(11)



  兄の光一郎と幼馴染の修司は、水と油のように対照的な性格をしていた。
  光一郎が物事を深く考え、尚且つそれをめったに表に出さないところがあるのに対し、修司の方はいつもざっくばらんで、思っていたことをあっさりと口に出せるような奔放さがあった。 そんな2人は高校こそ別々だったが、 裕子や中原らと共に小・中学校時代を通じてずっと一緒で、 尚且つ縁が深いのか何なのか、 この2人だけは9年間全て同じクラスでもあった。
  そんなわけで、2人は周囲からは大層仲が良いと思われていた。 実際2人も互いの存在を別段悪く思っていない。
  しかしここに友之が加わると、状況は少しばかり異なってくる。
「 お前はいつもそうやって友之を楽な方へ逃がそうとする」
  友之が一人遅い夕食をぼそぼそとやっている傍で、光一郎はそんな弟の姿を眺めながら修司に批難がましい言葉を浴びせた。
  対する修司の方はベランダの窓を少しばかり開けて、そこから自分の吸う煙草の煙を逃がしながらあっさりと言ってのけた。
「 だって俺、トモのことが好きなんだもん」
「 ふざけるな!」
「 はっ…。ふざけてねえよ。俺はコウ君と違って素直なだけ」
  修司は煙草の煙と一緒に嘲けるような笑いを吐き出した後、ちらとだけ視線を光一郎の方へとやった。
  友之はなるべくそんな2人の会話を耳に入れないようにしながら、ただ無造作についているテレビの野球中継にだけ意識を集中しようとした。 けれど光一郎が残しておいてくれた夕食も、どんな味をしているのかさっぱり分からなかった。


  家に帰り着いた時、光一郎の顔を見たら何だか涙が零れてしまってただひたすら謝ってしまって。そんな自分が情けないやら居た堪れないやらで友之はどうしようもなかった。光一郎の方もそんな友之を前にしてしまうと自分の怒りを思い切りぶつけてしまうのは戸惑われたようで、ただ目の前に立ち尽くすだけとなってしまった。
  そんな時、ようやく重い腰を上げるようにして修司がのっそりと歩み寄り、リビングの入口付近から2人に軽い口調で声をかけたのだ。
「 ま、積もる話はさ。中に入ってすれば?」
  それで2人は身体を動かすことができたのだった。


「 トモ、しかしお前やるじゃん。学校サボったのなんか生まれて初めてだろ?」
「 ………」
「 ああ、そうでもないか。お前、中学校は結構ズル休みしていたもんな」
「修司」
  光一郎がまたぎっとした声で睨みをきかせてきた。修司はそんな光一郎を見て軽く両手を挙げ、「降参」という格好をしてから、持っていた煙草を自分の携帯用灰皿にぽとんと捨てた。
「 でもな、トモ。 お前が何していたのかは知らないけど、俺はお陰ですごく楽しかったぞ。お前の兄ちゃん、うろうろうろうろすげー忙しねえの。」
「 おい!」
  光一郎が少々焦ったように声を切った。いつも冷静で静かな感じの光一郎がこんな風になるのは大抵修司がいる時だなと友之は思う。 多分、光一郎は修司という人間が苦手なのだ。嫌いなのとは違う。自分とは違う価値観・生き方を堂々と実践できる荒城修司という人間に翻弄されているのかもしれない。
「 それにしてもトモはやっぱモテるんだなあ。わざわざ女の子から心配の電話がかかってくるなんてよ」
「 ………」
「 けどまあ、今回はそれがアダになっちゃったけどな。その電話さえなきゃ、コウ君にもバレなかったわけだし」
「 ………」
  夕食を全て食べ終わって、友之はそう言う修司のことをちらとだけ見てから黙って箸を置いた。修司は慣れたような目をそんな友之に向けながら続けた。
「 で、どうなんだよ実際。その子はお前のこと好きなんだろ?」
「 知らない」
「 知らないってことはないだろうが。お前も俺とはまた違う意味でひどい奴だな」
  修司はそうは言いながらも、多分友之がそう言うことは分かっていたのだろう、いやに楽しそうな顔をした。
「 まあいいか。それよりトモはこの修兄ちゃんに何か話すことはないのか」
「 何か?」
「 昼間は、お前が学校だったから全然聞かなかったけど、何かあったから電話してきたんだろ? 俺は一旦トモのことを気にしだすと、心配で何も手につかなくなる男だからな。だからこんな怖いお兄ちゃんとも一緒なのずっと我慢してな」
  光一郎はイライラも極限に達したような顔をして、乱暴に立ち上がると友之の食器をがちゃがちゃとトレイに乗せ、台所へ運んで行ってしまった。それからはもう2人の顔を見るのも声を聞くのも嫌だとばかりに流しに背を向けると水をめいっぱい出してそれらをひたすら洗い始めた。修司はそんな光一郎の背中を眺めて、またくくっと低く笑ってから、ようやくテーブルを挟んで友之の目前の位置にまで近づくとこっそりと言った。
「 まったく、光一郎君をからかうのは楽しすぎる」
「 ………」
「 ま、でも……こんな可愛いトモを泣かせたのは許せないけどな」
「 ………修兄いつ来たの」
「 ん? ああいつだったかな。19時くらいかな? お前らがいないもんで、ドアの前に座りこんで待っていたら、隣のおばはんにすっかり不審人物扱い。コウはコウで俺の顔見た途端、すっげェはた迷惑な顔して、開口一番 『何しに来た』 だしな」
「 ごめん」
  友之が謝ると修司はいやに優しい顔をして、俯きがちの友之の目元をすっと指で撫でた。そして友之が顔をあげると、にっと笑う。
「 俺はこんなにトモのことが好きなのにな。 トモのこと考えると、そうも言っていられないな」
「 ………」
「 でも、光一郎にちゃんと言えよ」
  修司はそう言ってから、今度はひどく真面目な顔をした。友之は時々そんな目をする修司を怖くなることもあるのだが、普段軽い分だけ、彼の言葉には重みを感じた。
  修司はいつも友之に大切なことは何も言わない。肝心なことも何も聞かない。ただとりとめのない話をして、笑って、頭を撫でてくる。 それは多分修司という人間が必要以上に他者との関わりを避けているからだろうと友之にも分かってはいるのだが、それでもそんな修司の傍にいることは、友之にとってはとても居心地が良くて楽なことだった。
  もし修司が沢海と同じような感情を友之に抱いているとして、それを直接自分にぶつけてきたとしたら、多分友之は耐えられないだろうと思う。
  光一郎が食器を洗い終えて戻ってきた。
  相変わらず仏頂面である。友之と修司を見てから、黙ってそこに座った。
「 ……今日」
  その時友之が口を開いた。
  修司は何となく視線を外へやっていたが、友之の声を聞いて「ん?」といつもの穏やかな声で聞き返してきた。光一郎はただ友之を見ている。
「 友達の家に行った」
「 友達?」
  光一郎が聞き返し、修司は黙っている。友之は何だか身体が熱くなってきて、また俯いた。
「 友達って…誰のことだ」
  光一郎が聞いた。友之は下を向いたまま言った。
「 ……拡」
「 拡? 沢海君か?」
  友之が頷く。修司は怪訝な顔をしていた。しかしあくまでも落ち着いた仕草で、再び座りながらベランダの方へ移動し、新しい煙草を出す。そしてそれをくわえながら光一郎に聞いた。
「 誰、そいつ?」
「 トモの中学校からの友達だよ」
「 ……へえ。そういう友達いたんだ」
  友之に対して極めて失礼だと思われるようなことを修司は軽く口にし、 やや皮肉な笑みと共に光一郎を再び見やった。
「 で、何? どういう友達なの? トモの2番目のお兄ちゃんとしては、そりゃ是非とも知っておかなきゃな」
「 お前、トモの交友関係なんか訊いたこともないくせに」
  うっとおしそうな顔で光一郎は修司を見た。 修司はそれに対してやはりあっさりとしている。
「 だってどうでもいいことだろうが」
「 なら訊くな」
「 そいつは別。………何となく」
 修司は恐ろしく何もかもを見通したような顔をして友之を覗きこんだ。
 友之は2人に視線を送られて、もう今すぐにでもこの場から逃げ出したくなったのだが、それに反して身体は言う事をきかなかった。 助けを求めるように修司を見ると、自称「2番目の兄」はそんな友之をじっと見つめてから珍しく困ったような顔をした。
  そして光一郎に言う。

「 そのさ、拡君…だっけ? それって不良なの?」
  光一郎が眉をひそめると、修司は煙草を口から離してから続けた。
「 だから、トモに学校サボらせちゃうようなワルなのかって意味」
「 いや……」
「 コウは会ったことあるんだろ?」
「 そんなにないけどな。……優等生だよ、町内でも評判の」
「 え? 評判なの? 俺知らないけどなあ」
「 お前はほとんど地元にいないだろうが」
「 それにしてもコウ君に優等生とか言われる拡君ってな、相当だな。なあ、もしかしてソイツ、イイ男だろ」
  何やら含んだような言い方の修司に光一郎がまたむっとして黙りこむと、修司は、今度は友之に訊いた。
「 な、トモ。拡君は学校でもモテるんだろ?」
  押されるように訊かれて、友之は反射的に頷いていた。するとそんな友之を見た修司は得心したように何度も頷いてから「そうかそうか」と一人で嬉しそうに呟いた。
「 何なんだ」
  いよいよ不機嫌になった光一郎がそう問うたが、 しかし修司は光一郎を無視すると、友之に向かって軽快に言った。
「 拡君の家にずっといたのか、トモは」
「 ……違う」
「 違うのか? だってお前、学校は午前中で出たんだろ?」
「 すぐ帰った」
「 ……あ、そう。ふーん」
  修司はまた一人で納得したようにそう言うと、後はまた知らぬフリをして煙草を吸い始めた。友之は修司は全部分かっているのだろうかという不安な気持ちに駆られて、ただ顔を紅潮させた。
「 何で沢海君と学校サボったりしたんだ」
  光一郎が訊いた。友之がはっとして顔をあげると、光一郎の方はもう当に友之のことを見ていた。
  何と言ったらいいのか友之は分からなかった。それでも自分を見やる光一郎から視線を逸らすこともできなかった。

  その時、電話が鳴った。

「 ああ、俺出てやるよ。お前らは修羅場なんだし」
  修司がさっと立ち上がってそう言った。光一郎は一瞬ためらうような所作を見せたが、しかし電話の方へ向かう修司を一瞥だけして、あとはまた友之に視線を送った。
「 沢海君と何か…あったのか」
「 何でそんな事訊くの」
「 訊くだろう、普通は。嘘ついて早退までしているんだから」
「 そんなの…みんなやっている」
  友之が逃げるようにそう言った言葉を、光一郎は聞き流してはくれなかった。
「 みんなやっているからサボったのか。お前、そんないい加減な奴なのか」
  光一郎の手厳しい言い方にズキリと胸が痛んだ。ぎゅっと唇を噛み、そしてまた俯いた。
「 トモ、ちゃんとこっち見て話せ」
  尚も光一郎は許してはくれなかった。こういう厳格なところは本当に父親に似ていると友之は思う。思って、いたたまれなくなる。
  その時、修司が素っ頓狂な声を上げた。
「 お前ホント、よくやるよ!」
  突然修司がそう叫んだことで、光一郎も友之も驚いて電話台のある方へ顔を向けた。すると修司はその2人に気づき、やや苦笑してから友之に「由真だった。まあ丁度いいわ」と言った。それからまた電話口に向かって何やら明るく話し始める。
「 誰だ?」
  光一郎が不審な顔をして友之に訊ねた。
「 修兄の知り合い」
「 ……何でアイツの知り合いがうちに電話してくるんだ」
  憮然としてそうつぶやく光一郎に、友之はぽつぽつと喋った。
「 その子…修兄のことすごく好きなんだ」
「 ん……?」
  光一郎が怪訝な顔をするのを見ないようにして友之は続けた。
「 だけど修兄はその子のことあんまり好きじゃなくて、だから突然連絡先も教えないで違う友達の所に移っちゃって」
「 ……ああ、そういえばこの間アイツそんな話していたな」
  光一郎がそう言うのを友之は自分の声でかき消した。
「 でもその子は修兄がすごく好きだから、会いたいからって、町内中を歩きまわろうとしたり、電話帳見て家探そうとしたり…」
「 ……それでお前の所にも何か言ってきたのか」
「 別に。ただ連絡取りたいからって言われて、修兄に電話してあげるって言ったんだ」
「 お前が?」
  修司と同じような反応を光一郎はした。やはり意外だったのだろう。友之がわざわざ自分からそういうことをする人間ではないことは、光一郎が1番良く知っている。
「 だけどお前。その子には裕子のことちゃんと言ってあるのか」
  光一郎が言った。友之が顔を上げると、相変わらず厳しい顔がそこにはあった。
「 修司には裕子がいるんだぞ。その子に下手に協力しても、後で傷つけるだけじゃないのか。大体、馬鹿なことしているのは修司だろう。コイツの問題じゃないか。何でお前、そうまでして―」
「 好きだから会いたいんだって」
  友之は同じことをもう一度言った。光一郎は口をつぐんだ。
「 だから、顔と名前しか知らない僕のこと、駅でずっと待ってたんだ。僕は、修兄の唯一の手がかりだからって」
「 ………」
「 何で…そこまでできるのかな」
「 好きだからって…その子が言ったんだろう」
  光一郎が答えると、友之は思い切って顔を上げた。
「 コウは…何で呼んだの」
「 え?」
「 何で…僕をあの家から連れ出したの?」
「 ………嫌だったのか」
  友之は慌ててかぶりを振り、また俯いた。
  母が亡くなって、姉が家を出て。自分とは何の会話もない父親とあの家に2人で残された時、友之はどこに身を置いていいのか全く分からなくなった。苦痛だった。父は友之に優しい言葉をかけたくれたことなど一度もない。ただいつも憮然として、ただいつも蔑むような目で不出来な息子を見つめていた。
  諦めるように。
「 お前をあんな所には置いておけなかった」
  不意に、光一郎が言った。友之が顔を上げると光一郎は戸惑ったような、迷ったような顔をしていた。
「 夕実もいなくなったしな…。親父も再婚が決まっていたし、お前だってあの家にはいたくないだろうと思った」
「 でも……迷惑だったんじゃないの」
「 ……友之。お前本気でそんな事言っているのか」
  光一郎は多分怒ってくれるだろうと思った。そして案の定怒った声をしていた。それでも、友之は自分のざわついた心を落ち着かせることができなかった。
「 だって…。コウは1人になりたいから大学受かって家出たのに…。面倒くさいよ、こんな奴……押し付けられて」
「 ……もういいだろう。そのくらいにしとけ」
「 コウは何で僕のこと面倒見てるの。何でそんな面倒なことするの」
「 ………弟の面倒見るのは当たり前だろ」
「 ………」
  2人が黙りこむと、突然妙に涼し気な声が割って入ってきた。
「 あの、そこの仲良し兄弟」
  電話はいつ切ったのだろうか、修司が半ば呆れたような顔をして電話口の傍に立ち尽くしていた。
「 俺さ、ちょっと今から出てくるんだけど。また戻ってきていいですかね? 今夜はもうすっかり泊めてもらう気だったんですけど」
「 ……電話の子の所か?」
「 ん? ああ、そうそう。どうしても会いたいって言うからさ。ちょっと行ってくるわ。んで、ハッキリ言ってきたらまた戻ってくるから。何か夜食とか用意しておいてもらえると嬉しいんだけどなぁ」
「 ……知るか」
  光一郎が不機嫌極まりない声で言った。 しかし修司は意地の悪そうな顔をしてそんな光一郎を見やってから、次に友之の方を見た。
「 あのさあ、トモ。お前は素直な奴だからすぐに人の言う事真に受けちまうけど、この光一郎兄ちゃんの言う事はあんま気にするな。コイツ、相当嘘つきだから」
「 ……修司。出て行くなら早く行けよ」
  友之の不審そうな顔を見ながら、光一郎が押し殺したような声で言った。修司は大袈裟に両肩を上下させ、大きなため息をついた。
「 行くよ。……ったく、馬鹿な奴」
  そうして修司は最後にはそう吐き捨てるように言い、次に友之の顔見て、こちらには優しい笑みを向けた。
「 トモ〜帰ってきたら今夜は一緒に寝ような。ベッド半分空けとけよ」
  修司はそう言って颯爽と去ってしまったが、 残された光一郎と友之にはしらっとした空気が流れた。

『 弟だから面倒見るのは当たり前 』

  やはり光一郎はそう言った。
  それは彼が模範的な兄だからだ。いつでも周囲が認める「正しい」行動を起こす兄。優秀で、何でもできてしまう完璧な兄。だから彼は友之のことをあの家から救ったのだ。

  でも。


『 でも、トモちゃんってさあ… 』


  夕実の声が聞こえる。


『 でもトモちゃんて、本当はうちの子じゃないんだよね…… 』



To be continued…



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