穏やかに


3.友之side



  光一郎が帰って来て初めて友之は自分が食事もしていなければ勉強もやりかけのまま放置していた事に気がついた。寒い外から帰ってくる兄の為に事前に沸かしておこうと思っていた浴槽も空っぽのままだ。
「どうした」
  部屋に入って友之の姿を認めた光一郎は開口一番そう言った。いつもは冷静な兄が驚きを隠せないという風に目を見開き、目前で力なく座り込んでいる友之を凝視している。
「何かあったのか?」
「あ……」
  光一郎の心配そうな声色に友之はようやくゆるゆると顔を上げてほぼ反射的に首を振った。
  光一郎に心配を掛けてはいけない。余計な心労を増やしてはいけない。

  いい加減、きちんとしろ。

  父の言葉がよりはっきり耳をつんざいて、友之は誰かに首ねっこを掴まれたかのような勢いでガバリと立ち上がり、オロオロと辺りへ視線を彷徨わせた。
  早く「何でもない」と言わなければ。
  「お帰りなさい」と言わなければ。
「な……お、お帰……」
  けれど舌がもつれてどうしようもない。逸る気持ちは最高潮を迎え、カーッと熱くなる全身に立っているのが辛くなった。どうして自分はこうなのだろう。あんな電話があったくらいで、父の声を聞いたくらいで……。
  父にちょっと呆れられたくらいで。
「ご、ごめ…っ」
「バカ、何謝ってるんだ」
  しかしそんな友之を前に光一郎は事情も分からないだろうにすぐさま傍に寄ってきて、その小さな身体を引き寄せた。長い腕がそのまま友之の頭を抱えるようにして包み込む。友之はそれによって瞬時視界に飛び込んできた光一郎の胸に自分も反射的に縋りつき、そのままぐりぐりと自身の頭をその大好きな胸に擦り付けた。
「……っ」
  すると最初にぎゅっとしてくれた片腕がより一層強い拘束を示してきて、次いでもう一方の手も背中に回されそこを撫でてくれるのが分かった。そして光一郎は最初こそ「どうした」と訊いてきたものの、後は暫くただそうやって無言のまま友之に自分からの熱を与え続けた。
「コウ兄……」
  甘えちゃ駄目だ。
  こんな風に呼んでは駄目なのに。
「トモ。お前、飯食ってないだろ」
  けれど友之がそうやって保身と自虐の狭間をぐるぐるしていると光一郎が口を開いた。
「自分の分は自分で何とかするんじゃなかったのか?」
  そっと身体を放した光一郎が友之を窺い見るように姿勢を屈めそう訊いてきた。それは怒ったものではなく、どちらかというとからかう風な口調だったのだが、友之にしてみればバツの悪い事この上なかった。
「うん…」
  それでも食事を取っていなかったのは本当だから仕方なく頷くと、光一郎は途端「まったく仕方ないな」という風に笑った。
  そして、そうなると後はもう光一郎のペースだった。
「あ……」
  未だ立ち尽くしたままボー然とする友之をよそに、光一郎は荷物を隣室へ運びコートをハンガーに掛けて腕まくりをすると、最初に台所でお湯を沸かし、次いで浴室の方へと消えて行った。風呂が沸かしていない事もすぐに分かったのだろう。素早く用意をしに行った光一郎に、「コウは帰ってきたばかりなのに」と慌てて後を追おうとしたが、友之がそう思って足を動かした時にはもう光一郎は再び戻ってきて今度は夕食の支度をし始めた。
「コウ…あの…」
「もう遅いしな。俺も適当に済ませようと思ってたし、簡単な物しか作れないけどいいだろ?」
「………」
  台所から背を向けたまま光一郎がそう言う。何だか妙に優しい。光一郎はいつだって優しいけれど、でも今はいつもよりももっと優しいと友之は感じた。何か良い事があったのだろうか、だから機嫌が良い? 否、光一郎は自分の事に関してそんな風にいちいち感情を揺るがすタイプではない。友之が普段ちょっとした事で気分を上昇させるような事―分からなかった数学の問題が解けたり、昨日は打てなかった球を前へ打ち返せたり、話しかけてくれた相手にきちんと自分の考えを口にできたり―そんな日々の些細な喜びを光一郎は表にあまり出さないのだ。勿論、光一郎は友之などとは違って何でもよく出来るから、きっとそんじょそこらの事では喜ぶ事もないのだろうとは思うのだけれど。
  とにかく、光一郎はそういった事で急に友之への態度を変える人間ではないのである。
「………」
  とすると、この優しさの理由はただ一つ。
  きっと光一郎は自分が今にも泣きそうな思いでいる事に気づいたのだ……友之はその思いに何故かぶるりと背中を震わせ、そうして余計に表情を崩した。
「トモ、テーブルの上片付けろ」
「!」
  突然話しかけられて友之ははっとし顔をあげた。いつの間にか唇が破けるくらい歯で噛み締めて俯いていた。幸い、何かを作り出している光一郎がそんな友之に気づく事はなかったが、友之は掛けられた言葉の内容に慌てて後ろを振り返り、あの電話以降全く動きのなかったテーブルの上を見やった。
  そこにはほぼ真っ白なノートと教科書、それに沢海が貸してくれた参考書が実に暇そうに開かれたままとなっていた。いつ落としたのか、使用していたはずのシャープペンシルはテーブルの下に潜り込んでしまっている。

  まったく、お前はどうしてそうすぐ色々と散らかすんだ?

  掃除をする時、光一郎は半ば冗談交じりの口調でそう言う事があった。友之は自分ではそれほど意識してはいないが、整理整頓が苦手だ。たとえば勉強をしている時も何か分からない事があると教科書を開いたり参考書を開いたり辞書をめくってみたり。何をどう調べて問題を解決して良いか分からないから、それは適当にあちこち手を出して最後には自滅する。そしてその手をつけたものは放置され、あちこちに置かれてそのままだ。別段悪気があってそうしているわけではないのだけれど、光一郎にしてみれば「何だってこんな風に意味もなく色々な物を取り出してそのままにするんだ」という思いが強いのだろう。
  だからだとは思うが、食事の後片付けも光一郎はさっさと率先して自分一人だけでやってしまう。友之に手伝わせた方が友之にとって良い事に違いないのに、光一郎は「その方が早く終わるから」と言い訳してついつい友之を甘やかしたままにしてしまう(実際光一郎の中に「こういう事は早く終わらせたい」という気持ちがある事も間違いないが)。
  ……何にしろ、とんだ役立たずである。全てにおいて自分は光一郎の足を引っ張っているのだ。

  いつまで光一郎に甘えているつもりなのかは知らないが……。

  父の言葉がまた胸に深く突き刺さる。
  思えば父は友之が不登校をしていた中学三年の冬、「高校へ行く気があるならここにしろ」と、全寮制男子高校のパンフレットを暗がりの部屋に投げ捨てて行った事があった。
「お前もそういう所へ行って自分を鍛えた方がいい」
  ただ当時の友之は、実は父である晴秋の言葉を殆ど解読していなかった。母が亡くなったショックを引きずったまま改めて自分は父や兄の光一郎、それに夕実とも血が繋がっていないのだという事を悶々と考えていた。幼い頃、「おばあちゃんが言ってた」と友之にその話を聞かせた夕実の言葉をおぼろげには覚えていても、まだ母が健在だった頃の友之はその事の意味も姉の気持ちも、「ただ何となく悲しい」というだけで大した実感を伴ってそれを受けとめていたわけではなかったのである。
  けれど夕実が父と喧嘩し、自分を捨ててあの家を出て行ってしまった後―。
  もうすぐ再婚するという父の話を何となく遠くの方で聞き取りながら、光一郎もいないあの家で友之の心はひたすらに暗く、澱んでいた。誰にも甘えられない、誰にも縋れない。誰もいない。そんなどうしようもない孤独感が振り払おうという気力もないままにどんどんと全身を叩いていた。
  本当は独りなどではなかった。時折修司が運んできてくれる外の世界は本当に素晴らしかったし、楽しみだった。光一郎や裕子、それに当時からクラスメイトだった沢海も友之を気に掛け、遠慮がちながらも声を掛けてくれようとしていた。友之は決して独りではなかった。
  それでも、あの頃の友之はひたすらに母が死ぬまでの自分たち家族の軌跡を追い、夕実を想い、父の蔑んだ目に晒されて心を開けずにいた。ひたすらに自分を追い詰めて、そして一日の終わりにほんの少しだけ、修司が持ってきてくれた写真を抱きながら、昔水源地で光一郎が手を引いてくれた時の事を思い返して眠りについた。
  けれどそんな「弱い息子」を晴秋はどうしても受け入れられなかったのだろう。
「何だこれは……」
  そしてその父が投げた高校のパンフレットを友之が部屋に放置したままにしていたある日。
「ふざけやがって………こんな所に…」
  膝を抱えてそこに顔を埋めていた友之は、そう呟く低い声にゆっくりと顔を上げた。
  そこにはとても怖い顔で父が置いて行ったパンフレットに目を落としている光一郎の姿があった。はじめはそれが何かも分からなかった。光一郎が何故ここにいるかも分からなかった。いつも時折やってきても、こんな風にノックもしないで部屋に入ってくる事は珍しい。
  久方ぶりに見る兄のその姿に友之がただじっとした視線を向けていると、光一郎はやがてパンフを下に落とし、毅然とした声で言った。
「友之。俺の所へ来い」
  友之が何とも答えないうちに光一郎は続けた。
「それから、高校行きたいならここじゃない所にしろ。まだ受験まで間はある…努力もしないで入れるような学校を選んで何の意味がある? 俺は今の所を払ってもう少し広い部屋へ引っ越すから、お前はそこから通える学校を目指せ。ちゃんと努力して成績上げて…それで高校へ行け。親父の言うなりにはなるな」
「………」
「分かったのか? どうなんだ、友之」
  こんな言い方は父親にそっくりだ……そんな風に思っていじけていた事を友之は今でもよく覚えている。
  結局光一郎が言う高校へは受かる事が出来なかったけれど、光一郎の特訓の甲斐あって父が勧めた所よりは校風も自由でのんびりとした学校へ入る事が出来た。……本当はその全寮制男子校の事を友之はよく知らなかったのだが、後からそれを知った由真が口悪く「プリズン校じゃん!」と叫んで真っ青になった事があった。父が勧めてくれたそこは友之のように何らかの理由で不登校をしたり、ちょっとした悪さをして学校を追放された子どもを持て余した親が「厳しく躾けてくれ」と懇願して入れたがる「聖域」……子どもの間では牢獄……として名高い高校だったのだ。体格の良い強面教師陣が揃うそこは、一方では「真の教育を実践してくれる場所」と評判が高かったが、しかしまた一方では「力だけで子どもを押さえつける暴力公認高校」と陰口を叩かれる場所でもあった。
  光一郎は友之にそういった事情は何も説明しなかったが、恐らくはその事を知っていたのだろう。だから父の措置に激怒した。きっと友之がそういう所で馴染めるわけはないと思ったに違いない。実際友之もそう思う。今の高校でさえ、ちょっと体格のある声の大きな教師から「北川」と呼ばれて憮然とした目を向けられるだけで身体の冷える想いをするから。
  つまり、あの頃の友之を心の部分で救ってくれたのは修司だったが、実質生活上の救済措置を取ってくれたのは兄である光一郎だった。光一郎とは本当の兄弟ではないという事が友之の中ではその後もずっとしつこいしこりを残していたが、それでも友之にとって光一郎は紛れもなく大切な兄であり、家族だった。
  そして誰よりも大好きな人だった。



「トモ。片付けろって言ったろ?」
「あ…」
  ぼうとしていたところに再度声を掛けられた時には、もう光一郎は台所で全ての支度を整えていた。
「出しっ放しにしてないでちゃんとしまえ。今日はもう遅いからこれ以上はやらないだろ?」
「………」
「友之」
「あっ…。や、やらない…」
「なら片付けろ。ほら、テーブル拭くから。飲み物くらいは自分で用意しろよ?」
「う、うん」
  光一郎に急かされてようやく友之は動き出した。一緒に住み始めた頃は気づけば食事の支度は全て出来ていて、友之はお茶すら光一郎に淹れてもらって飲んでいた。本当に完全なる受身状態だったのだ。或いは友之自身それで光一郎の自分への情愛を無意識に確認していたのかもしれないが、それにしてもあれは酷い状態だったと思う。
  そして今はその状態に限りなく似たものになっていたわけだが。
「うどん、具があまりない。冷蔵庫にあったもん適当に入れただけだけど我慢しろよ」
「い、いいよ」
  無理矢理意識を振るい立たせ、友之は光一郎の淡々とした声にまた泣きそうになりながら台所で背を向けた。余計な事は今は考えまいと、光一郎の分のコップも持ち、冷蔵庫からはウーロン茶と牛乳を取り出して再び部屋へと戻る。
「あ…ウーロン茶で…」
  もしかしたらビールとか飲みたいだろうか。席に戻ってそう思った友之だが、光一郎にすかさず「それでいい」と止められて浮かしかけた腰を戻した。光一郎は自分一人だけの食事時には時々だが酒盛りをしている。本当は今日もそのつもりだったかもしれない、冷蔵庫へ行く前に訊けば良かった…。じわじわと後悔しながら友之が俯いていると、光一郎が箸を渡して「食えよ」と言ってきた。
「………」
  目の前にはふわふわと白い湯気が浮き立つ美味しそうなうどんがある。油揚げに、半分に割ったゆで卵、それに舞茸が入っていて、上には細かく刻んだネギまで乗っている。これだけ入っていれば十分だ。十分豪華な夕食だ。なのに光一郎はそれを適当だと言い、出来合いのもので悪いなといったような態度で「これで我慢しろよ」などと言う。

  何だってそんな風に言うんだ。
  どうしてそんなにやってくれるんだ。
  何で光一郎はこんなに凄いんだろう。
  そして自分は、どうしてそんな光一郎に甘える事しかできないのだろう。

「……友之」
  じっと動かない友之に光一郎がいよいよ焦れたような声を出した。今日帰ってきてから初めて出たため息交じりの声。友之の様子がおかしい事は分かっていてそれでも我慢していた光一郎の、それはいよいよ限界が近づいてきた態度だった。
「い、いただきます…っ」
  これ以上心配を掛けてはいけないのだからと、友之はそれによってやっと箸を動かしてうどんをすすった。一、二本しか麺を掬っていないのだが、それでも必死に食べていると、それをじっと眺めていた光一郎がようやく自分も食事を取り始めた。
  二人はそうして遅過ぎる夕食を一緒に取った。向かい合わせで取った。
「友之」
  先に食べ終わった光一郎がやや躊躇いがちにそう声を出したのは、友之がようやくどんぶりの中のものを三分の一ほど減らした時だった。
「お前…来週どうするか決めたか」
「来週…?」
  はじめこそピンと来なかったものの、暫くしてから今度の日曜日の事を指しているのだと分かった。
  来週の日曜はクリスマスイブで、友之は数馬の家族とチームの人たち、それに沢海や橋本、光次らから「一緒に遊ぼう」と誘われていた。光一郎を通してその声掛けをしてきた者もあれば、光次のように「光一郎さんや皆には内緒にしない?」などと囁いてきた者など、接近方法は色々だ。
  修司と裕子だけは友之を誘ってくる事はせず、「光一郎にバイト空けてもらって二人で過ごせば」などと言っていたけれど。
「あのな、黙ってようと思ってたけど」
  いつまでも沈んでいる風な友之を前に光一郎がハアとあからさま嘆息して言った。
「今日はあの3バカトリオからもお前に伝えてくれって言われて。日曜、あいつらもお前と過ごしたいんだと。ハルナなんてお前が怖い話が好きだからって言うんで、自分の所の山荘をお化け屋敷みたいに改造したらしいんだ。…まあ、確かにこれ聞いたらお前は興味示すと思ったけど、本当あいつは頭がいいのか悪いのか分からないよな」
「………」
「ユズルはディズニーランドだって言ってた。隅谷は……聞くの忘れた」
「………」
「……嫌なら勿論無視でいい。お前は数馬や拡君たちと遊んだ方が楽しいだろ?」
「こ……」
「ん?」

  光一郎に伝えておいてくれ。

「……っ」
  父親の伝言がしきりに頭の中をぐるぐると回っている。伝えなければ。ちゃんと言わなければ。
  そして、訊かなければ。
「コウは…日曜日、どうするの」
「この間言っただろ。俺は工藤さんからどうしてもって言われて、夕方までバイトだ」
「………」
  光一郎のあっさりとした返答に友之はすぐさま開きかけた口を閉ざし沈黙した。どんぶりの中にはまだたくさんの麺が残っている。それらがあっさり味の薄い色合いをしたスープの中で「早くしないと冷めちゃうよ」と言っている。それを意味もなく眺めながら友之は「そんな事知ってる」と思わず呟いた。
「え?」
  光一郎が怪訝な顔で聞き返したが、しかし友之の態度の異変を感じ取って特には何も言わなかった。
  修司や裕子にはああ言われていたけれど、光一郎が「どうしてもバイトに行かなくちゃならなくなった」と言った時、友之はすぐに「仕方ない」と思って素直に頷いた。そして光一郎がいない間は遊びに誘ってくれた数馬や拡と一緒に遊びに行きたいと思っていた。それでもそれを未だ決めかねていたのは、他の人たちにどう言って断って良いかと思案していたからだ。折角誘ってくれたのに断るのは忍びなかった。ただ、一番最初に先を争うように「映画でも観に行こう」と言ったのは数馬と沢海の二人だったから、やっぱり三人で遊ぶのがいいだろうなとはおぼろげに思っていた。椎名や数馬の家族たちがそれを聞いたら、「なら自分たちは夜だけでいいから!」などと言いそうだが、夜は光一郎が帰ってくるだろうから家にいたかった。
  もともと友之は…光一郎にしてもそうだろうが、「クリスマス」というものに対して特別な感情など抱いていない。むしろ逆だ。夏祭りやその他の世間が浮かれる行事の度に、二人は苦い過去の思い出を蘇らせ、「そんなものはいらない」と思う。今でこそ、誰かから誘われればそれなりにそういった事にもチャレンジはするが、だからといって「じゃあクリスマスも楽しもうか」などとは思えない。そんな風に突然気持ちを転換する事が出来たのなら、今頃この兄弟はもっと突き抜けた「カップル」になっていたに違いない。
  だから友之は「イブ」の日、というよりは「冬休みに入った最初の日曜日」、遊びに誘ってくれた数馬と沢海と遊ぼう、夜は光一郎の帰りを待とうと思った。
「お前、自分から断るって言ってたけど、ハルナ達や椎名さん達には俺から言ってもいいぞ」
  気を取り直したようになって光一郎が言った。
「数馬の家族は…数馬から言ってもらえたらありがたいけどな」
「………」
「……トモ。お前、何なんだよさっきから」
  言いたくて言えない、どうしようという友之に光一郎が遂に焦れたようになって一段声を上げた。友之がびくりとして顔を上げると、光一郎は少しイライラしたような様子を示しながら「何を考えてる」と問い詰めてきた。
「帰ってきてからずっと泣きそうな顔してるし。どうしたっていうんだ? 前からみんなに断るのが悪いからって悩んでたけど、その事じゃないだろ。今お前が考えてる事」
「……違う」
「なら何だ。いつも言ってるが、ちゃんと言わなきゃ分からな―」
「お…お父……」
「………」
  友之が言いかけると光一郎がいきなりぴたりと動きを止めた。
  それに友之がごくりと唾を飲み込んで訴えるような目を向けると、光一郎はみるみる怖い顔になって「あいつがどうした」と尋ねてきた。
「で、で、電話……」
「電話?」
「電話あった。お父さんから電話あった。前からあったの? 前から…ま、前から、ずっと前から、お父さん…電話…あったの…?」
「………」
「る、留守番電話に、メッセージ入れたって……」
「携帯の方にな。……着信拒否にしたからこっちに掛けてきたんだろ」
  あの野郎、と光一郎は酷く低い声で呟いた後、「それで」という風に友之を見つめた。
  友之はそんな光一郎の表情に真っ白になりかける思考を必死に食い止めながら声を出した。
  やっと言えた。
「に、日曜日…。ご飯、食べに来いって」
「………」
「お、お父さんは夜が遅いけど、夜帰ってくるって。昼間は……あの人がいるって」
  光一郎は友之の殆ど消え入りそうなその台詞を黙って聞いていた。「あの人」とは加奈子の事だともすぐに分かっただろう。
  それに。
  父の「食事をしに来い」という誘いの言葉が光一郎だけに向けられているという事も。
「友之」
  光一郎はそれでようやく友之の不審な態度に合点がいったという顔を見せた。ふうと肩から力を抜いて、どうでもいい事のようにさらりと言う。
「俺が行くと思うか?」
「………」
「俺がお前を置いて……あんな家に帰ると思うか?」
「で、でも」
「でも、何だ?」
「お、お、お父さんが……」
「あいつが何を言おうが関係ない。お前にも関係ない。気にするな。あいつに何か言われたか? きつい事言われたのか? それも気にするな、忘れろ」
「………」
「友之」
  しょんぼりと俯き黙ったような友之を光一郎が呼んだ。そろりと顔をあげると、来いと言わんばかりに手を差し出しているのが見えた。
「………」
  友之は光一郎のその当然のような所作を暫し黙って見つめやった。
  最近ではもう珍しくない。こんな風に光一郎が友之を呼んで強く引き寄せ抱きしめてくれる事。むしろいつもは友之が心の準備をする間もなく問答無用に引き寄せてきて、光一郎は自分の懐に友之をすっぽりと覆いこんでしまう。
  そうしてその温もりに友之が目を瞑るのを良い事に、光一郎は普段のストイックさからはおよそかけ離れたような少々余裕のない様子で友之の髪の毛から額にキスを落とし、最後には友之の全部を攫っていって自分のものにしてしまう。それはとてもゆっくりで優しいものだけれど、時に激しく性急で、友之はそんな時いつも途惑って固まって自分からは何も出来なくなってしまった。
  でも、そんな瞬間が好きだった。
「……コウ」
  だから友之はおずおずとしながらも自分に手を差し伸べてくれた光一郎の元へふらりと寄っていき、その手を取った。そして光一郎がなかなか引っ張ってくれないと知ると、友之はどんどん我慢ができなくなって、遂には自分からその胸元に飛び込んでぎゅっと強く縋りついた。
「……っ」
「友之」
「……」
「友之」
  何度か呼んで、光一郎はやっと笑った。
「バカ。一体何に落ち込んでるのかってハラハラした」
  自分の懐に逃げ込んでいるような友之の耳元に、光一郎はそっとそう囁いた。その綺麗な低音に友之がゾクリとして身体を震わすと、光一郎も微か息を漏らしちゅっとその耳朶に触れるだけのキスをした。
「……だから。そんな泣きそうな顔するなって」
  友之が顔を上げると今度は唇にも同じようなキスをして光一郎はそう言った。そうして涙で双眸を崩す友之の髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜた後、光一郎はもう一度、二度と啄ばむような慰めのキスを唇に続け、やがてそのままカーペットの上に友之の身体を押し倒した。
「俺はここ最近、お前のせいで本当散々だった」
「え……」
  顔の左右に光一郎の両手があって、上から圧し掛かられるような体勢になっているから完全に囚われの身だ。
  そんな状態のまま、友之は言われた事の意味が分からず問いかけるように潤んだ瞳を光一郎へ向けた。
「散々…?」
「そうだよ」
「……コウに迷惑掛けてた」
「バカ。すぐそういう言い方する……まあ、俺の言い方も悪いけど」
  光一郎はふっと唇だけで笑って見せてから「そうじゃなくて」とこれは自分だけの呟きのように小さく言った。
「ただの……いつもの日曜のはずなのに、どいつもこいつも皆自分の近況を語りながら俺にお前の予定を訊くんだ。お前が誰と過ごすのかって。自分たちと一緒にいてくれないかってな。いい加減、ウンザリだ。ふざけやがって、冗談じゃない」
「………」
  後半、吐き出すように言った光一郎のその言葉は紛れもなく普段は押し隠している「兄」ではない人の本音だった。滅多に自我を見せない光一郎が偶にこういった口をきくと、友之はどうしても不安になったり怖い気持ちになってしまう。
  けれど、今この時はそのいつもの感覚とは違った。
「……コウ」
  いつもとは違って……何だか酷く嬉しいと思った。
「……僕、誰とも一緒にいなくていい」
  だから素直にそう言った。
「コウといられればいい」
「それじゃ駄目だろ」
  すっと目を細めてそう言った光一郎は、今は「兄」のそれだ。くるりくるりと変化するそれに友之はようやっとじくじくと温かくなっていく足先にほっとして、そっと光一郎の腕に触れた。
「でも、コウといられればいい」
「………」
「だから……だから、コウも、……い、家……家、帰るの……」
「………何だ」
「………」
「はっきり言ってみな。俺があそこに帰るのは、何だ? どう思ってる?」
「………嫌だ」
  それが果てしなく我がままでどうしようもない思いだと友之は知っていた。
「嫌だ…」
  それでも友之はぼろぼろと涙を零し始めると、堰を切ったように何度も嫌だと言った。
「ごめ…我がまま…っ」
  けれど友之が泣きじゃくりながら何とかそれを詫びようとすると、光一郎が「バカ」と言ってまた温かいキスを仕掛けてきた。
  そして言った。
「ごめんな。………散々だったのはお前の方だな」 

  嫌な思いしたな。

  光一郎はそっと言って友之の頬に唇を寄せた。何度も触れては離れ、離れては触れるそのキスは友之の嗚咽を余計に駆り立てたが、それでもほっとして安心して、友之は遂に両腕を差し出して自分に向かってくる光一郎の首筋に抱きついた。
「もっと…いっぱい、いたい……」
「ん……」
「一緒にいたい…。一緒に、……たいっ」
「ああ」
「いたい…っ」
「ああ、いよう。いような。だから泣くなよ」
「……あッ」
  首筋に落とされたキスと服の中に入れられたひやりとする光一郎の手の感触に友之は思わず小さな悲鳴をあげた。何度も遠慮するようにされていたキスが今は執拗なそれに代わり、いちいち友之の感じる部分を刺激してくる。加えて肌に直接される愛撫にも、友之は電流のような痺れを感じた。
「あっ…あ…コウ…コウ…」
「……トモ」
  キスの合間に荒い息を落としながら光一郎が呼んだ。友之はそれに呼応するように目を開け、未だ零れてしまう涙をそのままに光一郎の肩先をゆるりと撫でた。
  ずっとどうしようと思っていた。
  電話を切ってからずっと悲しかった。
「コウ…好き……」
  でも、少なくとも今この時は全部忘れられる。
「んっ…コウ…」
  光一郎の優しいキスと愛撫に身を任せながら、友之は再びぎゅっと目を閉じた。




後編へ…