(15)



  自分がいつでも子供のように扱われることに、 友之はすっかり慣れてしまっていた。 それが嫌だとは思わない。けれど、嬉しいことだとも思わなかった。
「 ホント、お前ってしょうがない奴な!」
  中原などはよくそう言って友之のことを罵倒した。光一郎も、中原ほど口悪くは言わないが、自己表現の下手な弟にいつも不快な表情をしていたように思う。
  そんな2人の態度を見るにつけ友之は自分が嫌いになったし、2人を怖いと思った。
  だからこそ。
  だからこそ、不思議だったのだ。光一郎が自分を助けにきてくれたことが。
  嫌われていると思っていたのに。
  それもこれも、全て兄としての義務からなのだろうが……。





「 数馬、お前…」
  中原が外から戻ってきた時、友之は数馬から渡されたビールの缶を一つ空けてしまっていた。そして既に二缶目も両手の中に収まっていて。
  仕事先の上司から携帯に電話がかかってきた中原は、電波が入らないとこぼしながら、ほんの数十分だけ2人の傍を離れた。その間に、あれだけ禁じたことが行われてしまっていたのだ。怒りはそのまま、親しい後輩の方に向けられた。
「 あのねえ、何で ボクに怒るんですか。飲んでいるのはトモ君でしょ」
  数馬がウンザリしたように言い返した。
「 お前が飲ませたんだろうが!!」
  中原は怒鳴って数馬を黙らせると、友之の手からすかさずビールを取り上げた。それもほとんどなくなってはいたのだが。
「 トモ、お前も何で飲んだりしたんだ。こんなモン、別に美味くもなかっただろうが!」
「 ………」
  確かに、美味しいとは思わなかった。それでも、手にしたビールを眺めた時、飲んでみてもいいのじゃないかと思ったのだ。数馬は良くて自分は駄目、という中原の言い分はやはり理解できなかったし、数馬が指摘した「過保護」という言葉にも反発するものがあった。
「 おいトモ、大丈夫か?」
  中原が語気を弱めて訊いてきた。それに対し、再び数馬が呆れたように口を挟む。
「 あのねえ、たかだか缶ビール1本でどうにかなるわけがないでショ。 ホント、中原正人ともあろう人がどうしちゃったんですか? 先輩もトモ君にはやられちゃってるクチなの? それとも光一郎さんが怖いとか?」
「 ……もうお前帰れ」
  中原は相手をするのも嫌だとばかりにそう言ってから、数馬をじろりと睨んだ。
「 本気だか何だか知らないけどな。お前は駄目だ。あわねえよ」
「 相性のこと言ってるんですか? そうかなあ。ねえトモ君、君、星座何? 血液型は?」
「 数馬」
「 ……ちぇっ、分かりました。分かりましたよ。帰ればいいんでしょ。でもこの人どうするんですか?」
「 電話すりゃ、迎えにくるだろ」
「 ………。……ああ、やだやだ」
  数馬はしばらく黙りこくってから、あからさまに不愉快な顔をして見せた。そして、普段はそれなりに尊敬しているであろう先輩に挑むような目を向けた。
「 でもさ、その前に友之の意見も聞いてやって下さいよ。コイツ、あの家にいたくないって言ってたんだから。だから俺が外に出してやったの。逃がしてやったの」
「 何…?」
「 あんたらはそうやっていつもコイツを護ってやるフリをして、ホントのコイツを見ようともしない。コイツが何を考えて、どうしたいのか見ようともしてないだろう。そんなんで、俺とコイツがあわないなんて言われたくないね」
「 ……てめえ、俺に喧嘩売ってんのかよ?」
「 さあ?」
  数馬はしれっと答えてから友之の方をちらりと見ると、途端に柔らかい笑顔になって言った。
「 トモ君、ボク追い出されちゃうみたいだから帰るよ。でも君はどうする? この怖い先輩と一緒にいて、君のお兄さんが来るの待つ? 何ならボクの家に来てもいいよ。うち広いからいくらでも泊まれる所あるしね」
「 ………」
  友之は今まで黙って2人のやり取りを遠い場所から聞いていたような感じだったのだが、不意にはっきりと自分に向けられた言葉で我に返ったようになった。しかしゆっくりと数馬の方を見てから、黙って首を横に振った。
「 いいの? ボクと行かない?」
「 数馬」
  中原が低い声で呼んだ。数馬はしばらくただ自分と行くことを拒んだ友之を見ていたが、後はまたいつもの不敵な顔に戻ると「分かりましたよ」と言ってから降参のポーズを取ってみせた。
「 帰ります。今日はフラれちゃったみたいだし。じゃあね、バイバイ、トモ君。また明日ね」
「 明日って、お前―」
「 違うでしょ。明日は練習日でしょ。デートじゃないない。安心して下さい」
  数馬は焦ったように言う中原にそう言い捨ててから、驚くほどあっさりと身を引いて帰って行ってしまった。
「 ………」
  後に残された友之は段々と熱くなる体とぼーっとした意識の中、目の前の中原と対面することになってしまった。
「 ……ったく、何なんだよアイツは」
  中原が気分を害したようにつぶやく声が聞こえた。 それからこちらに意識が向くのも友之には分かった。
「 お前もだよ。アイツのこと苦手だったんじゃねえのか? 何でほいほいついて行った?」
「 ………」
「 家にいたくなかったって…ホントか?」
  これには友之も黙って頷いた。中原はそんな友之をじっと見やってから、「コウの奴と何かあったのか」とストレートに訊いてきた。
  友之は、今度は首を横に振った。
「 じゃあ何なんだよ。何でいたくないなんて言った? ったく、あの野郎言いたい事さんざん言いやがって、全くムカツク…」
「 夕実が……」
「 あ?」
  友之が掠れた声で言うのを中原はふと聞きとがめて、開いていた口を閉じた。
  友之は中原に取り上げられ、テーブル上に置かれたビールを見つめながら言った。
「 夕実が会いたいって」
「 ………いつだ」
  友之の言葉に、中原の顔つきがすっと変わった。
「 今日」
「 電話か」
  友之が頷くと、中原はしばらく黙ってから「それで?」と口を切った。
「 お前は嫌だと言ったのか」
「 用があるからって」
「 嘘ついて逃げ出したってわけか」
「 ……会いたくないから」
「 なら、それでいいだろ」
「 ………夕実、怒ったかな」
「 知るかよ」
  中原は鼻で笑ってから、わざとなのか突然声を明るくして言った。
「 あいつ、気まぐれだからな。ふっとかわいがっていた弟のこと思い出して、そんな事言ってみただけだろ。お前が断ったら断ったで、また今の男と楽しく飯でも食っているだろうし。怒るも何もないだろうが」
「 ………」
「 それともそうやって断ったこと、後悔してんのか」
「 ……違う」
「 じゃあ忘れろ」
  中原はきっぱり言ってから、友之から取り上げたビールをすっと差し出した。
「 飲めよ」
「 ………」
「 飲みたいんだろうが。光一郎には俺から言ってやる。今日は飲んでもいい」
「 ………」
  友之はようやく顔を上げて、中原の顔を見やった。強く、揺ぎ無い瞳がそこにはあった。この人のように生きられたらいいのにと友之は思う。黙ってビールを受け取り、友之は再びそれに口をつけた。





「 コイツ、酔っても無口なんだよ」
  中原の声が遠くで聞こえたような気がした。 しかし瞼が異様に重く、友之は目を開くことができなかった。
  身体の中が燃えるように熱く、じっとしているはずなのに自分の周りがぐるぐると回っているような感じがした。起きているはずなのに、眠っている。眠っているはずなのに起きている。訳の分からない感覚が次々と襲いかかってきていた。
「 悪かったな」
  中原の謝る声が聞こえた。誰に謝っているのだろう。気になったが、やはりそれを確認することはできなかった。
「 どうする? 今日は泊まっていくか」
  相手に聞いている中原の声はいやに静かで落ち着いたもので。数馬や自分に向けるのとは違う、どことなく安心しきった調子に思えた。
  その中原の話し相手が不意に自分のすぐ傍に来たのが友之には感じられた。影を感じ、その者が屈んでこちらの様子を伺っているのも何故か分かった。
「 寝ているだろ?」
  中原が言った。友之は段々とはっきりしてきた意識を外に向けながら、しかし依然として瞳を開くことができなかった。
  すると、そっと自分の前髪に触れる優しい手の感触があった。
「 ……―」
  何だろう? この人は何を言っているのだろう? よく聞こえなかった。頭が痛い。けれど、気持ちがいい。この人に撫でられるのは。
  好きだ、と思う。
「 ………コウ」
  友之が目を開けると、すぐ傍には光一郎の姿があった。
「 ……気分、悪いか」
  光一郎は無機的にそう尋ねてきていたが、それもいつもよりは優しいもののような気が、友之にはした。
「 ……平気」
  友之が言うと、光一郎は手を離して中原を見た。
「 こいつ、今日泊めてやってくれるか」
「 別にいいけど、お前は?」
「 明日早いからな。色々持っていかなきゃならない物もあるし」
「 そうか」
  光一郎と中原の会話で、友之は益々覚めてきた意識の中で慌てた。せっかく光一郎がいるのに、帰ってしまう。それなら自分も帰りたいと思った。焦って声を出そうとしたがうまく言葉が出せなくて、友之は代わりに身体を無理に起こした。くらりと目眩がした。
「 トモ、お前、布団で寝ろよ」
  中原が言った。けれど友之は激しく首を横に振り、思わず光一郎の服の裾を掴んでいた。光一郎はまだ立ち上がってはいなかったが意表はつかれたようで、こちらも無意識のうちに自分にすがってきた友之の腕を支えた。
「 どうした?」
「 帰る」
  自分の言葉に光一郎の顔が曇ったような気が友之にはした。やはり嫌なのだろうか。自分と一緒にいることが。咄嗟にそんな事を思ってしまう。
「 今日は正人の所にいろ。身体だってだるいだろ」
「 平気だから」
  友之は言って光一郎にすがるような目を向けた。光一郎の顔はそれで益々困惑したようになったが、中原をちらと見た時にはもう力を抜いていた。
「 正人、悪い」
「 別に俺はどっちでもいいからよ」
  中原は光一郎の意を察したように軽く頷くと、手にしていた煙草の箱をとんとんと叩きつつ友之に声をかけた。
「 ここが嫌ならさっさと帰れよ。お前がいると禁断症状でこっちが頭おかしくなるぜ」
  別に誰に頼まれるでもなく、中原は自分で禁煙しているだけであるのに、恨みがましく友之にそう言った。けれど、その言葉に毒はないようだった。
  友之は光一郎と一緒に中原の家を出た。





「 この時間ならまだ終電には間に合うな」
  光一郎はつぶやくように言いながら友之の前を歩いていた。友之はふらふらとする足取りで、ただその前方を歩く背中を見つめた。それが消えたら多分前へは進めない。それが分かっていたから、尚のこと必死になった。
  それでも段々と距離が離れていって。
「 ………」
  何だか泣き出しそうになる自分がいた。何故こんなに弱いのだろう。そう思いながらも、心細い気持ちをどうすることもできなかった。
「 トモ」
  けれど、数馬と通った川原沿いに来たところで、光一郎が振り返った。友之の遅れに気がついたようだった。
「 どうした? ふらつくか」
「 ………」
  この人は何故こうなのだろう。何でも自分のことを分かっているくせに、何も分かっていない。それとも分からないフリをしているだけなのだろうか。こんな「弟」に依存されるばかりなのは嫌で。
「 トモ」
  光一郎が再度呼んできた。それでも言葉を返すことができなかった。
  すると。
「 ……泣くな」
  光一郎は立ち尽くす友之の方に近づいたかと思うと、その手を自らの手で包み込むように握り、そう言った。友之がびくりとして顔を上げると、そこにはやはり困ったような顔の光一郎がいた。
「 泣くな。……もう、泣くな」


『 泣くな 』


  あの時も。
  この人はそう言って、自分の手を握ってくれた。
  友之はまたその昔の映像を取り戻してはっとした。

  あの時。


『 いい加減にしろ! 殴るぞ! 』

  そう言って中原が怒っていた。

『 やめて! トモ君を責めないで! 』

  裕子がそう言って中原に怒鳴っていた。
  自分は―。
  自分はただ心細くて辛くて哀しくて。
  ずぶぬれの身体を厭いもせずに、ただ泣きじゃくっていた。その時、そんな自分の前にやってきた光一郎が。

『 トモ、帰るぞ 』

  そう言って、自分の手を引いて力強く言ってくれた。

『 泣くな 』

  そう言ってくれた。 家に帰ってからも、ずっと一緒にいてくれた。 濡れた体を風呂場で温めてくれて、タオルで優しく拭いてくれた。
  そして。
  そして居間でテレビを見ている夕実に言った。

『 弟だろ 』


  夕実はそんな光一郎に振り返りもしなかった。けれど光一郎は構わずに言った。傍で母親がうろたえていたようにも思う。けれど、その女性の顔を思い出すことはできなかった。

『 何帰ってきてんだよ。何1人で知らん顔してんだよ 』
『 うるさい 』

  夕実がようやくそう言った。背中は向けたままだ。それでも光一郎は引かなかった。

『 トモを置いて帰る奴があるか 』

  ドクンと胸が高鳴る。友之は震えた。

『 川に落ちた弟を置いて先に帰るなんて―』
『 私は知らせたよ。ちゃんと近くのおじさんに助けてもらったもん。いいでしょ、裕子ちゃんたちだっていたんだから! コウちゃんだって来たんだから! 』
『 バカ!』
『 バカって言わないで!! 』

  夕実はそこで初めて振り返り、ぎっとした目で光一郎を睨みつけた。しかしその背後の友之を見た瞬間、夕実はたちまちワッと泣き出し、傍の母親にすがりついた。母親である涼子は困ったような顔をしながら、ただ夕実の頭をなでてやっていた。

  光一郎は腹立たしそうにそんな2人を見やってから、友之の方に視線をやり、そして「行こう」と言った。自分の部屋か、それとも外か。どこへ行こうと言ったのかは覚えていない。
  それでも、友之には。

  その時の光一郎が自分の全てで、味方だと思った。



「 トモ」
  はっと我に返ると、 やはり涙がこぼれていた。 光一郎がその涙に触れようとしたが、たまらなくなって友之は先にそれを振り切り―。
  光一郎の胸にすがりついていた。
「 友之」
「 夕実は…僕に死んでほしかった…?」
「 何を―」
「 だから…だから、あの時
  思い出すと目の前が真っ白になる。気分が悪くなる。
  けれど、あの時―。



『 何よ、トモちゃんなんか!! 』

  いつもの水源地で遊んでいた。すぐ傍は川で、少し身を乗り出すと水の中に落ちてしまうような少々危険な場所ではあった。だが、当時その付近の土手にはクローバーやらタンポポがたくさん咲いていて、子供たちにとっては絶好の遊び場だった。夏には自らそこの川に飛び込んで、水遊びをする子どももいた。だから、特に柵もなかった。

『 何よ何よ、トモちゃんなんか!!』

  何かで自分が夕実を怒らせた―。
  今までで1番怖い顔だった。友之が震え上がって何も言えずにいると、益々怒りに燃えたような夕実がいきなりつかみかかってきた。そして。


『 バカ! 死んじゃえ!! 』


  ドンと押された。本当に弾みだったのだ。
  けれど。


  それで友之は、川へ、落ちた。



To be continued…



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