(2)



  友之は、光一郎の前だと余計に言葉を出すのが困難になる。
  いつも何でもできて、何でも先回りして何もかもやってしまう兄。そんな兄に周囲は期待し、そしていつも兄はそれ以上のもので応えてきた。だから自然、父親は、いつも出来る光一郎を誉め、何もできない友之を冷たい目でただ見つめた。
「 トモ」
  呼ばれてはっと顔を上げると、前方を歩いていた光一郎が振り返ってこちらを見ていた。相変わらずぶっきらぼうな表情だったが、そんな姿すら、周囲の注目を浴びている。
「 今日、ゲームに出られなかったのか」
「 ………うん」
「 ふうん」
  光一郎は素っ気なくそう返してから、また黙々と前を歩き始めた。何も言わない。友之は唇をかむと、また俯いたまま歩を進めた。
「 …何か」
  けれど黙ってそんな兄の背を見つめながら後をついていた友之に、その光一郎がふいと無機的な声で続けた。
「 食いたい物とか、あるか」
「 ………」

  光一郎がどんな表情でそう言ったのかは、友之には分からなかった。
「 …別にない…けど」
  そう言いながらも、友之は今日一日何もしなかった自分がひどく空腹なことに気づき、居た堪れない気持ちになった
  そしてだからなのだろうか、試合途中に中原がぽつりと言ってきたセリフを不意に思い出してしまった。


『 トモ。そんなんじゃ、たとえお前が強打者になったって、俺は使わねえからな』


「 ……トモ?」
「 !」
  はっとして顔を上げると、すぐ目の前に光一郎がいて、友之のことを不思議そうな顔で見やっていた。たちまち焦った友之は、先刻の気持ちを奥へ押しやった。
  もう考えるのはやめよう。そう、何度も思っているのに。
「 どうかしたか」
「 別に」
  だからわざと煩そうに答えた。この光一郎という人間は何でも自分の考えを読み取ろうとするから、努めて普通にしていなければ。自分に言い聞かせるようにして、友之は無言を決め込んだ。
  けれど光一郎も、そんな友之にそれ以上のことを特に問いただしてきたりはしなかった。





  友之が兄の光一郎と都内のアパートを借りて2人暮らしをするようになったのは、去年の11月頃だ。
  元々、友之の一家は5人家族だった。
  兄の光一郎の他に、両親と2つ上の姉・夕実がいた。…が、一昨年の春、光一郎が世間でも「一流」と目される東京の大学に合格した折、まずその光一郎が以前からの宣言通り家を出て行った。自宅から大学までさほど遠い距離とも思われなかったが、光一郎は出て行くと言ってきかなかった。父親は出来る息子を溺愛していたし、過分な期待をかけていたので、息子が何故自分から離れようとしているのか理解に苦しんだようだったが、学費も生活費も自分で何とかするとまで言い出した息子に、最後は怒って「勘当だ」まで言い出す始末だった。元々厳格な父親だったので、息子の離反にかっとしたのだろう。
  幸い、温和な母親が仲介に入って一応は丸く収まったのだが、友之は傍でそんな兄を眺め、どこまでも完璧な人だと半ば冷めた気持ちでいた。
  そしてその後しばらくは両親と姉の4人暮らしだったのだが、去年の春、母親が病気で他界した。友之は知らされていなかったが、癌ということだった。
  そうしてそれから数ヶ月して、何故か突然光一郎が友之に向かって「一緒に暮らそう」と言ってきたのだった。
  幼い頃から大して仲が良かった兄弟でもないのに、いきなりそう言ってきた光一郎に友之は戸惑い、断ろうとした。けれども、その後すぐに父親の再婚話を知り、ああそうなのかと頷いた。
  光一郎は今まで自分が住んでいた1Kの部屋を引き払うと、もう一部屋とキッチンの増えた2DKの部屋に移り住み、友之の荷物もさっさとそちらへ運んでしまった。引越しの際、友之は何もしなかったくらいだ。そうして、登校数が足りなくて公立への進学が難しい友之に、必死になって勉強を教えた。友之には迷惑な話だったが、「お前は父親の言うなりになるまま、あんな高校へ行くのか」と、父親が勧めた全寮制の男子校を突っぱねるように命令され、そんな兄の言うままに、仕方なく勉強した。
  結局その光一郎が勧める学校にも受かりはしなかったのだが、アパートからは駅で3つ程の私立高校に進学が決まった。





  3階建てのアパートは築5年と案外新しい。右隣は60代の女性が一人で暮らしていたが、左隣は新婚夫婦が暮らしている。また、階下は光一郎と同じ大学生が住んでいたりと、様々な人間が入居しているようだった。どの部屋ともそれほどのつながりはないのだが。
「 あら光一郎君、友之君」
  その時、丁度隣に住む初老の女性と階下に住む婦人がドアの前で立ち話をしているところに出くわした。光一郎が「外用」の人の良さで挨拶をすると、婦人たちは満足そうに笑んだ。
「 野球帰りなの? 今帰りなの? 相変わらず仲が良いのね」
「 ね、友之君。こんな優しいお兄さんがいて幸せね」
「 ………」
  笑顔を出そうとしたが失敗した友之は、強張った顔のまま軽く礼だけをして自分たちの部屋のドアへと向かった。光一郎がもう一度礼をして2人の前を通り過ぎようとすると、初老の女性の方が思い出したような声を出した。
「 あ、そうそう、光一郎君。荷物を預かっているの。昨日伺ったのだけど、留守だったから」
「 え?」
  光一郎は怪訝な顔をして一瞬だけ友之の方を見やったが、友之はそれに気づかぬフリをして、すぐにカギを開けると一人でさっさと中へ入ってしまった。
  あの人たちは嫌いだった。
  何でもかんでもこちらの内情を探ろうとするから。どうして学生の兄弟がこんな所で2人暮らしをしているのか、とか。どうして一流企業に勤める金持ちの父親を持っていて、光一郎は学業以外にもアルバイトに精を出さなくてはならないのか、とか。
  どうして、兄の方はこんなにできるのに、弟は無口で人当たりが悪くて……とっつきにくいのか、とか。
  ふっと、自然にため息が出て、友之は靴を脱いで中に上がると、すぐに正面の居間に入ってそのままばったりと横になった。しんとした部屋の中で、外にいる兄たちの声が聞こえないかと耳をすませた。自分の話をしているのじゃないかと、少しだけ胸がちりちりした。けれど、何も聞こえなかった。目を閉じた。
「 トモ」
  やがて兄が遅れて部屋の中に入ってきて、居間でごろりとだらしなく寝ている友之に声をかけてきた。
「 お前、昨日家にいただろう」
「 うん」
「 何で居留守なんか使うんだよ。人が来た時くらい、ちゃんと出ろ」
「 うん」
  友之の生返事に半ば呆れたような顔をした光一郎だったが、もうそれ以上は何を言っても無駄と思ったのか、ただため息をついただけだった。そして代わりに、隣から受け取ってきた荷物を乱暴にテーブルの上に置き、素っ気なく一言だけ言った。
「 お前にだぞ」
  友之がその言葉にはっとして顔を上げると、しかし光一郎の方はもう居間から離れてキッチンへ歩いて行ってしまっていた。その姿をしばらくじっと見つめてから、友之は兄が置いたテーブルの上の荷物に目をやった。

『 北川 光一郎 様 』

  受け取り人の名前は兄だった。
  けれども、差出人の名を見て友之は自分の胸がどきんと鳴るのを感じた。

『 北川 夕実』

  姉からだった。友之とは2つ違いだったが、小さい頃から弟の友之にはとてもよくしてくれた。
  中身は見なくても分かっていた。多分またシャツとか靴下とか、あとは2人で食べられそうなお菓子とか、そんな物だろう。友之は包みに手も触れずに、もう一度ばたりと横になった。
「 トモ。お前、そのまま寝るなよ」
  キッチンから背を向けたまま光一郎が声をかけた。手際よく夕食の支度をはじめている。こちらを見なくても弟の動向が分かるのか、手を動かしながら相変わらず口うるさいことを言ってくる。
「 先に風呂入って来い。ユニフォームも洗濯機の中にちゃんと入れておけよ」
「 ………うん」
  別に汚れていないのに。と、兄に向けても仕方ないような皮肉めいた思いを抱いたが、それで友之は仕方なくよろりと立ち上がった。
  丁度その時、電話が鳴った。
「 ………」
  友之は黙ったまま鳴り響く電話を見つめた。

  友之は自分からは決して電話に出ない。どうせかかってくる半分以上は兄目当ての人だし自分の知らない人間だったから、自分が出ても仕方ないと思っているところがある。それに、このけたたましい音を出す(と、友之は思っている)電話の音にはいつも不快な気持ちになって、自然と動きが止まってしまうのだ。
  恨めしそうに電話を見やっていると、光一郎が濡れた手を拭きながらリビングに入ってきて電話を取った。
「 ……………」
  しかし、光一郎はしばらく受話器を耳に当てていたが、その後無言で電話を置いた。友之の何か言いたげな目をちらとだけ見て、「いたずら」とだけ答える。
  けれども、またすぐに電話は鳴った。
  友之が驚いたようにびくりと身体を揺らすと、光一郎の方はイライラしたような顔を閃かせながら、今度は乱暴に電話を取った。
  そして。
「 ………何だお前か」
  つまらなそうに、光一郎は言った。どうやら今度は知っている人間だったらしい。
「 ああ。………ああ。あ? ………煩ェよ」
  光一郎は大概の人間には「人当たりが良くて、温和で丁寧な若者」で通っている。
  けれども、中原やその他少数の気の知れた友人達に言わせれば、「あいつは常に猫をかぶっている」のだそうだ。友之もその点は認めている。

  時々ひどく乱暴な口調になって、ひどく何もかもが面倒だというような態度を、光一郎は取る。
  そんな兄の本質を理解しているようでいて、けれど友之はそういう光一郎の一面が垣間見えた時、急に不安な気持ちになる自分を自覚していた。光一郎は友之の前ではあまりそういった乱暴な姿というのを見せないから。慣れていないのだ。
「 ……とにかく、俺はそんな話は知らないからな。勝手にやってろ。それから……え? ……駄目だ。うるさい、駄目だ」
  光一郎は何かを必死に拒絶しているようで、電話の相手にもひどく怒っているようだったが、どうもらしくもなく押されているようではあった。その兄の様子に目を離せないでいると、やがて光一郎はちらとだけそんな友之の方を見やり、やがて諦めたように受話器をついと友之に差し出してきた。
「 ん」
  不機嫌なその態度でもう相手が誰だか友之には分かっていたが、そのまま黙って受話器を見つめていると、光一郎はまた憮然とした態度で言った。
「 シュージ」
  ああ、やっぱりだ。名前を聞かされて、友之はすぐに受話器を取った。光一郎は怒ったようにキッチンへ戻ってしまったが、その姿をちらとだけ見て、友之はさっと受話器に耳を当てた。

『 トモ!』

  明るい、さっぱりとしたあの声だった。自然、友之の気持ちは落ち着いた。
『 ははっ。ったく、コウ君は相変わらずだよな。可愛いい弟とこんな放蕩者を、近づけたくないみたいだぜ?』
「 ………」
『 ん? もしもーし? おーいトモくーん?』

「 ………修兄」
『 おっ、ようやく声出しやがったな! 相変わらず陰気な声してるな、おい』
「 今、どこにいるの」
『 んー? ずっと東京にいたぜ? 今回は金なくてさ。バイトばっかりだよ』
  バッティングセンター「アラキ」のマスターの息子で、裕子の「彼氏」でもある荒城修司は、一風変わった人物だった。年は光一郎や中原たちと同じだから、この人物もまた彼らの幼馴染ということになるのだろうが、彼はどちらかというと皆で一緒にいるよりは一人でどんどんと何処かへ行ってしまうような人間だった。
  そしてその性質は20歳になった今も変わっていない。

「 いつ帰ってくるの」
『 何だよ、寂しいのかトモ? やっぱお前は可愛いなあ』
  修司が電話の向こうで笑っているのが友之には分かった。それでも、他の人間に笑われているのとは違う、自分を理解してくれた上での笑いだと知っていたから、友之は別に気分を害すこともなかった。
『 俺も帰りたいんだけどさ。ちょーっと、面倒臭いことがあってなあ』
「 何」
『 んー? まあ、いつもの事なんだけどな。裕子には言うなよ?』
「 ……………女?」
『 おっ、鋭いね、友之君』
  修司はまた薄く笑ったようだった。けれど、今度はすぐに気を取り直して言う。
『 けど言っておくけどな、今回の俺は、手は出してねえからな。向こうが勝手に追いまわしてくるんだよ。でな、そいつ、ちょっと変わったとこがあってさ―』
  修司の後の言葉を、友之は聞くことができなかった。電波障害でも起きたのだろう、ザーザーという雑音と共に、電話はそのまま切れてしまった。
「 ………」
  黙ったまま受話器を見つめていた友之に光一郎が声をかけた。
「 あいつ、何だって?」
「 よく分からない」
「 ………」
  光一郎は友之のその返答にしばらく何事か考えるような顔をしていたが、やがてまた「早く風呂入ってこいよ」とだけ言った。



  夕食の後も、友之はまだ姉の夕実からの包みを開けられずにいた。
  食器を片付けてリビングにやってきた光一郎は、見てもいないテレビに何となく視線をやっている弟の姿を見てから、相変わらずそばに置いたままの包みに目をやった。それから、やや乱暴にばりばりとその包装を破った。
  友之は必死にそちらへ視線を向けないようにしていたが、光一郎が手紙らしきものを読んでいるのは視界に入ってしまって、やっぱりそちらへ意識を向けてしまった。
「 読むか」
  光一郎が言って手紙を渡してこようとしたが、友之は慌てて首を横に振った。
  光一郎も無理に友之にそれを見せてこようとはしなかった。



  小さい頃は、姉の夕実と遊んでばかりいた。
  本当は光一郎や中原たちと野球がやりたかった。けれど、中原がちびや女は駄目だと言って、なかなか仲間に入れてくれなかった。時々それが元で、気の強い裕子と姉の夕実は中原らと口ゲンカをしていたが、その度に光一郎が中に入って間を取り持っていたような気がする。気がするというのは、その頃のことを、友之はもうほとんど忘れかけているからだった。
  兄たちの仲間に入れない時は、大抵裕子と夕実、それに友之はどこか近くの森で秘密基地などを作って遊んでいた。裕子と夕実は年は離れていたが、とても仲が良かった。そして2人とも、小さくていつも仲間外れの友之を極端に可愛がった。

『 ねえ、トモちゃん。いいよね、コウちゃんの所になんか行かなくても』

  夕実はよくそんなことを言って友之に同意を求めていた。

『 お父さんは、コウちゃんばっかりが可愛いんだよ。私たちのことなんかどうだっていいの』

  姉はそんな事もよく言っていた。

『 お母さんだってそうだよ。1番がコウ君。2番がお父さん。私とトモ君は3番目なんだから』

  そうだっただろうか。母は殊更姉の夕実を可愛がっていたような気がするが。
  今となってはそれを母に問い掛けることもできないが、しかし姉のその発言だけは、それは違うような気が、友之にはしていた。

『 私、この家を出る。もう我慢できないから』

  そうして、母親が他界した後すぐに、姉の夕実はそう言って家を出て行ったのだ。高校も知らない間に辞めていて、父はひどく怒ったけれど、3つ年上の左官見習いの青年と同棲するという話を聞いた後は、完全に見捨てたようだった。
  その後。
  父と二人きりになった友之の所に、そして再婚話が持ち上がった父の家に。

  光一郎がやってきて、友之を自分の所へ連れて行った。

『 ねえ、トモちゃん』

  姉は友之の中ではとても大きな存在だった。どこがどうとはうまくいえないが、彼女は友之の中では唯一の「味方」だった。そう、思っていた。事実、姉の夕実もそう言っていた。

『 トモちゃんの味方は私だけだよ』

  そして時々、友之は幼い頃姉が自分に言った言葉を思い出した。

『 でも、トモちゃんってさあ……』





「 ………っ!」
  「それ」は大抵夢の中。
  起きている時、姉は決して囁いてはこない。けれど現実世界でその姉から何かが届く度、夕実からの手紙を読む光一郎を見る度に、友之は必ず夜中うなされて目が覚めた。

  だから今も。
  びっしょり汗をかいていた。弱い自分が嫌だ、ひどく惨めで情けないと、猛烈に泣きたい気持ちになる。友之はそれを必死に堪えながら上体を起こし、ぎゅっと掛け布団を握り締めた。
「 トモ」
  その時、隣のリビングから明かりが差し込んできて、光一郎が部屋の入口から声を掛けてきた。眠る時は友之がベッドで光一郎がその下に布団を敷いているのだが、その兄の眠るところを友之はあまり見た事がない。いつも何か勉強していて、だからこの時も彼はリビングで何やらやっていたようだった。
「 どうかしたか」
「 ……何でも」
「 何か飲むか」
  兄は自分がうなされて目が覚めたことに気がついている。こちらに来ようとはしないけれど、入口の所からこっちを見ている兄の目は優しかった。
  けれども友之にはそれすらうっとおしくて、眉を寄せるとゆるりと首を横に振った。

「 トモ。お前、夕実から…」
「 いらない…っ」
  光一郎の言葉をかき消すようにして友之は勢いよく布団をかぶった。眠れるはずはなかったが、光一郎の顔は見られなかった。



to be continued・・・



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