沢海の言っている意味が、友之にはよく分からなかった。
「 帰るって…?」
「 だから、このまま帰ろうって言ってるんだよ。午後の授業なんかどうだっていいだろ」
  やたらと強引な口調で沢海は言った。
  友之はただ戸惑ってしまい、困ったような顔で沢海を見つめ返したのだが、いつもは助けてくれるはずのその相手は、しかし依然無機的な顔のままだった。そうして、不意に友之の手首を掴むと昇降口の方へと引っ張って行った。友之は慌てながら、しかし沢海が自分の鞄まで持っていることに今更気がついた。
  何も言えなかった。


  (10)



  沢海は、担任には「友之が熱をぶり返したようだから送っていく」とだけ告げたと言った。勝手にまた病人にされて、そのことにも友之は戸惑ったが、何にしても自分の前を歩く沢海が何を考えているのか分からなくて、ただ不安で仕方なかった。
  それでも、沢海は駅に着くまでもう口をきいてくれなかった。



  駅のホームに着き、電車を待つ段になって、ようやく沢海は友之の方を向いてきた。歩いているうちに少し冷静になったのか、沢海はこんな事をしでかした自分自身に狼狽しているような顔をしていた。友之が黙ってこちらを見ているのにも参ったのだろう、ようやく沈んだ声で言った。
「 ごめん」
  一体、沢海という人間は自分に何回謝るのだろうと友之は思った。彼は困るとすぐに謝る。それは多分、友之が無言で彼を見返すのを、抗議の眼でみていると誤解しているからだろう。それなら沢海のそういう言動は、多分友之の責任でもあるはずだった。
「 急にこんな事して……驚くよな」
「 ………うん」
「 本当、ごめん」
「 ………」
  しかし友之は沢海に対して、「何故急にそんな事をしたのか」と問うことができなかった。橋本の言葉が気になっていて、怖くて聞けなかったのだ。
「 今日、放課後用あるんだろ? だったらそれまでは…俺といないか」
  沢海が言った。
「 駄目かな」
  ここまで連れてきておいて駄目かも何もないような気はした。だが、ここで駄目だと言ったら沢海はどうするのだろう、やはり強引に自分を何処かへ連れて行くのだろうかと友之は少々空恐ろしい考えを抱いたりした。
「 何処行くの?」
  友之が聞くと、沢海は益々困ったような顔をした。
「 別に……全然考えてなかったんだけど」
「 ………」
「 あ、良かったら家来ないか」
「 ………」
「 ほら…よく考えたら、高校入ってから家に来ることもなかっただろ? だから…」
「 うん……」
  友之がそう答えたと同時に、電車がホームに入ってきた。ごうっという風で友之は少しだけ目を細めた。





  沢海の自宅は友之の実家と同じ町内で、2人が通っている高校からは駅で4つ目というところにあった。割と高級な住宅地が並ぶそこは、緑も比較的多い落ち着いた景観を持つ場所であったが、友之はあまり好きではなかった。見慣れた駅の周辺の様子や、子供の頃よく遊んだ土手や森が思い出されて、どうしても不安定な気持ちになってしまうのだ。
「 久しぶりだろ。ここらへん」
  それでも辺りをきょろきょろと見回す友之に、沢海は言った。友之が頷くと、沢海は別段害もなく「実家には全然帰らないのか」などと訊いた。これにも友之はただ頷いただけだったが、多分表情が暗かったのだろう、沢海はまた困ったような顔をして口をつぐんだ。
  沢海の家は二階建ての木造り家屋で、車庫とは別に、狭いが上品な庭もあった。両親は何をしているのか詳しく聞いたことはなかったが、確か父親は建築家か何かで、母親も仕事を持っている夫婦共働きの家庭だった。また母親の方とは友之も以前会った事があり、沢海と同じ人当たりが良くて感じのいい人だと思った記憶があった。
「 最近、親父がガーデニングってやつに凝っていてさ」
  庭に並ぶ可愛らしい小鉢とそこに咲く小さな花々を指して沢海は苦笑した。
「 次から次へと苗買ってきちゃ、そこらに植えたり、ああやって鉢を並べたりさ。ごちゃごちゃしてきちゃって、お袋は呆れてる」
「 綺麗だよ」
  友之がぽつりと言うと、沢海は多少驚いた顔をしたが、「そうか?」と言ってから、玄関のカギを開けた。
「 先に部屋、行っててくれよ。俺、何か持って行くから」
  沢海は友之を中に入れてからそう言い、自分は奥の台所へと入って行った。友之は言われるままに玄関の前にある階段を上り、二階の一番奥にある沢海の部屋に向かった。まさか突然来客があるとも思っていなかったのか、どの部屋も中途半端にドアが開いていて、友之はその室内を見ないようにしながら通り過ぎた。
  それでも、日中留守にしている割に、部屋の窓の戸はきちんとすべて開けていくのだろう。通りの廊下はいやに明るく、友之は普段接しない昼間の光景にしばしぼうっとした。
  そして沢海の部屋を開けると、そこはそこでまた異空間だった。
  初めてきたわけではない。けれど、やはり目新しい感じがする。部屋はすっきりと綺麗に整頓されていた。友之が沢海のことを兄の光一郎と似ていると感じるのはこういうところだった。無駄のないこの空間には、彼のきっちりとした性格が表れているようだった。
  勉強机の隣には割と大き目の本棚。背後にはベッドがあって、傍にはカレンダーがぶら下がっている。あとは小さいがテレビとビデオがあって、更にCDデッキとラック。多分高校生にしては贅沢な部屋なのだろう。実家を離れてから友之には自分の部屋というのがなくなったから、この1人だけの空間が羨ましくもあった。
  それに、彼には自他共に認める優しい両親もいる。

  多分沢海は大抵の人が望むほとんどのものを持っているのだ。だからああやって他人に優しくできるし、寛容にもなれるのだ。
  少しだけ卑屈な考えに捕らわれ、友之はその思いを消すように首を振った。
「 聞くの忘れてたけど、冷たいのでいいか?」
  その時、 沢海が麦茶らしきものを入れたグラスを2つ持って入ってきた。幾つか入っている氷のせいもあり、見た目にもそれは冷たそうだった。友之が頷くと、沢海は「どっか適当に座れよ」と言いながらグラスを渡した。友之は言われるままに、ベッドの傍にすとんと座った。それから受け取ったグラスから一口飲むと、その冷たいお茶の心地よさに喉が潤った。喉が渇いていたことに、この時初めて気がついた。
  そういえば、もうすぐ夏だ。
「 もうすぐ夏なんだよな」
  その時、友之の気持ちを読むように沢海が窓の外へ視線を向けながら言った。彼は自分の勉強机の椅子に腰を下ろしていたのだが、そのすぐ真横にある窓からは、周囲の家々と青い空を見ることができた。
「 今年って梅雨が長いって聞いたけど、今日の天気ってもうすっかり夏って感じだよな」
「 うん」
「 友之は夏休みとか何か予定あるか?」
「 別に……」
「 そっか。俺はどうせ部活だろうけど…。あ、でもうちのところって結構強いらしいんだ。大した練習なんかしてないって感じなんだけど。今年は都大会ベスト8が目標なんだって先輩が言っていたな。良かったら今度試合観に来いよ。俺、出ていると思うし」
  もうレギュラーなのか、と友之は思う。それから急に心配になった。
「 部活……」
「 ん?」
「 今日もあるんじゃ…」
「 ああ、この後戻るよ」
  沢海はあっさり言ってからははっと笑った。
「 だって俺はお前のこと送ってくって言っただけだから。このまま学校戻らないわけにもいかないだろ? それに部活サボったら先輩に殺されるよ。怖いのが多いからさ」
  沢海はバスケットボール部に所属しているが、元々バスケットがそれほど好きなようにも思えなかった。身長は172〜3cmくらいだから、バスケ選手にしては決して高い方ではないだろう。それに彼は中学の頃は陸上部だった。そこでも当然のように主将で期待のホープだったのだが、それが何故高校に入っていきなりバスケットを始めたのか、友之にはよく分からなかった。本人に訊いたこともなかったが。
「 俺、何でバスケ部に入ったのか言ったっけ?」
  そんな友之に、沢海がまた先取りして言ってきた。視線は相変わらず外の景色にやったままだ。開け放たれた窓からそよぐ風で、沢海の短いがさらりとした髪が静かに揺れた。
「 俺、協調性ないからさ」
「 ………?」
  友之は沢海が何を言ったのかよく分からなくて眉をひそめた。沢海はそんな友之の方は見ないで続けた。
「 小学校の頃は剣道と水泳で、中学は陸上部だっただろ。俺っていっつも個人競技なんだよな。まあ好きでやってたんだけどさ。だから、高校では団体競技でもやって…チームワークってやつを学ぼうかと思って」
「 協調性…あると思うけど」
「 だからそれは見せかけだろ」
  沢海は言って、ここで初めて友之を見た。いつもの穏やかな顔だったが、声は少し厳しいものだった。
「 今日図書室で言っただろ。そういうのの方がいいと思っていたからやっていただけだよ。俺は…演じていただけだ。別に地じゃないんだよ。誰にでも優しくなんてできるわけがないだろ」
「 …できてるよ」
「 じゃあもうやめるよ」
  沢海はきっぱり言った。そしていきなり手にしていたグラスを机に置き、立ち上がったかと思うと友之の傍に歩み寄ってしゃがみこんだ。いきなり目線が同じになって、友之は驚いて身体を揺らした。手にしていたグラスから麦茶が数滴飛び出した。
  けれど、沢海から目が離せなかった。

「 あんな疲れること……。誰にでも優しくするのは、もうやめる」
「 何で……」
「 好きな奴にだけ優しくするよ」
「 拡……?」
「 馬鹿みたいだろ…。いい奴を演じているうちにさ…違う奴に持っていかれるなんて…やっていられるかよ…」
「 ひろ…む……」
  急に激しくなる鼓動をどうにかしたくて、友之は何とか沢海と距離を取ろうと身じろいだ。しかしベッドに寄りかかっているせいで、そして前方を沢海に塞がれているせいでどうしようもできなかった。
  その時不意に、沢海が友之の持っていたグラスを取り上げた。
「 あ……」
  そしてそれを傍に置くと、沢海は友之の両肩を掴んだ。
「 友之…俺、お前のこと……」
  真摯な目が友之に真っ直ぐに向けられてきた。そして、同時に橋本がノートの端に殴り書きした言葉が友之の脳裏に浮かんだ。
  けれど刹那。


『 トモちゃんのことを本気で好きになる人なんかいないよ―』


  また。
  姉の夕実が言った言葉が聞こえた。

「 お前のこと、俺……」
  だから、沢海の声がまた耳に蘇ってきた時。
「 嘘だ…っ」
「 え………?」
  友之は沢海が最後まで言いきる前に、そうつぶやいていた。突然のことに沢海は意表をつかれて、言葉を失った。友之はそんな沢海には構わずに拘束されていた両肩を自由にしようと沢海の手を振り解いた。その所作に、沢海もようやくはっとする。
「 う、嘘って……何がだよ……?」
「 そんなわけない……」
「 友…友之…?」
「 ……帰る」
「 え? ちょ、ちょっと待てよ、友之!」
  いきなりの事に訳が分からなくなりそうになりながらも、沢海は立ち上がろうとする友之の腕を掴み、無理に引きとめようとした。
「 や……帰る……っ」
「 待てよ友之! 言わせてもくれないのか、お前は!」
「 嘘だ!」
「 何が嘘なんだよ! いいからこっち向けよ!」
  沢海はきつく言って、無理やり友之を背後から強引に押さえ込むと、嫌がる相手には構わずに自分の方へと視線を向けさせようとした。
「 離…っ!」
  けれども友之はそれに必死に抵抗し、自分でも信じられないほど大きな声を出していた。これには沢海も驚いたのだろう、中学時代を通じてもそういう友之に接したことはなかったに違いない。けれども沢海は半ば意地のようになって、そんな友之のことを背後からぎゅっと抱きしめてきた。
「 待てって…言っているだろ…!」
「 嫌だっ、帰る…!」
「 友之!」
  その時、沢海もこれでもかという程の声で叫んだ。悲痛な声だった。一瞬、友之の動きが止まった。
「 俺、お前が好きなんだ…」
  その時、そうつぶやく沢海の唇がそっと自分の首筋に当たるのを友之は感じた。
「 ……っ」
  けれどその感触にぞくりとして、友之はただ抗って、そして渾身の力で沢海を振り払った。

「 友之…っ」
「 俺は、好きじゃないから…!」
  沢海の顔を見ずに言った。転げそうになりながらも何とか立ち上がり、荒く息をついて言った。掠れるような声だった。
「 好きになんて、なれないから……」
  誰かを好きになるなんて。
  そんなこと絶対にできない。
  だって誰も自分のことを本気で好きになる人なんていないのだから。
  あんなに一緒にいてくれた夕実だって、自分から離れて行ったじゃないか。自分を憎んでいたじゃないか。
  だから。
「 友之」
  振り返って沢海の顔を見た瞬間―。
「 ………っ」
  つ、と流れた涙に。友之は自身で驚いて動揺した。


  そして、沢海から逃げるように部屋から飛び出た。必死に駆けて家を出て。しばらく息もしないで走り続けた。
  沢海は追っては来なかった。





  どこをどう歩いていたのか、友之には記憶がない。
  家に帰り着いた頃には、もうすっかり辺りも暗くなっていた。
「 友之」
  ドアを開くと、すぐに光一郎が目の前までやってきた。友之の帰りを待ち構えているかのようだった。
「 よう、トモ〜」
  そしてその光一郎の声とほぼ同時に、居間の方から底抜けに明るい声が聞こえてきた。修司だった。
「 修兄……」
「 来たぜ。トモの可愛い顔見にさ」
  本当にいつ以来だろうか、修司の顔を友之は久しぶりに見た。以前会った時よりも髪が大分長くなっているような気がした。遠目だし、目の前には光一郎が立ち尽くしているのでよくは分からないが、肩までざっくばらんに伸びているような髪は焦げ茶色で、前はあんな色だったかなと何ともなしに思う。そして笑っているその表情は、相変わらずやはり均整が取れていて、綺麗なものだった。
「 早くあがれよトモ〜。もっと近くで顔見せろ〜」
「 友之」
  しかし、遠くから言うそんな修司の声をかき消して、光一郎はひどく厳しい顔つきのまま友之のことを見下ろしてきた。
「 今までどこに行っていた」
「 ………」
  友之が黙って光一郎を見上げていると、兄はそれによってより一層怖い顔をしてきた。
「 ……橋本って子から電話があったぞ。お前、午後の授業気分が悪いってことで早退したらしいじゃないか」
「 ……うん」
「 トモだってな、たまに息抜きしたい時くらいあんだよ」
「 お前は黙っていろ」
  光一郎は背後の修司に厳しく一括してから、依然友之をきつく見据えた。
「 ごめん……」
  そして友之がそう一言謝ると、光一郎はかっとしたようになってまたきつい口調で返してきた。
「 何で謝るんだ。謝るようなことしてきたのか」
  光一郎の質問に、友之は黙って首を横に振った。
「 なら何していた? 謝るだけじゃ、分からないだろう!」
「 ……ごめん」
「 友之!」
「 ……ごめんなさい」
  どうして謝るんだろう。自分でも分からなかった。それでも、友之はただひたすら謝った。分からなくて、ただ許してもらいたくて、謝っていた。知らぬ間にまた涙がこぼれた。長い間一人で歩いて、随分落ち着いてきたと思ったのに。だから帰って来られたのに。光一郎の顔を見たらまた悲しくなった。


  光一郎には拒絶されたくなかった。



To be continued…



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