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  北川兄弟が共に暮らし始めた当初、裕子はその2人がいるアパートへ頻繁にやって来ては昼食だの夕飯だのを作っていった。彼女は清楚で家庭的な外見とは裏腹に料理の腕は正直「今イチ」だったのだが、本人はそれに対してあまり自覚がないのか、いつも嬉々として自分の腕を披露したがった。
  元々がマメな性格の光一郎は、食事に関しても実に几帳面に栄養バランスの取れた料理をするし、家事全般も器用にこなす。よって別段女手が必要というわけでもなく、いってみれば裕子の親切はお節介以外の何物でもなかった。それでも、裕子は何かにつけて2人の世話をあれこれと焼きたがったし、当の友之たちもそれを甘んじて受けているところがあった。
  だからこの日も。
  裕子は大量の食材を持って光一郎たちのアパートへやって来たのだ。




「 今まで何処に行っていたの」
  散々言い合いをした後、 裕子は押し殺したような声でそう訊いた。…そんな態度の恋人のせいで昼食も「食べた気がしなかった」と言う修司は、しかしその問いには何でもない事のようにすぐさま答えた。
「 そこらへん」
「 ……あんたね」
「 まあいいじゃないの。 ただ今回は撮るのが目的で出てたわけじゃないから遠出はしてないぜ? 主に資金集めかな」
  修司はそう言ってから「カメラないだろ」と両手を挙げてみせた。
  修司はよくバイクで遠出をして山だの海だの赴いては、写真をたくさん撮ってくる。プロになりたいのかというとどうやらそうでもないらしいのだが、とりあえず彼の放浪癖は自分の納得いく絵を撮るためらしい。
  友之は別段写真に興味があるわけではなかったのだが、修司の撮ってくるそれらは初めて見た時から好きだと感じていた。外へ出ない分、修司がくれる風景を眺める事によって、自分もここではない遠い何処かへ行った気持ちになれるのが心地良かったのかもしれない。
「 修司って…将来どうするの」
  裕子の言葉に友之は思わずテレビに向けていた視線を戻し、2人を見つめた。
  修司はその質問には怪訝な顔をした。
「 将来? 何、結婚の話とかしたいの」
「 馬鹿じゃないの」
  裕子はすぐさま切り返して、フンと鼻で笑った。友之がそんな裕子を見た後修司に視線をやると、しかし言った恋人の方は割と真面目な顔をしていた。
「 お前ね。せっかく美人なんだから、そういう態度はやめろって。マジでそんなんじゃ男寄りつかないぜ?」
「 あんたが寄せ付けすぎなのよ」
  裕子の冷たい言いように修司はアハハと笑ってから、楽しそうに友之を見やった。
「 トモ、この不毛な会話聞いてどうよ? 裕子お姉さん、もう少し言葉に気をつけた方がいいと思わん?」
「 友君に話を振らないでよ! 友君はどうせ……あんたの味方するに決まってるんだから」
  少しだけ僻みめいた顔で裕子は言った。友之が修司に懐いていることは身近な人間なら誰でも知っている。 幼い頃から一緒にいたのは自分だというのに、やはり男の子だからだろうかなどと裕子は恨みがましく思ってしまう。
「 裕子さんも優しいよ」
  しかし、不意に友之はそう言って裕子のことをじっと見つめた。
「 え……」
  これには裕子も面食らって友之の方を慌てて見つめ返した。こんな風に言われたのは初めてではないだろうか。戸惑って何も言えずにいると、修司が笑った。
「 お前、そういう事言われたの初めてだから何て言っていいのか分からないんだろ?そういうとこはかわいいよな」
「 う、うるさいわね!」
「 トモ、ところでさ、今日光一郎兄ちゃんはいつ帰ってくるんだ?」
「 ……夜かな」
  いつも帰りは不定期だった。修司は「そうか」と言ってから、ちらと時計を見た。
「 んじゃ、しょうがねえからそれまで―」
「 それまでって…修司! あんた今日もここに泊まる気!?」
「 泊まる気」
「 そんな、図々しい! どっかよその家にでも行きなさいよ! ってーか、家帰りなさいよ!」
「 だから帰るよ。んで、顔見せしたらまた戻ってくるからさ。久々に4人で飯でも食わない?」
「 え?」
  いきなりの修司の提案に裕子はぽかんとした。友之も事態を飲み込めないでいると、修司は平然として答えた。
「 外行くんでもいいけど、 光一郎帰ってきてまた出かけるの嫌がりそうだからさ。せっかくだから裕子お姉さんが腕奮えば」
「 い、いきなりよくそんな事」
「 実はやりたいくせに」
  修司がにやにやして言うと、裕子は途端にむっとした顔をしたものの、友之の方をちらりと見てからおずおずと言った。
「 友君はどう思う…?」
「 いいよ」
「 本当?」
  友之が頷くと、裕子はパアッと顔を明るくした。結局、裕子は北川兄弟のために料理を作りたくて仕方ないのだ。
「 じゃ、じゃあ私これから買い物に行ってくるわね!」
「 あ? さっき色々買い込んでいたのは?」
「 あれはお昼用じゃない! でも光一郎が友君の作っていたから…。今度は夕飯用のものを買ってこなくちゃ!」
「 ……いい嫁さんになるよ」
  修司が呆れたように言った皮肉も、どうやら裕子には聞こえなかったらしい。そそくさと立ち上がると、もう2人の存在など構わないかのような勢いで出かけて行ってしまった。
  裕子がいなくなると、途端に部屋が空虚になった感じがした。
「 それじゃ、俺も一旦帰るな」
  そして修司も立ち上がって自分の服に着替え始めた。Tシャツを脱ぎながら友之に一応という感じで声をかける。
「 それともお前も一緒に行くか? 明日練習だろ? 打ち込みやっとくか?」
  友之は少しだけ悩んだ後、首を横に振った。「アラキ」には行きたかったが、今はきっとどんな球も打てないだろう。そんな気がした。要はやる気がしないだけなのだが。
  修司はそんな友之の顔を少しだけ眺めた後、「それじゃまた後でな」と言って出て行ってしまった。
  あっという間に1人になり、友之はごろんと横になった。テレビはつけたままだったから騒がしい音はしていたが、絨毯に顔をつけて目をつむると、辺りからは全ての音が消えたような気がした。

  静かだ。

  1人はいいなと思う。気を遣わなくていいし、無理に言葉を出す必要もない。確かに自分の中で時に光一郎に傍にいてもらいたいという思いや、修司に甘えたいという思いを抱くこともあるが、反面その後でそう思ったことを大抵は後悔することになるから、それなら始めから1人でいた方がいいとこんな時は強く思う。
  こんな風に、1人で目をつむっている時は。


『 トモちゃん、お姉ちゃんと一緒に家にいよう!』
『 コウちゃんたちとなんか遊んだって面白くないよ。2人でいよう!』


  夕実はよくそう言っていたっけ。今頃になってそんな台詞がやたらと思い返される。内向的になり、人と会うのが段々億劫になってきたのも、あんな幼少時代があったからではないだろうかという気が今はする。
  いつもいつも。
  夕実は自分を囲おうとして。
  囲われて。
  そんな事を考えている時、不意に電話が鳴った。
「 ……っ!」
  びくりとして反射的に身体を起こした。どうしてこの家はこんなにしょっちゅう電話が鳴るのだろう。嫌だ。友之はけたたましくなる電話の音に眉をひそめながら、それが切れるのをただひたすらに待った。
  しかし、それはなかなか鳴り止んでくれなかった。
「 ………」
  そうしているうちに、もしかしてこの電話の主は由真なのではないだろうかという気持ちが友之の脳裏をよぎった。何故彼女なのかは分からないが、とにかく由真がかけてきているような気がした。
  友之はのろのろと立ち上がると電話台に近づき、そっと受話器を手に取った。
  どうして由真となら話したいと思うのか、自分でも分からずに。
「 はい……」
  か細い声だ。自分でおかしくなってしまう。友之はそんな大嫌いな自身の声が嫌で目を閉じた。
『 ………』
  しかし、電話の相手は友之の声が聞こえなかったのか何なのか、声を発してこなかった。
「 もしもし……」
  おかしいと思いながらもう1度、今度はより大きな声で言った。 このアパートに来てから初めてかもしれなかった。自分からこんな風に電話に出たのは。
  冷静にそんな事を思った時、不意に受話器から声が聞こえてきた。


『 トモちゃん……?』


  一瞬、何が起きたのか友之には理解できなかった。
『 もしかして…トモちゃん、だよね? そうだよね…?』
  何も応えられなかった。言葉を忘れてしまったみたいだった。
  そして動くことができなくて。
  それなのに向こうは、電話の主は、友之が応えないうちに1人で話し始めた。
『 うわあ……久しぶりだね。本当に。元気だった? ほら、電話してもトモちゃん出てくれないから……。それに荷物、確かに大した物送ってないけど、あれ送っても、いつも返事くれるのコウちゃんだけだし。トモちゃんどうしているかなって思っていたんだ』
  相手の言葉を、友之はまるで夢の中で聞いているかのような気持ちで耳に入れていた。
  それでも忘れるはずのないこの声が。

  友之の中の何かを刺激していた。
『 学校は楽しい? あんまり詳しい事はコウちゃんも手紙に書いてくれないから分からないけど、でもコウちゃんと2人でうまくやっているんだものね。大丈夫だよね。それとも何か困ったこととかある? いつでも言ってね』
  昔と変わらない調子で相手は言った。
  それでも友之が何も言わないのをさすがに気まずく思ったのか、しばらく黙った後、相手は沈んだ声を出した。
『 何か…私ばっかり喋っているね…。やっぱりトモちゃん、怒っているの? 私が勝手に家出たこと』
「 別に……」
  やっとかろうじて声を出すと、向こうはほっとしたような調子になった。
『 ホント? それなら良いけど…。あ、ねえ! 良かったら今から会わない? もうずっと会ってなかったし、私トモちゃんに会いたいんだけど』
「 ………」
『 エヘヘ…。本当言うとね、実はもうすぐそこまで来ているの。ねえ、今からそこに行ってもいい?』
「 ……!!」
  嫌だ。
  そう思ったが、声が出なかった。
『 トモちゃん? どうしたの? …やっぱり私には会いたくない? …お姉ちゃんなんて、名ばかりだものね』
  お姉ちゃん。
  久しぶりに聞いたその言葉に、友之の心臓は締め付けられるような気がした。
「 これから…」
『 え?』
「 出かけるから」
  そう言って、友之はガチャリと電話を置いた。
  ドキドキした鼓動はそのままに、しかし友之は硬直した身体を無理に動かして、棚から家のキーを取るとすぐさま玄関へ向かった。
  ああは言ったものの、夕実はもうすぐそこにいるのだ。近くに来ていると言った。ならばもたもたしてはいられない。一刻も早くここから逃げ出さなければ。そう思った。
  会いたくない。会いたくないのだ。
  しかしその時。

  ピンポーン。

  玄関のチャイムが鳴った。
「 ………!?」
  びくりと肩を揺らして友之は動きを止めた。冷たい汗が流れてきて、ただじっと今いる場所から真正面に位置するドアを見つめた。
  本当にすぐ傍で電話していたのだろうか。

  それでも友之は扉を開けて夕実を迎えることができずにいた。あれほど仲が良かったのに。あれほど優しくしてもらったのに。
  けれど。

  愛されているという思い以上に、憎まれていると感じていた。

  ピンポーン。

  再びチャイムは鳴った。友之はどうすることもできずに、ドアに近寄ること もできずに、居間の入口から恐る恐る外の気配を感じ取ろうとした。
「 いるのは分かっていますよォ!」
  すると突然、ドアの外からはそんな突拍子もない声が聞こえてきた。
「 とーもー君! 遊びましょうー!!」
  友之は思い切り意表をつかれて、がくりと力が抜けた。今度は驚きのあまり動けずにいると、 扉の向こうの相手は何とも図々しいことにドアノブをガチャと回して勝手に北川家の玄関に入り込んできた。
「 あのさあ、居留守使うならカギかけとかなきゃだめでしょう? 無用心な人だなあ、それともやっぱり抜けてるの?」
  明るい茶系のざっくばらんに切られた髪。耳にはピアス。高校生にしてはスラリと背の高いその人物は、ラフな格好ながら目立つ風貌に似つかわしい洒落た雰囲気を纏っていた。
「 数馬君参上ッ!」
  そうしてその人物―無敵のイケメン高校生・香坂数馬は、自分と2、3メートルほど離れた位置で放心している友之ににっこりと笑ってみせた。
「 せっかく私立入って完全週休2日の土曜日でもさ。君って人はどうせまたイジイジと部屋でくらーくテレビでも見ているんだろうなあと思ったら、何だか可哀想になっちゃってね。今日はわざわざ君の為にスケジュール空けて遊びに来てあげたよ」
  そう言いながら数馬は靴を脱ぐとずかずかと中にあがりこみ、「ところで何で間抜けに立ち尽くしてんの?」と、友之の頭をぽんぽん叩いた
  それでも友之が未だに反応を返せずにいると、数馬はここでようやく一旦口を閉じ、思い切り不機嫌な目をして言った。
「 あのさ、そんなに嫌だった? 俺が来たの」
「 ………」
「 やっぱ一昨日のこと根に持っているわけ?」
  一瞬何の話だったろうかと友之は思ったが、不意に数馬にされたキスを思い出してはっとなり、慌てて数馬のことを見上げた。
  すると数馬は意外そうな顔をして「何だ違うの?」と気の抜けたような声を出した。

「 忘れられてたってなら、それはそれでムカつくけどな。まあ君って何かいつも大変そうだから、どうせまた何かあったんでしょ。ボクってホントにタイミングのいい男だよね。良かったら聞いてあげるよ?」
「 ………い」
「 は?」
「 …………く……い」
  底抜けに明るい数馬が来てくれたお陰で何とか落ち着いてきた友之ではあったが、それでも言葉がうまく出なかった。
  そんな態度の友之に、数馬は心底呆れたような侮蔑するような視線を投げつけてきた。
「 あのね、トモ君。言いたいことはちゃんと言わなきゃね。何言っているのか全然聞こえない。理解不能。ボクはまだ光一郎さんみたいに君って人に慣れてないんだから」
「 いたくない……」
「 ん? 何? いたくない?」
  数馬が問い返すと、友之はようやくはっきりした声で数馬に言った。
「 ここにいたくない」
「 ………」
  それだけを言うのに荒く息をつぐ友之を、数馬は実に静かな目で見据えた。
  けれどもやがて数馬はそんな友之の髪の毛をぐしゃりとかきまぜ、冷たい調子ながらも言った。

「 じゃあ外行こうよ」
  友之はその誘いに黙ったまま頷いた。



To be continued…



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