かったからそのまま寝るな。おい……」
「 ねえ、光一郎……」
  今にも意識が飛んでしまいそうな裕子のか細い声。優しく介抱しているのだろう光一郎の吐息。それらが隣の部屋にいる友之に全て伝わってくる。電気を消した真っ暗な部屋の中で、友之は隣から漏れてくる小さな細い灯りだけを頼りに、ただじっと身を縮めていた。耳をすませていた。
  心細い気持ち。どうしてだか分からない、この気持ち。
「 ねえ、コウちゃん……」
  何度かそう言って光一郎を呼びかける裕子の声。甘く切ない、悲しい声。
  そして。
「 裕子……」
  光一郎の幼馴染を呼ぶその優しげな声が。
「 こ……」
  友之は思わず唇を開きかけて黙り込んだ。おかしい、おかしいと自分の中で何かが激しく警鈴を鳴らしている。
  どうしてだろう、裕子の光一郎への態度に不安なものを感じるのは。裕子が光一郎を好きな事、それくらい自分も知っている。それがどうしたというのだろう。裕子は少々お節介だけれど優しくて明るくて、いつも自分の力になろうと必死になってくれる人。
  いつもいつも、頑張って前へ進もうと輝いている人。
  何を心配することがあるのだろうか。

「 ねえ、光一郎。トモ君……どうするの……?」

  その時、不意に裕子のそう言う声が聞こえた。
「 何がだ」
  次いですぐに発せられた光一郎の声。いつもの無機的な声だった。
「 今のままなの…。ずっと今のままなの…。それなら…私だって……」
  途切れ途切れに出された、絞り出すような声。消え入りそうな声。
「 それなら私だって…たまにはさ…甘えたいよ……」
「 裕子」
「 はっ……でもそんなこと…できるわけ、ないか…」
「 ……………」
「 バカみたい……」
  それきり、裕子の声はもう友之の耳に入ってくる事はなかった。それに対する光一郎の返答もやはり聞こえはしなかった。
  友之は暗い部屋の中でただじっと、自らの意思で動かす事のできなくなっている身体を感じながら、ただその場にいる事しかできなかった。



To be continued…



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