(14) 数馬は車が嫌いだと言った。 「 あんなものは、ただ汚い空気を撒き散らして環境を汚染しているだけでしょ。ボクは一生車の免許は取らないんだ」 だからバイクも同様なのだと数馬は続けた。高校生になるとこれに憧れて免許を取得したいと望む男子学生は多いはずであるのに、数馬はそういうことにはまるで関心がないようだった。 むしろ嫌悪しているというか。 「 ボクってさ、前にも言ったかもしれないけど、結構モテるんだよね。顔イイし、頭もイイし、性格楽しいしね。けど、この話をすると引くコが多いね。『車持ってない男なんて寒すぎる』だってさ。別にお前らに気に入られるために何かしようとは思わないってーの」 「 ………」 友之は1人でそんな事を喋り続ける数馬の背中をただ黙って見つめていた。 修司や裕子が出て行って一人きりになった時、突然夕実からの電話は鳴った。本当は以前からあったのだろうが、友之が直接それに出たのは初めてだった。 今から会いたいという夕実の声に、友之は恐怖した。 だから。 「 じゃあ外行こうよ」 そう言った数馬の声に、友之は素直に頷いていた。何でも良かった。ここから出られるのなら、本当に何でも良かったのだ。 数馬はアパートの門前に停めていた自転車を指し示すと、「あれボクの愛車。漕ぐ方がいい? それとも後ろ?」と偉そうに訊いてきた。 「 ………自転車?」 何ともなしにそうつぶやくと、数馬はまたしても当たり前じゃないかという顔をしてみせた。 「 他の何に見えるっていうわけ? 確かにお金持ちのボクが乗るにしては何の変哲もないボロ自転車だけどさ。物は大切に使わなきゃね。大体ほら、坂上る時に自分の力がいらないやつとかあるじゃない? そういうの、あんまり好きじゃないの、ボク」 数馬はぺらぺらとそんな事を言った後、「この色も禿げかかってるなあ 」と、車体についている銀のペンキを見てつぶやいた。それからまたくるりと振り返り、固まっているような感の友之に声をかける。 「 ま、いいか。ほら、行こうよ。ここから離れたいんでしょ?」 「 どこ……行くの?」 友之は数馬の方ではなく、ただどんと居座っているかのような自転車を眺めて言った。未知の物体を見るかのような視線だった。友之にとっては普段乗り慣れない物だったからかもしれない。 「 んー? 別に何も考えてないけど」 数馬は言ってから、「何処か行きたい所ある?」と逆に訊いてきた。友之が首を横に振ると、数馬は意地の悪い顔をして笑った。 「 そう言うと思ったよ。君に行きたい所があるわけがないよね。君ってそういう人だもんね」 数馬の言っている意味が分からなかったが、 馬鹿にされたのだろうということだけは分かった。友之がぐっと唇を噛んで俯くと、数馬はすぐになだめるような声を出した。 「 ああ、はいはいごめんね。またいじめちゃったね。泣かないでよ、トモ君? ボクは君に意地悪はしたくないんだからさ。弱い者イジメって最悪だから」 そうしてまるで子供をあやすような仕草で友之の頭をぽんぽんと叩くと、数馬は「 じゃあ僕が漕ぐから君は後ろね 」と後部座席のない自転車の後方を指した。 友之は嫌だと言えなかった。 不安定な状態で立ち、数馬の肩に両手を乗せていると、友之は自分の身体のどこに力が入っているのかよく分からなくなって、最初はかなり困惑した。それに誰かと2人で自転車に乗るなど、もう随分なかった話だった。それこそ、小学生の頃に夕実の後ろに乗ったことはあったかもしれないが、それでもその時の自転車にはきちんと後部シートがついていたように思う。警察に見られでもしたら咎められるのではないかと友之は心の中で密かに心配した。 「 実はボクもさ、自転車久しぶりなんだよね」 商店街を通り過ぎ、いつも学校へ行く時に利用する駅をも通り過ぎ、踏み切りを渡って線路沿いをひた走りに走っている時、数馬は言った。 「 嫌いじゃないけど、あんまり乗る機会はないよね。普段は電車で事足りるし、ボク、基本的に歩くのが趣味だから」 「 趣味?」 大分この状態に慣れてきた友之だったから、ようやく数馬の言葉に返せる余裕が出てきて、後ろからそう訊いた。数馬はちらとそんな友之に振り返ってから、にっと笑った。 「 そ。まあ要は散歩だよね。あちこち歩き回るのが好きなの。勿論、ボクは多趣味だから、好きな事はそれだけじゃないけどね」 「 ………」 「 さすがにこの辺りまでは歩いて来ないけど。ああでも、この辺も実はまだ結構のどかな感じだね」 数馬の言葉に促されるように、友之は風を切りながら移動する景色に目をやった。 確かに、普段は気づかなかったが、いつも電車から眺めるこの風景は「綺麗」だった。整然とした建物群はまだ比較的新しく、様々な形を為した住宅が立ち並び、その周囲にはちらほらと緑が見える。そう、更にもう少し行けば幾つか小さな菜園を見る事が出来た気もする。幼稚園生が芋掘りに訪れる姿を以前1度だけ見た事があった。 「 ………」 そんなどうでもいいはずの記憶が何故か友之の心を次々と刺激した。 ふっと、心が和んだ。 「 ボクが歩くのはね」 数馬が言った。 「 色々な人に会えるから。そりゃ、自分の好きな場所に行って景色を楽しむこともするけど。僕は基本的に人間観察が趣味なの。だから歩くの」 そして友之の方は向かずに言った。 「 だから君が考えているようなこととは違うよ」 「 ………」 不思議な人だ。 初めて友之は数馬のことをそんな風に思った。 別に心を読まれたからそう思ったわけではない。ただ、普段は軽くてこちらを卑下するような態度ばかりの数馬が、今日は違う風に見えた事だけは確かだった。 友之はそんな数馬の背中を、再びじっと見つめた。 しばらくして、数馬は自転車を停めた。 普段野球をする時に借りている河川敷のグラウンドからはやや離れていたが、同じ川沿いの土手に、数馬は友之を連れてきた。 「 君は人が大勢いる所、あんまり好きじゃないでしょ」 数馬は言ってから、自転車をその場に置き去りにすると、「川の近くまで下りようか 」と言って、1人でさっさと歩き出した。 辺りには犬の散歩をしている人や、小さな子供を連れた家族連れがちらほらと見受けられたが、それ以外特に騒がしい人影は見受けられなかった。友之は素直に数馬の後を追い、草の生い茂る土手をそろそろと下って行った。 川と言っても水量はほとんどない。ごつごつした岩や砂利の方が目立つほどで、中にはその水に足をつけて水中の生き物を探している子供やその母親らしき姿もあった。数馬はそれよりは少し離れた草むらに腰を下ろすと、「はい、座って」と自分の隣をばんと叩いた。友之は言われた通りにした。 「 友君は川、好き?」 友之が座ったと同時にその質問はされた。友之が首を横に振ると、「あ、そう」と数馬はまたしても軽く返してから「ボクは好きかな」と言った。 「 最近はどこもかしこも汚いけどね。昔ってもっと遊べたよね。ザリガニ獲りとかしたことない? 僕の家からはほんのちょっとばかり遠いけど、ほら、あの水源地とかで」 「 ………嫌い」 友之はすぐに答えた。 友之の実家のすぐ傍には、「西の森水源地 」と呼ばれる、人々にとっての憩いの場所があった。 様々な種類の木々に覆われたその森にはきちんとした散歩コースもあり、多くの木々や植物を楽しむことができる。周囲には戦争の傷を感じさせる防空壕跡なども見受けられたが、そこは子供が入り込めないように堅牢な石で入口を封じていた。 さらにそこから数十分ほど歩けば小さな丘にも登れて、その周囲を一望できた。 また、今ではすっかりコンクリートで覆われてしまったようだが、以前は子供たちが気軽に遊べる川も流れていて、数馬が言ったようにザリガニやめだか獲りなどを楽しむこともできた。 友之も幼い頃、よく夕実と遊んで―。 「 ねえ、トモ君」 数馬が言った。 「 君の好きなものって何」 唐突な質問のように感じられたが、恐らくそれは自然な問いだっただろう。友之は自分に対してそう問い掛けてきた数馬に戸惑ったような視線を向けた。数馬もしっかりと友之のことを見据えてきていた。 「 君ってさ、否定の言葉多過ぎない? じゃあ何が好きなの、何なら気に入るの? すっごい疑問なんだけど」 「 別に……」 「 ほらまた。『別に』って台詞も多すぎるよ。そんなんじゃ、相手する方は疲れるよ」 「………」 胸にくる言葉だった。自分の相手をする人は疲れる。きっとそうなのだろうと思う。こんな人間に関わる人は、大抵迷惑を被って、疲弊して。 そして自分のことを嫌いになるのだ。 「 でもさ。ボクは君といても平気だよ」 数馬の言葉に、友之は弾かれたようになって顔を上げた。いつもと変わりない数馬の表情。涼し気で、不敵で。やや微笑したそれは、何だか優しい雰囲気があった。 「 大抵の人は疲れるだろうけど。ボクは他の人とは違うよ」 「 何で……」 「 何で? うーん、君ってすごく面白いからさ」 「 面白い?」 数馬の言葉に眉をひそめると、相手はまたはははと軽く笑った。 「 ああ、勿論ボクは君にイラついたらハッキリ言うし、嫌いだと思った時はきちんと言うよ。我慢は嫌いだからね。でもさ、確かに君にはイライラさせられるけど、一緒にいるのは悪くないかな」 「 何で……」 「 何でだろうねえ」 数馬はそう言って再び笑ってから、友之の前髪にさらりと触れた。数馬の長い指が自分に触れてきたのに、友之は何故かかわすこともせずにそのままじっとしていた。 嫌ではなかった。 「 可愛いね、トモ君はさ」 そして数馬はまたしてもあっさりそんな事を言って、にっこりと笑った。その台詞にはさすがに警戒して友之は身体を後退させたが、それを見て数馬の方がまたおかしそうにアハハと笑った。 「 君もようやく学習してきたね。安心しなよ、別に何もしないから」 そう言って楽しそうに笑う数馬を、友之は不思議そうに眺めた。 「 お前ら」 その時だった。 上方からよく聞き慣れた声が落ちて来て、2人は同時に振り返った。数馬は首だけを声の方へ向けたのだが、「あら」ととぼけた声を出してから笑い、「会うかなあとは思っていたんだよね 」とその人物に声をかけた。 「 この時間は俺のコンビニタイムだからな」 ジャージ姿にサンダルをつっかけただけの格好。この近所のコンビニエンスストアの袋だろう、割と大きめのそれを手にぶら下げて、その人物はどことなく偉そうにそう言った。その後再び、離していた煙草をくわえる。 中原正人。2人が所属する野球チームのキャプテンだった。 「 珍しい組み合わせだな」 中原はジャージのポケットからカギを取り出して自宅アパートのドアを開けると、そう言ってから2人を通した。数馬は慣れたようにさっさと中に上がりこみ、友之もそれに続いた。 「 何してたんだ、あんな所で」 「 デートだよねえ、トモ君」 数馬はするりとそんな事を言ってから一室しかない中原の部屋を見渡し、あきれたような声を出した。 「 相変わらず汚いですねえ」 「 うるせえよ」 しかし中原も数馬のそんな害のある言葉には慣れているのか、平然と返しカギを放り投げ、部屋の入口に立ち尽くしている友之の背中をこづいて言った。 「 トモもそこらへんに座れ。邪魔くせェだろうが」 「 そうそう。そこらへんの物は適当にどっかへ移してさ」 数馬がまるで自分の家のようにそう言った。 中原の一人暮らしの部屋は荒れ放題だった。 元々一室しかないところに、中央に四角いテーブル。部屋の四隅にはテレビ、ステレオ、箪笥、冷蔵庫などが所狭しと置かれていた。その上、敷きっぱなしの布団に、辺り一面に散乱している雑誌類、放り投げられた服の山である。慰め程度についている流しには、ただ食べ終わった食器をそのままにするためだけに存在しているように、 汚れたどんぶりや皿などが放置されたままになっていた。 「 光一郎さんといると、こういう汚い住処って信じられないでしょ」 数馬はにやにやと笑いながら友之に言った。中原は買ってきたものを冷蔵庫に入れながら、実に嫌そうな顔をしてそんな事を言った後輩を見やった。 「 ムカつく事言ってんじゃねえよ。面積が違うだろうが、俺の所とこいつらの家とじゃ」 「 あれ、狭さのせいにします? それにしたって、この散らかしようは尋常じゃないでしょ」 「 俺は忙しいんだよ。昨日だって帰ってきたの深夜3時だぞ。お前ら学生と違って社会人は何かと大変なんだ」 「 へえ、そうですか」 数馬はあっさりと返してから、雑誌を重ね何とか自分の位置を確保しようとしている友之に目をやった。そんな数馬の姿を今度は中原が見やり、ふっと眉をひそめて実に嫌そうな顔をする。 「 ……数馬、お前トモに何かしてねえだろうな」 「 何ですかそれ」 数馬が口の端だけを上げて笑うと、中原はいよいよ真面目な顔をしてから、テーブル越し、2人の目の前に座って言った。 「 俺はな、お前なんかと違ってコウともこいつとも付き合い長いんだよ。だから―」 「 別にボクは光一郎さんに怒られるようなことはしてないと思うけど」 数馬は平然と中原の台詞をそう言ってかき消してから、相手が手にしている缶ビールを羨ましそうに眺めた。 「 1人占めしてないで僕にもくださいよ〜」 「 勝手に飲めよ」 中原は不機嫌そうな顔をしてからそう言い、自分はさっさと手にしているビールをくいとあおった。友之はその時ようやく自分の座る所を維持して、改めてそんな中原を見やったところだった。 中原が実家を出てこうして1人暮らしをするようになったのは光一郎より先だったとは思うが、いずれにしろここに来たのは初めてだった。 友之は数馬と違って中原とはそれほど仲が良いわけではないし、修司に対して抱くような気安さも、この年上の幼馴染には感じていなかった。ただ、「兄の親友」というイメージだけが色濃くあるだけで。 ただ、中原にはいつも怒られていたように思う。 「 トモ」 そんな友之に視線を向けて、中原は「兄」のような口をきいた。 「 お前、数馬と何してたんだ? こんな奴といても、あんまり良い事はねえぞ」 「 あ、ひどい」 これには当然、数馬が抗議の声をあげた。ちゃっかりビール缶を2つ、中原の冷蔵庫から持ち出して、再び元いた場所に座る。 「 はい、これはトモ君の」 そしてこれまた当然のように缶ビールの1本を友之に渡した。そのあまりにも自然な所作に、友之はそのままそれを受け取ってしまった。 「 バカ! トモに渡すな!」 しかしこれにはすぐに中原が怒鳴って言った。 「 何でですかあ。ひどいなあ。ボクにはくれるのにトモ君にはあげないんですか? 可哀想じゃないですか」 「 酒をやるなってことを言ってるんだよ。コイツはお前と違うんだ」 「 何が」 「 何がじゃねえよ。とにかく駄目だ。コーラでも渡しとけ」 「 やっぱりひどい。トモ君、君どう思う?」 「 ………」 「 トモ、分かってるだろ」 中原が厳しい声で言った。 彼にはこんなところがよくあった。それは友之もよく分かっていた。 光一郎とは違い、中原は中学・高校時代は煙草や酒、暴走族との付き合いなど、世間で「悪い」と見なされることを色々と経験した人物だった。真面目が服を着て歩いているような光一郎とあれほど仲が良いくせに、何故中原はそうだったのか、周囲は親が悪いだの教師が悪いだの色々と言っていたが、中原自身にとっては、それはどうでもいいことらしかった。 元々が荒っぽい性格で、気も短い方だった。大体の人間は彼のそんな野卑な面を恐れたし、避けていたようにも思う。今では大分「落ち着いた」ようで、元来の面倒見の良さや人を引っ張る能力を買われて草野球チームのキャプテンなどをしているが、それも中原に言わせれば「ライさんやマスターが言ってくれたから」ということらしかった。 そんな中原が他とは違う態度を見せるのが、北川兄弟に対してだった。 特に友之に対しては「悪い」ことは絶対にさせない。数馬が煙草を吸おうが酒を飲もうが、そんな事は本人の勝手だというような事を言う中原が、こと友之に関してはそういった事を一切認めない。そんな中原は友之にしてみれば、光一郎よりも余程怖くて厳しい「兄」のような存在だった。 「 結局ね、皆さんのそういう過保護さがこの人を駄目にしているんですよ」 数馬が言った。 友之がはっとして数馬を見ると、数馬は表情の見えない顔をしていたものの、明らかに抗議しているような口調で目の前の先輩に続けた。 「 何があったのか知らないですけど。守りすぎなんじゃないですかね」 「 バカが」 数馬の台詞に中原が心底腹を立てたように言った。煙草を出そうとしたが、ふと気づいたようになってそれを床に投げ捨てる。中原は友之が近くにいる時に煙草を吸わないのだ。 「 ったく、お前の気まぐれはいつものことながら頭にくるな。退屈なら女でも見つけろよ」 独り言のような、愚痴っぽい台詞だった。数馬はそんな中原を鼻で笑ってから、友之の方は見ずにすぐに返した。 「 気まぐれがね。本気になることだってあるでしょ」 友之は2人の会話についていけず、ただ沈黙していた。 そして手にした缶ビールの銘柄をぼんやりと眺め続けた。 |
To be continued… |