「夕暮れの丘で」


  (1)



  日曜日の河川敷は、多くの人でごった返していた。
  川沿いにある市営グラウンドで草野球に興じる若者たち、石堤に座ってお喋りをする老夫婦、ボートや釣りを楽しむ家族連れなど、皆が思い思いのことをして、その日の休日を楽しんでいる。
  北川友之もその中の一人…の、はずだった。
「 トモ君、残念だったね」
  野球道具一式が入った重いバッグを肩にかけ、黙々と歩く友之。濃紺と白のユニフォームは真新しく、汚れたところがない。そんな幼馴染の姿が本当に寂しげで、神部裕子は自重気味の顔で必死に声をかけた。
「 ったく、何もかもあの中原のバカのせいよね! あいつ、よっぽど文句言ってやろうかと思ったわ、私!」 
  怒ったようにそう続けた裕子は、しかし何の反応も示さず、ただ自分の前方を歩き続ける4つ下の少年を悲しそうな瞳で見つめた。
  裕子は黒髪を綺麗に背中近くまで伸ばした「日本美人」で、華奢な身体と細い手足からしても、一見するとどこぞの資産家令嬢であろうという様な印象を人々に与えた。けれども実際、都内の大学に通う彼女は、趣味は空手と野球観戦、それにビールを飲むことで。性格は、良く言えば「面倒見が良く」、悪く言えば「お節介」と周囲から言われるような女性であった。
  そんな彼女が幼い頃からずっと目が離せないでいるのが、この友之であった。
  今年の春、高校に入学したばかりの友之は、去年の暮れからずっと兄である光一郎と二人暮らしをしているのだが、以前と比べてめっきりと口数が減っていた。元々内にこもるタイプで、中学も不登校の時期があったから、最近の塞ぎようは彼女の心配を助長するのに余りあるものがあった。
  友之は、成長こそ周囲の高校生よりも遅く背も低い方であったが、さらりとした漆黒の髪質や端麗な顔だちから、ただ普通にしているだけで絶対に「モテる」要素を持った少年のはずであった。…と、少なくとも裕子はそう確信していた。幼馴染としての贔屓目も多分にあったかもしれないが、それでも彼女はいつでも友之を自分の弟のようにして構い、猫可愛がりするのを止められなかった。
「 あっ、そうだトモ君! これから何か食べに行こうか! 私、奢ってあげる」
「 ………」
  先刻から執拗に自分に声をかけてくる裕子に、ようやく友之も歩くスピードを緩めてちらと振り返った。
  それで裕子はますます明るい声を出す。

「 ね! 行こう行こう! 何が食べたい? いっそのこと晩御飯食べる? どうせ光一郎の作った物なんか大して美味しくもないんだし……ってことは、まぁないか…」
  「光一郎」の名前が出たことによって顔が曇った友之に、裕子はあーあと思いながらも努めてそれを出さないようにした。
  友之の兄、光一郎は裕子と同じ年であり、彼とは彼女も面識があった。と、いうよりも、彼こそが裕子と幼稚園時代から机を隣にした仲であった。―が、光一郎は裕子のことを邪険にこそすれ、このところは特に「幼馴染」という態度も示さないので、裕子もあまり口をきかない。
  本当は気になる存在ではあるのだが。
「 ね、トモ君、どこで食べようか!」
「 ………アラキ」
「 …えぇ」
  友之の一言で裕子はげんなりとした声を出した。それでもそう言った友之の方は、どんどんとその「アラキ」の方へ向かってしまう。
「 ま、待って、トモ君! 分かった、私も行くから!」

  それで仕方なく、裕子もその後を追った。





  「アラキ」は食堂ではなく、河川敷沿いにある小さなバッティングセンターだ。
  週末は特に草野球帰りの大人や子供で賑わう場所だが、友之はこの店が好きだった。店の主は顔の知れた昔なじみの人であったし、何よりもここで無心になってバットが振れることが、友之の喜びだった。
  人と交わることの少ない友之が、それでも団体スポーツである「野球がやりたい」と思ったのは、幼い頃からここでバットを振っていたせいかもしれなかった。
「 お、トモか。いらっしゃい」
  古ぼけた扉を開けると、すぐ目に入るカウンター。ちょっとした軽食も注文できるそこは、一風変わった喫茶店に見えないこともない。真横に伸びるカウンターの他には幾つかのテーブルもあり、結構な人数が入れるようになっている。
「 ちょっと、マスター。挨拶はトモ君にだけ?」
  「アラキ」の店主は常連からは「マスター」と呼ばれていた。禿げ上がった頭に、丸っこい体型が皆から親しまれている。その優しい人柄も表情に浮かび上がっていて、気さくに話しかける人間は少なくない。
  裕子に恨めしそうにそう言われた「マスター」は、細い目をより一層細めてから「ははは」と軽快に笑って、まずはグラスに注いだ水をカウンターに2つ置いた。
「 悪い悪い。未来の娘を邪険にしちゃったなぁ」
「 …誰が娘になるのよ」
「 いや、裕子ちゃんが」
「 ちょっと、やめてよマスターまで」
  裕子が更に文句を言いかけたところに、友之が黙って千円札をカウンターに置いてきた。マスターは友之のそういった態度に慣れているのか、何も言わずにコインを何枚か渡した。
「 トモ、今日の試合はどうだったんだ」
  その後おまけのように聞いたマスターだったが、裕子の「だめ!」という顔を見て、軽く肩をすくめた。友之は少しだけ嫌そうな顔をしたが、やはり黙ったままボックスの方へ歩いて行ってしまった。
「 もう、マスター言わないでよ。トモ君のあの顔見れば分かるでしょ」
「 トモはいつもあんな顔だからなあ」
「 そんなことありません。今朝はすっごく張り切ってたんだからね! ったく、あんなボロ試合だったんだから、代打でくらい出してくれればいいのに。中原のバカが―」
  言いかけたところに、ガランと扉の開く音がして、いきなり大勢の人間がどやどやと入ってきた。濃紺と白のユニフォーム。そしてその顔ぶれを見て、裕子はたちまち苦い顔をして黙りこくった。
「 何だ、裕子。お前もここかよ」
「 ……気安く呼ばないでくれる」
  裕子は声をかけてきた若者に背を向けて、マスターに訴えるような目を向けた。けれどマスターはそれを軽くかわし、入ってきた5〜6名の客たちに愛想の良い笑みを向けた。
「 聞いたよ、中ちゃん。ボロ試合だって?」
「 …裕子ォ、お前ホント顔に似合わず口悪いよな。それが元クラスメイトのチームに対するセリフか?」
  少しだけ渋い顔をして、「中ちゃん」と呼ばれた中原正人は、「BT」とプリントされた紺の野球帽をカウンターに置き、そのまま裕子がいる席の隣に腰を下ろした。それから金に染まった少し長い前髪をうっとおしそうにかきあげて、日に焼けた黒い顔に渋面を作る。
  もっともそれもほんの一瞬のものだったのだけれど。

「 まあ、いいや。お前ら何飲む? 俺の奢りだからよ」
  そう言って中原が顔を向けたメンバー数名は、皆年齢がばらばらだった。いかにも町内の草野球チームという顔ぶれだが、全員それなりにいい汗をかいたのだろう、試合後のユニフォームは埃っぽく汚れていた。
  そんな彼らの姿を見て、裕子はもう一度友之の後ろ姿を見やった。彼らと同じユニフォームを着て、一所懸命にバットを振っている幼馴染。中原たちが来たことには気づいているだろうに、こちらにはちらとも視線を向けてこない。
「 何だ、やっぱりトモもいたか」
  中原が煙草を取り出しながら裕子と視線を同じにして言った。かちりとライターに火をつける中原を、裕子はジロリと責めるような目で見やった。
「 ……ち、また身体開いているよ、アイツ」
  そして、ぽつりとそんな事をつぶやいた中原に、遂に裕子の怒りには火がついた。
  本当にいつものことなのだが。
「 あんたね! たかだか町内の草野球でしょ!? どうしてトモ君のこと試合に出さないのよ!? どんだけあの子のこといじめたら気がすむわけ!?」
「 あーうるせー、うるせー」
「 何ですってー!」
「 まあまあ裕子ちゃん、落ち着いて」
  そう言って中原と裕子の間に割って入ったのは、電器屋の店主「ライさん」だった。年齢はもう50代も後半だが、大学時代は名キャッチャーとして有名だったらしく、皆が一目置いている。もちろん、それは優しい人柄もあってのことなのだが。
「 中ちゃんだってキャプテンとして色々考えるところもあるんだしさ。トモ君だって、それは分かっていると思うなあ」
「 でも、最後の一打席くらい…!」
「 仕方ないんじゃない、下手なんだから」
「 ……ッ!」
  せっかく仲介に入っているライさんの行為をそう言って無にしたのは、友之と同じく、チームの最年少である香坂数馬だった。最年少の割にはチーム内でも一、二を争う長身で、その体格を生かしたパワー溢れるバッティングをする。今年、友之とは違い一流校と呼ばれる高校に進学した彼は、その優等生っぷりに反した明るい茶髪にピアスまで空けた飄々とした少年だったが、そのギャップが却って近隣の女子学生の人気を集めているらしかった。
「 ……数馬君、何か言ったかしら」
  ただ裕子は逆に、そう言う「自分は何でもできる」という態度の数馬が嫌いだったから、この時もつっけんどんな態度で対した。数馬はまったく堪えた様子もないのだが。
「 トモ君、下手だから仕方ないって言ったんですよ。裕子さん、耳遠いんですか?」
「 おい、数馬」
  これには中原が「やめろ」と言って、眉間に皺を寄せながら大して吸ってもいない煙草を灰皿に押し付けた。
  それから機嫌をとるように裕子に笑って見せる。

「 お前が怒るのも分かるけどよ。マジでライさんも言ってたけど、あいつなら俺が最後まで勝ちにこだわってああしたって事は分かってる。俺だって最後くらいトモに打たせてやりたかったぜ? けどな―」
「 もういいわよ!!」
  裕子は中原の話を聞きたくなくて、自分から問い詰めたくせにぴしゃりとその会話を遮断した。その後、マスターに出されたコーヒーをごくりと飲み干し、いじけたようにそっぽを向く。中原は呆れたようにそんな裕子を見つめていたが、気を取り直したようになってマスターの方へと向き直った。
「 ちょっと、ところでマスター。お宅の息子はどこへ行ったわけ?」
「 知らないよ。裕子ちゃんに聞いてよ」
  マスターが苦笑して言った言葉に、また裕子はむっとする。
「 何で私に振るのよ!」
「 シュージは、お前の彼氏だろうが」
  中原が別段害もなく言うと、裕子はますます不快な表情をして、ふんと鼻を鳴らした。
「 あんな人知らないわよ。またどうせバイクで何処かへ行っちゃったんでしょ」
「 マスター、息子が『あんな人』呼ばわりだぜ? いいのかよ」
「 仕方ないよ。あんな奴だから」
  マスターは気弱にそう返事をしてから、中原たちにめいめいの飲み物を出した。
「 ったく、今日はさ。放浪男はいないし、光一郎もバイトで来られないしで、ホント散々だったよ。俺、明日からまた遠出なのに、マジ、ストレスたまった」
「 おや、中ちゃん、今度は何処?」
「 新潟。土産、買ってこようか?」
  中原はそう言ってからまた新たに煙草を出した。
  裕子と同じ年の中原だったが、高校を卒業して1年程ぶらぶらした後、トラックの運転手を始めた。学生時代は悪いことも色々とした中原だったが、持ち前の明るさと強引さで、町内で野球チームが結成された時、まっさきに主将に選出されたのだ。
  それからの中原は、案外と真面目な社会人をやっている。

「 それはいいからさ。修司の奴が連絡してきたら、たまには家に戻れって言っておいてよ」
「 俺には連絡してこないよ、あいつ」
  中原は苦く笑ってから裕子をちらと見て、それからさらに後ろのボックスであまり良い音を出していない友之のことを見やった。
「 荒城さん、トモ君のこと気に入っているから、連絡入るなら彼じゃない」
  数馬が中原の意図を読み取ったように口を挟んだ。裕子はそれを面白くなさそうに聞いていたが、中原と同じように友之の姿を見て、また沈んだ顔をしてしまった。

  その時、不意に店の扉が勢い良く開いた。

  丁度、カウンターに背を向けていた裕子と中原は、同時にその元クラスメイトの顔を見て、それぞれに違う表情をしてその人物を迎えた。
「 ……わざわざのお迎えか」
  そう、誰にも聞こえないくらいの小声で言ったのは、中原だった。裕子は少しだけ焦ったような顔になり、つかつかとこちらにやってくる幼馴染のことをただ見つめた。
「 よお、光一郎君」
「 おっす、コウ」
  気さくに挨拶をしたのは、マスターやライさん、それに数人のチームメイトたちだった。中原に裕子、それに数馬は無言だ。
  声をかけてくれた人々に軽く会釈してから、「光一郎」、つまり友之の兄は裕子たちを黙って見てから、くるりと振り返って無心にバットを振る弟に視線をやった。
  そんな光一郎に中原が素早く言葉を出した。

「 言っておくけどな、コウ。俺はトモをいじめたりしてねえからな。裕子が何を言おうが―」
「 何言ってんのよ! 数馬君ばっかり使って、贔屓してるくせに!」
「 それはボクの方がトモ君よりうまいから」
「 うるさいわね、あんた! ちょっと、いい加減むかつくわよ!」
「 どっちが」
「 ああ、うるせえ!」
  3人がたちまち嵐のように喋り出すのを光一郎は眉をひそめて見やっていたが、こういう状況にも慣れているのか、一瞥しただけで特に何を言うでもなかった。
  そして光一郎という人間は、そんな曇った表情すらどこか「絵になる」男だった。
  すらりと背の高い、加えて整ったその顔立ちは、きっとどんな不快な表情をしても相手を惹きつけるだろうと思われた。実際案の定、黙って立ち尽くしていただけなのに、3人はそんな光一郎を見ると、すぐに静かになってしまった。
「 トモ、連れて帰るから」
「 ……はいよ」
「 ちょっと、私たち、これからご飯食べに行くんだけど!」
  裕子は一応抗議の態度を示したが、光一郎は無言を決め込み、そのまま友之のいるボックスへと歩いて行ってしまった。それに対して中原がくくっと笑うのを、裕子は面白くなさそうに食ってかかった。
「 何が可笑しいのよ」
「 いや、あいつには誰も敵わねえなあと思ってさ」
「 …私、帰る!!」
「 俺がメシ、付き合おうか?」
  中原が行った言葉を無視し、裕子は椅子を倒さんばかりの勢いで席から離れると、友之にだけはとりあえず「さよなら」を言って、あとはそのまま去って行ってしまった。

  そんな突然静かになったカウンター席で、数馬がふうと大袈裟にため息をつく。

「 先輩、趣味悪いですね。ボク、あの人苦手だなあ」
「 そうか? あいつ、イイ女じゃん」
  数馬の言葉に、中原もさらりと返して改めて煙草を吸った。

  友之は、背後に立って自分のバッティングを黙って見つめる兄の光一郎の存在にはとっくに気がついていたが、敢えて知らないフリをしていた。
  けれども球が全て切れてコインもなくなってしまうと、兄のいる外へ出て行かざるをえない。俯いたままではあったが仕方なくバットをしまい、友之は兄の元へ行った。
  すると開口一番。
「 身体が開いている」
  いつもと同じことを言われた。
  脇をしめずにバットを大きく振るからコンパクトに打ち返すことができないのだと常々言われている「助言」。分かっているのに、どうしてもできない。だからそれを何度も指摘されると、友之もますます暗い気持ちになった。

  返す言葉もなく黙っていると、光一郎はそんな弟をイラついた目で見つめていたが、側にあった友之の大きなかばんを自分が肩に背負うと、そのまま店の外へ出て行ってしまった。
  それで友之も慌てて光一郎の後を追った。

  その2人の姿を見ていた数馬は呆れたように、バカにするように素っ気なく言った。
「 ホント、あの人兄バカですよね。フツー、弟の荷物なんか持ちます? わざわざ迎えに来るし」
「 可愛いくもなるよ、あんな弟いたら」
  チームメイトの1人がそう言って、ライさんや他の仲間も得心したように頷いた。数馬はそれを面白くないような顔で聞いていたが、やがて意地悪く笑ってから言った。
「 でも実際、その可愛いい弟からは嫌われまくっているじゃないですか。何か、可哀想ですよね」
「 知った風な口きくな」
  すると中原がすかさず数馬を叱り飛ばし、直後何事か考えるような目をして口を噤んだ。
  数馬はそんな中原を黙って見つめやった。



to be continued・・・



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