穏やかに



『ふん……、友之か。久しぶりだな』
  ――その電話はある日突然やってきた。



1.友之side


  この小さな木造アパートで光一郎と二人だけの生活を始めたばかりの頃、友之は電話を取る事が出来なかった。電話だけではない、基本的に他者との接触を持つ事に極度の怯えと躊躇いを抱いていた友之は、隣人が荷物を預かっていた等の理由で玄関のブザーを鳴らしてきても、耳を塞いでわざと居留守を使ったりしていた。そのあまりに情けない態度に光一郎も最初こそ呆れたように「それくらいは出来るだろ」などと言って憮然としたが、暫くするとすっかり諦めて特には何も言わなくなった。
  けれどそれほど当時の友之の心は固く閉ざされていたし、仮に本人がそれをどうにかしたいともがいていたとしても、その想いはちらとも表に出る事はなかった。だから光一郎の方でもそんな友之をどう扱ったら良いのかと困惑する部分が多かった。
  それが互いに寄り添う時間が増え、周囲の者たちの温かさに触れていく事によって、本当にゆっくりとではあるが友之は徐々に良い変化を見せるようになった。
  たどたどしくとも己の考えは口にするよう努力する。知らない事は極力学びたいという前向きな姿勢を見せる。光一郎に任せきりではなく、出来うる限り自分に出来る事は手伝いをする。……一見、何もかも当たり前の事のようなそれらは、しかしこれまでの友之にとっては全てが前進だった。そしてそうやって確実に成長していく事を周囲は勿論、光一郎もとても喜んでくれた。その事が更に友之の心に勇気を植え付け、「もっと頑張ろう」という想いを強くさせた。

  だから、その日も。

「はい…」
  突然激しく鳴り響いたその音にも友之は躊躇なく反応する事が出来た。その日は光一郎が例によって帰りの遅い日で、友之は一人の部屋で黙々と学校の復習作業に取り掛かっていた。期末テストは終わって後は冬休みを迎えるばかりだったが、年明け、友之は数馬と沢海が通っている予備校で新2年生対象の実力テストを受ける約束をしていた。友之はまだ一年だが、出来れば高校卒業後は福祉を学べる大学に進みたいと考えていた。専門学校も選択肢の一つに入っていたが、友之の希望を聞いた光一郎がここから通える近場の福祉大を目指したらどうかと言ってきたのだ。だから、まだ先の事はよく分からないけれど勉強しておくに越した事はないと、友之は沢海から持ちかけられた実力テストの話に頷き、ここ最近はずっとその為の対策に取り掛かっていたのだ。
  その勉強の真っ最中だった。部屋の電話が鳴ったのは。
「はい…北川です」
  以前は頑張って受話器を取っても、そのまま黙りこんでしまう事もあった。けれどこの時は特にはっきりとした声で言えた。それは友之のささやかな喜びに過ぎなかったが、それでもその事に密か満足していると、当の電話の主は暫し沈黙した後、「…ああ」と思い出したような声を出した。
「……っ!」
  けれど、友之はその低いくぐもったような反応だけでハッとし目を見開いた。
  すぐに誰か分かった。
『ふん……、友之か。久しぶりだな』
「………」
  声はもう出なかった。
  相手の微か嘆息が入り混じったような蔑んだ声。「久しぶり」などと言いつつ、ちっとも懐かしんではいない、むしろお前の声などは別に聞かなくとも良いというようなその口調。
『光一郎はいるか』
  そして電話の主は直後すぐにそう言った。
  やはりだ。友之と話す事など自分には何もないという風だった。
『電話を掛けてこいと何度留守伝に入れてもなしのつぶてだ。あいつは一体何をしている? 司法試験を受けたという話も聞かないし、やる気あるのか? まさか卒業までに受かればいいなんてふざけた事を考えているんじゃないだろうな。アルバイトばかりしているようだが』
「………」
『………聞いているのか』
「………」
『友之』
「あっ……」
  再度呼ばれて、ようやく喉の奥から声が出た。それでもそこの部分がひりひりする。友之は途端どっと冷たい汗を掻いて、手にした受話器をぎゅっと握り直した。眩暈を感じたが、手を離す事は出来ない。ただバカみたいにぎっと耳を済ませ、相手の声を一言も聞き漏らすまいと唾を飲み込んだ。
  本当は何か言わなければいけないのに。
  こんな事ではまた軽蔑されてしまうのに。
『相変わらずだな』
  いつまで経っても友之にまともな人語が発せられない事を悟り、電話の相手はあからさま呆れたような声を出した。
  それによって友之はズキンと胸を痛め、またその場に倒れそうになったのだが、それでも、もうずっと聞いていなかったその声を「懐かしい」と感じた事も事実だった。
  たとえ向こうにそんな感情がなくとも、友之はそう思ったのだ。懐かしいと。

  だって『父親』だ……血は繋がっていなくとも、ずっと本当の父だと信じて一緒に暮らしてきた人なのだ。

『まあいい。聞いているならそのままそうしてろ。聞く気がないなら電話を切れ。いいか』
「………」
『……聞く気があるという事だな』
  友之の無言を返答と受け取り、父は一人で勝手に話し始めた。
『光一郎に伝えておいてくれ。今度の日曜、家に帰ってくるように。時間はいつでも構わない。俺は夜まで帰って来ないが、加奈子(かなこ)がいる。あれも光一郎とはもっと話がしたいと言ってるんでな』
「………」
  加奈子という名前には聞き覚えがあった。もしかすると友之も一度くらいは顔を合わせた事があるかもしれない。それは父・晴秋(はるあき)の再婚相手――友之の母・涼子が亡くなった後、北川の籍に入って父の妻を名乗るようになった友之の『義母』だ。
  もっとも友之にとって義理だろうが何だろうが、顔も覚えていないような相手を「母」と見なす意思はまるでなかったが。
『……光一郎に言っておけ』
  父はひたすら反応のない電話を前に淡々として続けていた。
『いつまで意地を張るつもりなのか知らないが…家族なんだから、たまには帰ってきて近況報告の一つでもしろ、とな。大学を出た後、どうするつもりなのかも聞くつもりだ。これでこっちも大分妥協してやってるんだ』
「………」
『聞いているのか? ……ああ、もういい』
  いい加減何も発しない友之に痺れを切らせたようになり、父は今までで一番大きなため息をついた。そうして一刻も早くこの電話を切りたいとばかりに早口となると、友之の胸に直接突き刺すような冷たい声を放った。
『お前がそうやっていつまで光一郎に甘えているつもりなのかは知らないが、あいつの邪魔にだけはなるな。あれには普通の奴にはない未来がある。お前には分からないだろうが、あいつの可能性を潰すような真似だけはするなよ。……いい加減きちんとしろ』
「………」
『分かったのか。どうなんだ? ……友之ッ!』
「あ…っ!」
『……フン』
「…ぁ…あ…」
  けれど友之がようやく父に向かって言葉を出そうと乾いた唇を開いた時には、もう遅かった。
「お、お父……」
  ガチャン、と。
  耳が破れてしまうのでないかという程の大きな音がして、電話は無情にも切られてしまった。
「………」
  友之はじんじんとした耳を意識しながら、切れてしまったその受話器を蒼白なままじっと見つめやった。
「お父、さん……」
  そっと呼んでみたものの、相手はもうここにはいない。
  友之は耳だけでなく、頭の中までがじりじりと痛めつけられるような感覚に苛まれながらぐしゃりと顔を歪めて唇を噛んだ。





2.光一郎side


  光一郎は来週のクリスマスイブを前に困惑していた。
  というよりも、疲れ果てていた。
「まったく…」
  意図せず愚痴が零れそうになり、慌てて誤魔化すような所作でジーンズの尻ポケットに仕舞っていた携帯を取り出す。現在の時刻を確認しようとそれに目を落とすと、もう時刻は22時を回っていた。
(全部あいつらのせいだ…)
  心の中だけで毒づいて、光一郎は歩くペースを更に速めた。長身で足の長い光一郎が颯爽と歩く様は、本人の心情と関係なく周囲の人間の目をどうしても惹き付ける。特に女性は光一郎の存在に気づくとほぼ例外なく足を止めるか振り返るか、或いは頬を染めて連れに何事か囁くかする。これが友之だったらあからさまに過ぎるそれらの視線に怯えて一歩も外へ出られなくなるかもしれない。
  ただ、「テレビとかモデルの世界に興味ないですか?」といった類の声掛けはあまり受けた事がない。周囲の人間はこぞって色々誘われるだろうと興味津々の目を向けるが、実際に誘われた回数で言うなら親友である修司の方が遥かに上だ。修司の方が見た目も言動も派手だし、発する雰囲気からしてそもそも華やかで明るいから…という理由もあるだろうが、もう一つ考えられるのは、光一郎の生活範囲が基本的に恐ろしく狭いという事が挙げられた。
  光一郎は家と大学とアルバイト先と…あとはせいぜい普段の食事の買い出しに近場のスーパーへ行くくらいで、それ以外の場所へ行く事が滅多にない。昨今の大学生が大学生らしい生活として謳歌しそうな飲み会もデートも、そして旅行も。光一郎には全く興味のないものだった。光一郎は昔から家と縁の深かった工藤という弁護士が営む法律事務所で雑務のアルバイトをしているが、それが夕方以降ほぼ毎日入っている上に、加えて日々の大学講義、それに対するレポート作成、司法試験対策の為に出席している勉強会などが容赦なく組み込まれていた。おまけに光一郎を気に入り目を掛けてくれている教授の強い勧めで、光一郎は自分が通っている大学以外にも、そこと提携している私立大学へも週一で授業を聴きに行っているから、本当に身体が幾つあっても足りない状態だった。勿論、大学の中には同様に司法試験対策と称してWスクールをする者はいるが、光一郎の場合、バイトと大学と試験勉強と、更に「家の事一切合財を取り仕切る=友之の面倒を見る」という任務まであった。
  友之に食事をさせなければならない。洗濯をして掃除をして、やっと少し時間が出来たら、友之の勉強を見てやらねばならない。勿論、光一郎が「義務」と感じてそれらをこなしてきた事はないが、傍から見ればおかしな事には変わりなかった。もういい年にもなった高校生男子を兄の範疇を越え、親のような態度で食事だの勉強だの将来の事だのの心配をする。気弱な弟が外で何かダメージを受け熱を出したとなれば、寝ずに傍にいて看病する……。誰がどう見ても、「お前、やり過ぎ」と肩を竦めるような事を光一郎は黙々としてこなしていたのだ。
  今では友之も少しずつ元気に、そして光一郎の手伝いがしたいと積極的に動くようになったけれど。
(ちゃんと飯は食ったのか…。今日は正人も仕事みたいだし)
  友之を想いながら光一郎は暗く底冷えのする街並を急いだ。
  今日は友之が食事の支度はいらない、大丈夫だ、自分の分は自分で何とかするというから放っておいたけれど……やはりこんな風に心配しなければならないなら、何か一品でも作り置きしておけば良かったと思ってしまう。それでも普段は光一郎の帰りが遅い事を知ると、中原や裕子あたりが言わずとも様子を見に行って友之に何か食べさせてくれるのが常なのだが、今日はその「兄」も「姉」も手が離せない用事がある事を知っていた。
「………」
  というか、中原や裕子だけでなく―。
  光一郎は自分達兄弟の周りにいる人間達のここ数日間の予定を全て把握していた。
(あー……また思い出しちまった)
  色々と頭の中で忙しなく巡る思考のせいで、光一郎は駅に降り立った時まで抱いていた困惑というか疲弊を蘇らせてはっと小さく息を吐いた。
  光一郎の帰宅が予定以上に遅くなったのは大学の友人某3人組のせいである。
  以下、その某人達の会話。

「なあ光一郎。日曜日のイブの件なんだが、私が練りに練った素晴らしい計画を聞きたくないか?」
「そんなの聞きたくないに決まってんだろッ! なあなあ光いっちゃん、やっぱTDLにホテルでディナーコースじゃあんまりベタ過ぎるかなあ? でもさでもさ、そこには勿論、俺の特製特大クリスマスケーキがついてるから! そんじょそこらの定番コースとは色合いが違うと思うんだよね!」
「ユユ、ユズルのケーキなんか、クククリスマスじゃなくても食べているんだから、もももう、珍しくも、なな何ともないだろう。やはり、ふふ普段は経験できないような事をしてあげるのが、いい、いいと思うんだ」
「フン、ハカセ。ならお前が友之にその《普段は経験できないような事》をさせてやれるって言うのか? どんな考えがあるのか知らないが、この私が練った『豪華山荘で蝋人形の館・心霊体験ツアー』の方が絶対友之も喜ぶし興奮するし、最高なイブに出来るに決まっている」
「お、お前! ハルナ! その山荘ってあの電波入らないスッゲー山奥の、お前が趣味で造らせたおっとろしい洋館だろう!? 駄目だ駄目だ、あんな怪しげな所に友之君を連れこむなんて! 俺は絶対認めないからな! 大体、友之君が怯えちゃうだろ、あんな所! 何が心霊体験だよ!?」
「フン甘いな。友之はな、怖い話・不思議な話が大好きなんだ。こちとら既に友之の趣味・嗜好はリサーチ済みだ。この話をしたら友之は絶対に私の特別山荘に来たいと言うに決まっている」
「ハハ、ハルナの事だから、友之君をあの館にあった、ろろ、蝋人形にして、そのままケースに入れる可能性も、あ、ある…! ユユ、ユズル。こ、これは絶対に阻止しよう。それだけは」
「おう! 当たり前だ!」
「ハカセ……貴様ッ!」
  その後もぎゃあぎゃあといつもの如く喚き散らす三人が結局何を言いたいのかと言うと、要は「クリスマスイブ、自分らの中の誰か一人、友之とデートさせてくれ」という請願で。
  勿論光一郎はそんな彼らには殆ど耳を貸さず徹底的な無視を決めこんだのだが、それを逆恨みされて図書館で勉強するところをとことんまで妨害されたものだから、すっかり予定を狂わされてしまった。
  それに、今日の話ではないが、この三人だけではないのだ。
  光一郎にその手の話をしてきたのは。
  以下、友之が預かり知らぬところで交わされた電話の内容。

『なあなあコウ! クリスマスイブはチームのみんなでパーティと言う名の飲み会をするんだけどさあ、勿論トモも連れて行っていいよな!』
「……は?」
  電話の主はチームでは自ら「若者組」を名乗る椎名だった。普段は医療機器メーカーに勤務する至って普通のサラリーマンなはずなのに、彼は何故か友之の事となると途端人が変わったようにハイテンションになって病的になって、中原曰く「危険人物」となる。
  その彼は今日も今日とてとても光一郎より年上とは思えぬウキウキとしたはしゃいだ口調でぺらぺらと続けた。
『だーいじょうぶだって! トモには絶対飲ませないから! んなの正人が許すわけないしさあ。そうそう、心配ならコウも来ていいからッ! お前最近全然来てくれねーけど、昔は助っ人要員としてうちの一員でもあったわけだしよ。まあ、そうは言ってもイブだかんな、やっぱコウくらいになると大学の可愛いどこからたくさん声掛けられたりしてるんだろ? あー、そうそ! だからさ、たまには俺達が弟の面倒からお前を解放してやるぜ! どうよ!? あー、しかしモテる男は羨ましいねえ、憎いぜこのッ』
「は、はあ…」
『でさでさ、トモは来てくれるかなあ? みんなすげー楽しみにしてんだよなあ。誰が一番トモに喜んでもらえるクリスマスプレゼントをあげられるかって勝負をするんだよ! 問題は数馬の奴なんだが…あいつを無視すると、『チーム最年少のトモにだけ特別にプレゼント』って言い訳がつかなくなるだろ? トモって遠慮深いから、自分だけ貰うってなると困っちゃうかもしれないもんなあ。くーっ。そういうところもまた可愛いんだけど!』
「……あの、椎名さん」
『けどよー! みんなの間で、何であのバ数馬に大枚はたいてプレゼントなんぞしてやらなきゃならないんだ?って話になったんだよな! あいつはとにかく生意気過ぎるぞ! 本当にトモと同じ年か、あれ? 俺ら大人をなめきったあの態度! そして何よりトモに無茶苦茶懐かれてるってとこが許せん! いっつもトモ、数馬とばっか引っ付いてるしよお。正人は正人でトモガードしてて滅多に触らせてくんねーし』
「………触る?」
『で、どうどう? トモ、別に用はないだろ? 正人が『トモを誘うなら光一郎の許可がないと駄目だ』なんつってさー。俺が代表で電話してるってわけだ! そ、それにさ……ははは、正直、実はトモに直接訊くのも何つーか訊きづらいって言うかな。あんま反応薄いとショックじゃん?』
「あ、すみません。あいつ椎名さん達に失礼な態度取ってるんですね。せめて挨拶くらいはちゃんとしろって言ってあるんですけど」
『あ、ああ、ごめん! 違う違うッ! 全然大丈夫ッ! 前、前の話! 前はさ、話しかけても本当リアクションなくて、何ていうか俺らも困ってたとこあったけど…いやいやっ。けどさ、今は本当すげえよ、トモ。ちゃんと頑張って俺らの事見て話そうとしてるの分かるもん。何かな何かな、それで、そういうとこ見ると《キューン》ってしちゃうんだよなあ! ははは、昔なくしたはずの純情を思い出すってやつ?』
「はは…」
「とにかくトモは最高可愛いっ。俺らの癒し系アイドルだから!」
  その後も永遠に続くかのような椎名の「トモ絶賛」に、光一郎はあわせて相槌を打ちながらひたすら苦笑した。
  とりあえずパーティの件は友之に聞いてみると言って電話を置いたが、チームの全員が一人ずつ考えているというプレゼントの件は丁重に辞退した。椎名は「コウに事前に言ったらそうなるに決まっているから絶対言うなってみんなから言われてたの忘れてた。俺がみんなに怒られる!」と焦りまくっていたけれど、光一郎としてもここだけは譲れなかった。
  友之を可愛がってもらえる事はとてもありがたい。
  はじめは駄目元だった。家に閉じこもり、修司としかまともな会話を交わさない友之が、果たして大人たちの野球チームなどに混じってうまくやっていけるのかと。幾ら昔野球が好きで中原がいると言っても、あとは友之にとって全く知らない人間たちだ。余計に怯えて余計に外に出るのが怖くなるのではないか、そんな不安も勿論あった。
  それが今はどうだろう。考えようによっては高校の部活動でないところが逆に良かったのかもしれない。皆、友之が自分たちより随分と年下だからと大目に見てくれるところもあっただろうし、毎日ではなく週末決まった時間だけの活動というのも都合が良かった。友之はあらかじめやらねばならない事が分かっていれば結果はともかくそれにはきちんと取り組めるし頑張れる。だからあの頃何もする事がなく一人きりで部屋にいた友之が、たとえ週に一回でも外へ出てあの陽気な大人たちと気楽に汗を流せた事は本当に良い事だったのだ。
  また、そこには数馬という同年代の少年もいたから。



「どうだろう、光一郎君。クリスマスイブに是非友之君を我が家に招待したいんだが」
  光一郎は友之の事に関して数馬には感謝している。
  修司、正人、それに裕子。皆一様に年が上で、友之も彼らを光一郎同様、兄や姉のような気持ちで下から見上げるのが常だ……が、数馬は別である。数馬自身がどう思っているかは知らないが、少なくとも友之は数馬を自分と同じ年の「友達」だと思っているし、対等な関係でありたいと願ってもいる。希望している段階で既に一歩も二歩も遅れを取っている事は間違いないが、それでも二人の関係を光一郎は時に複雑な想いで見守る。友之が多少の背伸びをしながら必死に数馬の背中を追うのを、数馬はいつもの馬鹿にしたような毒のある態度で突き放しながら、しかし最後には必ず振り返って友之が自分についてきているかを確認するのだ。口は悪いが数馬とはそんな少年だった。
  だから、たとえ椎名が言うように「トモは数馬にばっかり懐く」という言葉に引っかかりを覚えたとしても、光一郎は友之が望むのならば数馬とはこれからも仲良くすればいいと思っているし、その為なら自分の中に巣食うほの暗い感情を押し隠す事も造作ないと思っている。
  しかし……。
「いやあ、普段から愚息も友之君には多大な世話を掛けているようだし。是非お礼を兼ねてお持て成ししたいのですよ。うちの者も家族使用人一同、友之君が来てくれる事を心待ちにしていましてね」
  嬉々としてそう光一郎に話してきたのは数馬の父、数成であった。
  一体何を考えているのか、大体この平日に仕事はどうしたのか。日本で押しも押されぬ大企業・香坂グループの総裁を務めているはずの彼は、イブの一週間前突然光一郎の通う大学へ悠々としてやって来て、そんな事をいきなりぺらぺらと話し出したのだった。
  しかも、ぎょっとする光一郎を殆ど拉致の体で傍のカフェに連れ込んだ数馬父は、恐ろしい事に友之だけでなく何故か光一郎のこれまでの学業成績や現在の生活についても実に良く知っていて、しきりに「感心だなあ」などと反応に困る発言を繰り返した。……加えて一見どうでも良さそうな世間話から始まり、後半は光一郎の卒業後の進路にさり気なく探りを入れてこようとするものだから、これにはさすがに辟易してしまった。
(冗談じゃないぞ、数馬の親父の会社なんて…)
  瞬時頭に浮かんだその嫌過ぎる予感にたらりと心内で冷や汗が流れた。だから適当に話を合わせた後は早々に席を立ったのだが、それでも去り際「友之君によろしく。良い返事を期待していますよ」と言われたら、「本人に聞いてみます」と答えるよりなかった。
  ちなみに数馬は何故かその計画を知らされていないようだが、途中で彼がそこに参戦する事は間違いないし、第一それは光一郎には関係のない話だった。

  とにかく。
  友之は引っ張りだこ状態だった。

  もしかするとクラスメイトの沢海や橋本、それに最近富に仲の良い光次あたりからも声は掛かっているかもしれない。修司は何処かへ行っていて消息不明だが、何だかんだでぎりぎり友之の顔を見に帰ってくる可能性は大だし、そうなれば「友達とクリスマスパーティだから」と言っている裕子も北川家のアパートへ押しかけてくる事は間違いない。その流れで由真というあの少女も来るかもしれない。
  皆、友之が好きなのだ。
  無口で自己表現が下手な友之だが、それでも、いつも誰に対しても真摯で素直である事を、周囲の人々は皆知ってくれている。
  一年前なら考えられない事だった。
  喜ぶべき事だ。友之がどんどん良い方へ変わっていく、大きくなっていく。そして友之自身がもっともっと変わっていきたいと強く望んでいる事を知っている。
  だから本当は。
(そう…俺があいつの食事の心配なんかいちいちするなって話なんだよな)
  ふっと白い息を吐いて光一郎は微か唇の端を上げた。
  ようやくアパートが見えてきた。自分たちの部屋がある二階のあの場所には未だ煌々と明りがついていて、友之がまだ起きている事が分かる。きっと来年頭にある、沢海や数馬と一緒に受ける実力テストに向けての勉強をしているのだろう。
  自分も食事を取ったら少しそれを見てやるか。
  たった今、「いちいち心配してはいけない」と思っていたはずの光一郎は、自分のその矛盾に気づく事なくカンカンと古びた鉄の階段を勢い良く上がっていった。




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