(12)



  光一郎はともかく、夕実には実母の記憶は一切なかったという。
  2人がまだ幼い頃―夕実に至ってはまだ赤ん坊だったらしい―実の母親である女性は突然姿を消した。正式に離婚の手続きは取ったらしいが、当時の光一郎にしてみれば、母は「突然いなくなった」という意識がやたらと強かった。 ただ当時彼はまだ5歳になるかならないかだったというのに、 母が不意に消えたことそれ自体に関しては、「別段悲しくもなかったような気がする」と、後に友之に語ったことがある。
  2人の実母が去ったすぐ後に、新しい母親―涼子はやってきた。
 夕実などは当時の年齢などを考えると、 もし父方の祖母―当時は同居していた―が本当の母の存在を吹聴したりしなければ、 恐らく何の疑問も抱かずに後妻の涼子を実の母だと思って過ごしたことだろう。
  しかし、姑である祖母と涼子との確執はひどいものだった。
  ほとんど一方的に姑が嫁をなじるという光景ではあったが、その度に光一郎や夕実は、この涼子という女性が自分たちの本当の母親ではないこと、涼子のせいで自分たちの本当の母親はいなくなったのだということを聞かされる羽目になった。ただ、2人は口うるさい祖母が嫌いだったから、たとえそれが事実だとしても、温和で優しい涼子を嫌いたくはないと思っていた。この女性と自分たちとは他人なのだという複雑な思いだけは嫌でも心に刻まれることとなったが、しかしそれでも友之の存在がそんな気持ちを消すことも多々あった。

『 コウ君、夕実ちゃん。弟ができるの。仲良くしてあげてね 』

  ある日、涼子はそう言って殊のほか嬉しそうに笑った。光一郎はそう言って優しく微笑した涼子の顔をいやに鮮明に覚えている。
  彼女は光一郎たちの父と再婚してから間もなくして、友之を出産した。結婚してから1年経たないうちの出産であった。
  涼子を忌み嫌う祖母は友之が5歳の頃亡くなったが、それまでずっと「涼子と自分たちは他人」と思わされてきた光一郎と夕実も、祖母の言葉がなくなったせいもあり、これで皆本当の家族になれるのだなという気持ちになった。そもそも自分たちには半分でも血の繋がった友之がいる。だから涼子も自分たちの母には違いない…そんな風に感じたようだった。
  涼子は実子の友之だけを可愛がるといったことは決してせず、3人の子供たちを実に平等に愛した。特に女の子である夕実には手作りの洋服を着せたり、一緒に料理を作ったり…。事によると末っ子の友之よりも可愛がっているような感があった。

『 お母さん、夕実の絵見て! 』
 
  故意なのか照れなのか、あまり「お母さん」と呼ばない光一郎とは違い、夕実は実によく後妻・涼子に懐いた。そして、弟である友之をとても可愛がった。

『 友ちゃん、お姉ちゃんが遊んであげる! 』
 
  友之の1番古い記憶は姉の笑顔だ。

『 友ちゃん! そう言うことしちゃ駄目でしょ! 』
 
  1番最初に自分を叱ったのもきっと夕実だろうと友之は思っている。

『 夕実ちゃんはいいお姉ちゃんね 』
 
  涼子はそう言って、いつもにこにこ笑っていた。
  友之にとって涼子という母親の存在は実に希薄だった。
  いつも自分の手を握っていたのは、姉の夕実だった。





「 トモ、おはよう」
  昼近くになってのそのそと起き出してきた修司は、 光一郎のものでも借りたのか、黒のジャージにTシャツという思い切りラフな格好のまま、 居間でテレビを見ている友之の所にやって来た。 しかし未だ意識がはっきりしないのか、寝ぼけ眼のままだ。
  昨夜、修司は予告通り友之のベッドに入り込んできて、窮屈で身じろぐ友之には一切構わずあっという間に眠りこけてしまった。堪り兼ねた友之は結局そこから抜け出したのだが…。

「 コウ君は」
「 バイト」
「 はあ。働き者だな。あれだっけ? 工藤さんの事務所だっけ?」
「 うん」
「 将来は有能弁護士か、コウ君も」
  修司はつぶやいてから台所へ行き、冷蔵庫から牛乳パックを取り出すと、そのまま口をつけてごくごくと飲んだ。それからただじっとテレビに視線をやっている友之の背中を眺める。
「 トモも飲むか、牛乳」
「 いらない」
  振り返りもせずに友之は答えた。
「 大きくなれないぞ、好き嫌いしていると」
「 朝飲んだ」
「 ふーん? 休みなのに早起きなんだな」
  修司は感心しているのか馬鹿にしているのかよく分からないニュアンスでそう言うと、牛乳をしまってから居間に戻って友之の傍に座った。
「 で、飯は?」
「 レンジに入っているって」
「 それはトモのじゃん。俺のはないの?」
「 なかった?」
「 コウ君もひどいよなあ。やることがあからさまなんだもんな。早く帰れって言っているようなもんだ」
「 昨夜、喧嘩した?」
  友之がここでようやくちらと修司の方を見ると、 修司は「あ、やっぱ起きちまったか」と別段申し訳なさそうでもなく言った。
「 まあ色々と。あれで心配してくれてんのかねえ」
  修司は言いながら傍にあった新聞に手を伸ばした。 それを修司が取る前に友之はすかさず取って無言で渡した。 修司は「お、サンキュ」と言ってから話を続けた。
「 けど、俺はてっきり由真のことで怒られんのかと思ったけど、言うに事欠いてあの馬鹿、家に帰れ、だからな。てめえは何なんだっつーの」
「 ……でもマスター、心配してたよ」
「 おいおい、トモまでどした? あーあ、やっぱトモはコウ兄ちゃんの味方か」
「 そんなんじゃない」
  少しだけむくれて友之は声を荒げた。 修司は意表をつかれた顔をしてから「冗談だよ」と言って笑った。それで友之はまた黙りこくってテレビに視線をやった。
  しばらくテレビの画面から流れる音楽だけが、部屋を満たした。
 修司は新聞を読んでいて視線を友之に投げかけないし、友之も何となく声をかけられなくて黙っていた。ただ、修司と話がしたいと思っていたから、そのまま傍にはいようと思っていた。そうしていれば、いつかは絶対修司の方から声をくれるから。
  案の定、やがて修司は新聞を折りたたんで横に置くと、友之の方に視線をやってきた。そして言った。
「 昨日、俺が出て行った後、コウ兄ちゃんとは仲直りしたのか」
「 うん」
  友之がすぐ頷くと修司は笑った。
「 お前な、そういう話がしたいならすぐに言え。俺にまで遠慮してたら死ぬぞ、実際」
「 ……うん」
「 で? 光一郎は『 もうこういう事はするなよ 』で話を締めちゃった?」
「 うん」
「 ふーん。で、トモも分かったとか何とか言って終わりなんだ」
「 うん」
「 馬鹿馬鹿しい」
  修司は鼻で笑ってから、しかし優しい目だけはいつものままで友之のことを見つめた。
「 結局何でそういうことしたのかとか、そういう話は一切なしか」
「 ……訊かれたけど」
「 だんまりか」
「 言いたくない」
「 ……まあいいけど」
  修司は素っ気なく言ってから、腕を伸ばして友之の髪の毛をぐしゃりとやった。友之が戸惑った顔をすると、自称2番目の兄はここでようやくいつものような笑みを見せた。
「 まあ、そういうトモもな。俺にとっちゃ可愛いから」
「 修兄は……」
「 ん?」
「 昨日、あの子と会ったんでしょ?」
「 由真? 由真に会いに行くって言っただろ。会ったよ」
「 ………それで」
「 ああ、お前とはもう会う気ないからってな。きっぱり言ってきた」
「 ………会わないの」
「 会わないよ」
「 何で」
  友之の質問に、修司は実に奇異な目を見せた。それからゆっくりと言う。
「 あいつはさ、『じゃあ友達でもただの知り合いでも何でもいいから、これからも時々は会って』って言ったよ。俺がアイツのこと女として見てないっての、アイツは元々解っていたからな。 最初っからいやにさっぱりしてたし、実に明るく言いやがったよ。『彼女にしたくはなくても、アタシみたいな奴と親友になりたくない?』ってさ」
  修司は言ってから、手持ち無沙汰のように煙草の箱に手を伸ばした。しかしそれが空だと知ると、あーあとなってそれをぐしゃりと握りつぶしゴミ箱に捨てた。
「 この家には何で煙草も灰皿もないんだ」
「 吸わないもん」
「 知ってるよ」
  修司は言ってから前髪をかきあげると話を元に戻した。
「 親友ね。いい響きだけどな。俺の親友は光一郎だけでいい」
「 何で」
「 あとはいらないわ」
  修司は実に冷たくそう言うと、理解できていないような友之にまた微笑した。
「 大体惚れた相手にフラれてさ、これからは友達として付き合っていこうなんて都合のいい話、俺は基本的に信用してないわけよ。世間にゃそういうパターン結構あるし、実際いい友達になっている例もそりゃ見るけどな。俺は無理。俺にはそういう器用な真似はできないの」
「 修兄は器用だと思うけど」
「 それはお前が光一郎と一緒にいるからだろうな。傍にひどい不器用モンがいりゃ、 そりゃその他の人間はみんな器用モンに見えるだろ」
「 そんな事ない。僕が知っている中で1番器用に見える」
「 それじゃそれはお前がまだそれほどたくさんの人と付き合ってないって印だよ」
 修司は言ってから、時計をちらと見やった。
「 腹減った。トモ、何か作って」
「 ……あの子のこと、嫌いなの」
  友之は由真のことが自分でも信じられないほど気になっていた。自分の好きな相手にあっさり拒絶されて、もう会いたくないと言われて。一体どういう気持ちだったのだろう。あの明るい人間が突然悲しんだり苦しんだりというのは想像できなかったが、 それでも平気でいられるわけはないと思った。
「 嫌いじゃないよ」
  修司は言った。友之はその言葉をじっと聞いてから、また訊いた。
「 じゃあ何でもう会わないの」
「 あいつは嫌いじゃない。けど俺は人にしがみつかれるのは嫌いだ」
「 ………」
「 トモは別だけど」
「 そんなの訊いてない」
「 訊いていたよ」
  修司は言ってから、突然リモコンに手を伸ばすとテレビを消した。急に周囲の音がなくなったので、友之は心なしか動揺した。沈黙することには慣れていても、こういう静けさは好きではなかった。友之は俯いた。
「 裕子さんは…」
「 好きだよ」
「 本当?」
  友之が顔を上げると、そこにはもう当にこちらを見ている修司の顔があった。
「 ………半分嘘」
  修司はもうすっかり笑みを消していた。友之は真面目な修司というものとあまり対面していなかったから、どうしていいのか分からずにただ押し黙った。
「 しょうがないよな。こういう風にできちまったんだから」
「 ………」
「 どういうわけか……そういう人間になっちゃったんだよな」
「 意味…分からない」
  友之が言うと、修司は予想していたのか、すぐに切り返してきた。

「 それでいいんだよ。トモは分からなくていいの。お前はちゃんと人のこと好きになって、ちゃんと人の痛み分かってあげられる奴でいろよ。俺みたいになっちゃ駄目だ」
「 修兄は……優しいよ」
「 いい奴だなあ、トモは」
  修司は言ってから、また友之の頭をなでた。 その時、ようやく友之は修司がらしくもなく落ち込んでいるのだと気がついた。多分、由真を冷たくあしらったことを後悔しているのだろうと思った。
  それでも、この人はきっともう由真には会わない。
「 なあトモ、マジで腹減った。何か作ってくれー」
「 ラーメンとかしか作れないよ」
「 いいねえラーメン! けど、俺はラーメンには煩いよ?」
  修司は言ってから、「じゃ、早速頼む」などと図々しくも急かし始めた。それで友之が言われるまま立ち上がると、丁度その時、タイミングが良いのか悪いのか、玄関のチャイムが鳴った。
「 誰だ?」
  修司が何気なく言ったが、友之ははっとして、立ち上がったくせに出ることができなかった。 土曜日、光一郎がいない時に限って訪問は多いし、電話は鳴る。友之にはいい迷惑だった。
  修司がそれを察してだるそうに立ち上がった。
「 ったく、引き篭もり少年だなあ。ま、お前はラーメン作ってろ」
  偉そうに言ってから修司は玄関の方へ歩いて行った。そして誰かを確認もせずにガチャリとドアを開いた。友之は居間からちらりとそちらへ視線をやった。
  すると。
「 ………何であんたがここにいるのよ」
  くぐもった、聞き覚えのある声。
「 ……いやあ、久しぶり」
  そして修司の苦笑した声。
「 修司! あんたねー!!」
「 うわっ! やめろマジで! ご近所迷惑になるし! 色々怒る気持ちは分かる! 分かるけどとりあえずやめとけ! ほらトモも見てるぞ!!」
  修司はそう言って身体を仰け反らせながら振り返って友之の方へ視線をやった。
「 あ………」
  そこには腕を振り上げ、今にも修司に殴りかかりそうな裕子の姿があった。
「 ト、トモ君…っ」
  友之の放心したような顔に慌てたのか、裕子はすぐに上げた腕を下ろすとあははと気の抜けた声を出して笑った。修司はそんな彼女の顔を見ながら、「お互い、トモの前だと態度違うな」と薄く笑った。



「 聞いてよ、トモ君!」
  結局裕子にラーメンを作ってもらい、修司がそれをほうばる横で、裕子は批難がましい声と顔を友之に向けた。
「 コイツが勝手にいなくなるのは構わないのよ。そんなの私も楽でいいし。けど、信じられないことにコイツ、うちのおばあちゃんからお金借りていたの! 信じられる? 私にだって随分借金しているくせに、よりにもよって年金暮らしのおばあちゃんからよ!? もう顔から火が出た。ホント、恥ずかしい奴なのよ!」
「 あのねえ、俺はトリさんが寂しいだろうと思って遊びに行ってあげたの。ほら、上高地の写真欲しがっていただろ? で、行ったら『修司や、これ持ってけ』っていきなりくれたの。俺はいらないっつったのにぎゅうぎゅうと押し付けてきたの。お前、その好意を無下にできるか?」
「 どうだか」
「 本当の話だって。だから借りたんじゃないぞ。貰ったんだ」
「 んまあ! 言うにことかいて、貰った!? 借りたって言いなさいよ、せめて!」
「 馬鹿、あの金返しに行ったらトリさんが傷つく」
「 ……色々な人間傷つけておいてよく言うわよね。あとね、香奈からも電話があったりして大変だったのよ。ショートのあの子が泣いているって」
「 だから知らないっつってんだろ。勝手に勘違いされただけ」
  ラーメンを食べる手を止めて、修司はウンザリしたように言った。友之は黙ってそんな2人を眺めていた。
「 勘違いされるような態度取るあんたが悪いのよ。 あっ、そうだ、トモ君! お金の話に戻るけど、こいつ光一郎からも相当借りてるわよ! 返す気ないかもしれないから、トモ君からも言っておいた方がいいわ。トモ君から言えばこいつも少しは―」
「 コウ君と俺の仲でそういう諍いは起きないの」
「 勝手なことばっかり言って。何で光一郎もこんなのといつまでも付き合っているのかしらね!」
  それは裕子も人のことは言えないのではないだろうかと友之は思った。


  その後も仲が良いのか悪いのか分からない言い合いが続き、友之は黙ってそんな2人のことを眺めていた。
  裕子が光一郎のことを好きなのは何となく分かっていた。 修司がそのことを知っていて裕子と付き合っているのも、修司がそんな裕子にそれほどの執着を持っていないことも、友之は何となく分かっていた。そしてそんな事はこの当人たちが1番よく知っているはずだった。それなのに何故2人が恋人同士でいるのか、友之にはよく分からなかった。
  分かっていることといえば。
  きっと2人はいつまで経っても本当の恋人同士にはなれないのだろうということだけだった。



To be continued…



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