これから、少しずつ
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「これ見た時、私もうピカッて頭の上が光り輝いちゃったの! これは絶対トモ君に着てもらうしかないって! そもそもこれはトモ君の為に作られた物に違いないって!」 「………」 「裕子」 あまりの勢いに何も言えなくなっている友之に代わり、じっと様子を窺っていた光一郎が呆れたように口を挟んだ。 「お前。それ、幾らした?」 「え? いいじゃない、値段なんかどうだって。お母さんと買い物行った時見つけたやつだからね、半分ずつ出し合ったし。大した出費じゃありません!」 「お前…! おばさんにも金出させたのか!?」 光一郎が驚き焦ったような声を出すと、とにかく大興奮中である2人の幼馴染―神部裕子―は、「いいからいいから!」と顔中に笑い皺を作り大袈裟に片手を振った。 「もう、そんな事気にしないでよ。むしろあの人の方が乗り気だったんだから。『これ絶対トモ君に似合うわよね!』、『もう絶対着させたい〜!』って。そりゃもう大騒ぎよ。お店の人に『息子さんにですか?』とか訊かれるのを普通に『はい、もうすっごく可愛いんですよ!』とかデレデレして答えてるの。ふふふ」 未だその「戦利品」を友之の身体に押し当てながら、裕子はぺらぺらと実に楽しそうに喋り続けた。その間もにやけた顔は全く元に戻らない。 「裕子、お前な…」 しかし生真面目な光一郎としては、裕子だけならばともかく彼女の母親までが「それ」に出資したと聞いて気が気ではない。今までは台所から遠巻きにその様子を眺めていただけなのに、今はもう2人の傍に歩み寄って「笑い事じゃないだろ」と仏頂面だ。 「………あの、裕子さん」 勿論、それは友之とて同じ事だ。 以前から裕子は誕生日だとかクリスマスなどとは全く関係なしに気紛れで友之に贈り物を持ってきた。それはとてもありがたいし嬉しい事には違いない…が、やはり光一郎同様「こんなにしてもらって」という躊躇いを消す事はできないのだ。 裕子が提案してきたその内容自体は凄く魅力的なのだけれど。 「こういうの…やっぱり高いよね」 はしゃぎ続ける裕子に、友之は上目遣いとなって恐る恐る訊ねてみた。 裕子は一見しっかり者だが、料理をする時などに何も考えず大量の食材を買い込んでくる事からも分かるように、基本的に金銭感覚というものがない。計画性も皆無であるし、実はかなり大雑把な性格だ。しょっちゅう人に金の無心をしてくる修司よりはマシだろうが、彼女自身、両親には既に相当な借金を抱えているはずであった。 けれども、金に対し至極まっとうな感覚を持つ北川兄弟を前にしても、当の裕子はびくともしない。 「もうっ。そんな事全然気にしなくていいの、トモ君は! コウちゃんもやめてよね! コウちゃんが気にするからトモ君だってこんな心配しちゃうんでしょ!? あのね、ちょっと冷静に考えてみて! 今って何? 夏でしょ! 夏休みでしょ! って事はあれよ、やっぱり花火でお祭りでしょ? 屋台でりんご飴とたこ焼き食べなきゃー!」 「………」 「………」 「そんな時にこれ! 浴衣がなくてどうするのっ!?」 「いや…そんな事力説されてもな」 珍しく引き気味の光一郎には構わず、裕子は尚もまくしたてる。両手にびらりと広げたそれ―友之の為に買ってきた浴衣―を広げて。 「これねっ。京都にある有名な着物屋さんが作った浴衣なのよ! しかも、この柄のは売り切れでもうないの! まあ私としてはね、本当はピンクとか黄色とかの方が良かったんだけど、お母さんが『それじゃ女の子みたいだからトモ君が嫌がって着てくれないかもしれない』って言って。それでこの人気商品って聞いた浅い鉄紺色のにしてみたんだけど。これもさり気なく薄ピンクと薄紫の花と蛍が光ってるから、地味過ぎって事はないでしょ。帯も明るい水色だし!」 「あ…本当…蛍」 裕子に言われて友之もその模様に気がついた。 宵闇のような生地に咲く桔梗の花には、ぽつぽつと小さな蛍がとまっている。まるで今にもそこから飛び出して本物の光を放ってきそうだ。友之が誘われるようにしてそこにそろりと触れてみると、肌触りの良い綿の衣地が指に心地良い感触を残した。 「……っ」 友之の顔はそれで自然に綻んだ。 「明日から始まる町内のお祭り、商店街だけじゃなくて熊井神社の方まで屋台がずらっと並ぶって。通りの河川敷から花火も見えるだろうし。ね、行ってきなさいっ。絶対! 2人で!」 「え?」 裕子の言い様に友之がきょとんとなると、光一郎も不思議そうな顔をした。 「お前は?」 「私はデートだから無理」 「え?」 「だから。デート!」 「それ、修兄…」 「あ、でもトモ君の浴衣姿は絶対写真に撮ってきてね! 言っておくけど、修司は今いないから。もしいてもあのバカには撮らせないように! というか、トモ君の浴衣姿なんて絶対見せないように! これ買ったの私なんだから!」 友之の問いかけに間接的な形で返答しながら、裕子は光一郎をびしりと指差し「コウちゃんが撮るんだからね!」と念を押した。そして更に、彼女は傍に置いていた紙袋から帯と同じ色の花緒の桐下駄、同じく水色の三角袋を取り出して、実にうっとりした様子でそれに頬擦りをし始めた。 「これも可愛いよねえええええ」 「………」 小物まで揃えたのかと光一郎の方は最早声もなかったが、友之もそんな兄とはまた別の意味で言葉がなかった。 浴衣など今まで着た事はなかったし、祭りなどというそれ自体とも無縁だった。 《あんなもの、人がいっぱいいて鬱陶しくて、面白い事なんか何もない》 《夜に外に出て蚊に刺されて、気持ち悪い羽虫もいっぱい飛んでいるし》 《私は嫌い》 《ね、トモちゃんだってそうだよね?》 ……そう同意を求める姉の夕実に、友之はずっと囚われていた。一定の時期になると決まって聞こえてくる太鼓の音をひどく遠くに感じながら、友之はただ独りの自室に篭もっていた。そしてそれを強制した当の姉が学校の友達と盆踊りに行った事を後で知り、さすがに悲しくて泣いてしまった事も苦い思い出の一つである。 「祭りね……」 「!」 その時、口元でぽつりと呟いた光一郎に友之はぎくりとして顔を上げた。―と同時に、ふと思った。 そういえば光一郎は祭りに行った事があるのだろうか? 「………」 たった今紡がれた声の調子だけで判断すれば、光一郎が祭りというものに対し好意的な感情を持っているとは思えなかった。元より人付き合いは良いが、己の事は他人に明かさない人だ。嫌いなのだろうかとそっとその顔色を窺っていると、そんな友之の様子に裕子が気づいた。 「コウちゃん」 彼女は明るい調子でその場の空気をさっと変えた。 「まさか行かないなんて言わないわよね? 知ってるんですからね、明日はバイトも入ってないでしょ!」 「何でお前がそんな事知ってるんだよ」 「企業秘密」 ふふふと笑ってから裕子は友之を見やり、勢い良く続けた。 「とにかくね。たとえコウちゃんが行かないって言ってもトモ君は行くよ。ね、トモ君? だってこんな素敵な浴衣があるし! 何よりトモ君、すっごく行きたいって顔に書いてあるし! いいの? そんなトモ君を一人で行かせたら大変よ〜。こ〜んな可愛い浴衣着て行くトモ君だよ? 行ったが最後、無事に家には帰ってこられないかもね!」 「……馬鹿」 光一郎はため息交じりに言った後、「行かないなんて言ってないだろ」と憮然として呟いた。そのせいで友之としてはますます「光一郎は行きたくないのか」と落ち込む事になったのだが、それでも裕子にだけ任せているのは駄目だと思い切って口を開いた。 自分の気持ちははっきり言わねばならないという事は、もう十二分に分かっているつもりだから。 「コウと行きたい」 「ん…」 友之の声に光一郎がすっと視線を寄越してきた。 「一緒に行きたい…」 「そうだよねえ!」 するとすかさず裕子が嬉しそうな声をあげた。 「うん、そうだよ! 一緒に行きたいよね!」 「うん」 裕子が自分の事のようにそう言って喜んでくれた事も友之には嬉しかった。 「裕子さん」 だから自然ふわりとした笑顔を浮かべると、友之はそんな優しい「姉」に向かって今度はもっとはっきりした声を出せた。 「これ、ありがとう。あの…いつかちゃんと僕も…働くようになったら、裕子さんにもプレゼントするから…」 「あ……あははははっ! やだ〜もう、いいのいいの、気にしないで! もう、そんな事言ってもらえるだけで嬉しいよう〜!」 「わっ」 急にぎゅうと抱きしめられて友之は思わず身体をばたつかせたが、裕子は興奮した気持ちを抑えられないのか、なかなかその拘束を解いてはくれなかった。友之は焦ったように傍の光一郎に必死の目を向けたが、しかし当の兄は未だ呆れきったような苦い笑いを浮かべるだけで特に助け舟を出す気配は見られなかった。 もっともその時の光一郎からは先ほどの憂鬱さは陰を潜め、どこか微笑ましいものを見るような楽し気なものに変わっていた。 「………」 だから友之もそんな兄の様子に安堵が広がり、自分も裕子に抱きしめられながらほっとした笑みを返した。 翌日。 夕刻になって家を出るまで、友之はとにかく落ち着かなかった。 「トモ。あんまりきょろきょろしてると人にぶつかるぞ」 「うん…」 2人が住んでいるアパートと実家とはさほどの距離もないが、裕子が勧めてきた「町内のお祭り」は実家周辺の地区が企画したものではない。夜店だけでなく夕刻の時間ならお神輿も見られるからと最初に向かった神社も、昔友之が夕実と初詣に行った所とは違う初めての場所だった。 「凄く明るいね…」 赤い鳥居を潜って拝殿まで真っ直ぐに続く石畳の道は、友之が以前見た神社とは桁違いに大きく長いものに感じられた。道の両脇に連なるたくさんの屋台と、それに沿うようにして延々と続いているような色とりどりの提灯も綺麗で眩しくて夢のようだ。こういったものを初めてまともに目にした友之は、もうそれだけで胸がいっぱいだった。辺りから聞こえてくる太鼓や笛の音も耳にくすぐったいようで、友之はいつまでもその場に留まってこれらの光景を眺めていたいと思った。先へ進むのは何だか勿体ないような気がしたのだ。 「トモ、どうした」 「あ…」 けれど当然の事ながら、いつまでもこんな人ごみで立ち尽くしているわけにはいかない。既に先を行っていた光一郎に呼ばれて、友之は慌てて駆け出した。 からころと歩く度に鳴る桐下駄の音が何やらよく響いた。光一郎もそれを感じたのだろうか、「歩きにくくないか」と訊きつつもどことなく面白そうに目を細めている。 「うん。これ、いい音だね」 「あ…カメラ持ってくるの忘れた」 やっとこ自分の傍に追いついてきた友之に、光一郎がふと思い出したようになってそう言った。友之は桐下駄に目を奪われていてそれに対する反応が一瞬遅れたのだが、当の光一郎も長く迷う事はなく、口にはしたもののすぐに「まあいいか」とあっさり結論付けた。 「家帰ってから撮ればいいよな。トモも覚えとけよ」 「写真撮るのを?」 「忘れたなんて言ったら、あいつ煩そうだろ」 昨日さんざん喚き散らしていった幼馴染の様子を思い出したのか光一郎が肩を竦めた。友之は足の長い光一郎の歩幅に必死にあわせようと早歩きになりながら「でも」とその背に声を掛けた。 「家でいいの? 裕子さん、神社行ったところ撮ってって」 「え、そんな事まで言ってたのか。何で?」 「ちゃんと2人で行ったか確かめる為だって」 「何だよそれは…」 光一郎は再度苦笑しながらその発言は軽く流してしまった。 「………」 けれど友之としては裕子がそう言ってくれたのも「祭り好きでない」光一郎を無理に押す為だった気がして、やはり心に引っかかりを残していた。光一郎は今日友之が浴衣を着るのも手伝ってくれたし、昨日とは違って別段憂鬱そうな表情も見せていない。むしろ先ほど自分と一緒に桐下駄の音にどことなく嬉しそうな様子も見せてくれた。だからきっとこの心配も思い過ごしに違いないと頭では思うのだが、悲観的な性格は早々直せるものでもないらしい。 思わず俯いて歩いていると、不意に光一郎がぴたりと足を止めた。 「あっ」 「こら」 突然の事に、そのまま光一郎の背に激突した友之は、不意に振ってきたその声に慌てて顔を上げた。 「下向いてたら意味ないだろ。ほら、店たくさんある」 「う…うん」 「……もしかして俺が歩くの早かったか」 「ううんっ」 慌てて首を振ると、光一郎は困ったように笑いながらも友之の頭をゆっくりと撫でた。それが嬉しくて友之もようやっと笑顔になり、改めてきょろきょろと辺りの店や人に視線をやった。はじめこそ浴衣姿が気恥ずかしかったが、ここではそれも特別な事ではない。勿論光一郎のような普段着姿の人間の方が多かったが、少なくとも自分は今決して異質な存在ではないという事は認識できた。 「あ…コウ、あれ綺麗」 そしてふと、一番最初に目に入った物を指差した。 「キラキラしてる…」 「ん…ああ、ラムネか。飲むか?」 「いいの?」 「当たり前だろ」 「はーい、らっしゃい! 1本100円ねえ!」 背中を押す光一郎に友之が途惑いながら店のすぐ前まで行くと、麦わら帽を被った半ズボン姿のおじさんが陽気な声で栓を抜いた青い瓶をすっと差し出してきた。 「………」 友之は一度光一郎を見上げた後、まじまじと瓶に目を落とし、やがてそっと口をつけた。 「あ…」 「美味いか?」 「うん」 ラムネを飲んだのはこれが初めてだった。何となくサイダーのようなものを想像していたが、それよりは喉に当たる刺激が軽い。けれど友之にはむしろそれがちょうど良かった。スッとしているのに口の中に仄かに残る甘味と香りに夢中になって、後はただもうごくごくと飲んだ。 「あ…っ」 そうして自分ばかりが飲んでいる事に気づいたのは瓶の中の液体も残り僅かとなってからだ。友之は決まり悪そうにしながら慌てて光一郎を見上げた。 「何?」 「コウも…」 「ん? 俺はいいよ。ちょっと苦手」 「え?」 あっさりとそう言われ、友之は拍子抜けしたようになってから改めて手元の瓶を見つめやった。それからもう一度光一郎を見上げる。光一郎はじりじりとした湿気の多い夜気の中でも相変わらず涼し気な顔をしていた。そうして自分の事を見つめる友之に気づくと自らもすっと優しそうな笑顔を寄越した。 「……っ」 それに思わずどきりとして友之は慌てて視線を逸らした。 光一郎の顔を見る事には慣れているはずなのにどうにも落ちつかない。いつもと違う場所にいるせいだろうか、友之は光一郎の事を普段より更にずっと「格好良い」と思った。 「ビー玉、取れるか」 その時、光一郎が何気なく瓶を指差して言った。 「え?」 「うちのは取れるよー」 ラムネ売りのおじさんがのんびりとした様子で口を挟んできた。それに促されるように友之が目を落とすと、なるほど瓶の底に青緑のガラス玉がキラリと光っているのが見えた。友之は急いで残りのラムネを飲み干し、瓶を斜めにしながら指を差し入れ何とかそれを取り出そうと苦心した。 しかし口のところで突っかかってなかなか取る事ができない。 「貸してみろ」 すると光一郎がさっと取って、一体どういう魔法を使ったのか、実にあっさりと中からその目的の物を取り出してしまった。友之が驚いたように目を見張っていると、傍にいたおじさんも「お兄さん器用だねえ」と感心したように唸った。 「ほら」 「うん」 友之は光一郎からガラス玉を受け取り、瓶はおじさんに返した。そしてその後はすぐに手の中の物を目の前に翳し、じっとその丸いガラス玉を瞳に映してみた。 綺麗だ。 ずっと見ていたい。 「トモ。行くぞ」 「あっ…」 ふと気づくと光一郎の方はもう大分前を歩いている。友之は慌ててビー玉を三角袋に入れると、再びからからと下駄を鳴らしながら光一郎の後を追った。 |
後編へつづく… |