(16) いつ、家に帰ってきたのだろう。 ふと目覚めた時、友之はもう自分のベッドの上だった。やはり酔っていたのだと思う。記憶も途切れ途切れで、ただ哀しかったことだけぼんやりと記憶の片隅に残っている。 「 コウ…?」 何となく呼んだが、そのすぐ後、暗い部屋の中でクラリと目眩を感じた。それでもふらつく足取りのまま、ベッドから抜け出ると、隣のリビングへと向かう。 光一郎は小さなベランダに通じる窓を少しだけ開けて、煙草を吸っていた。 「 ………」 友之の存在には気づいていないのか、闇の中に白い煙を漂わせながら、光一郎はややぼんやりとした視線で外の景色を眺めていた。ただ、本当にその瞳で何かを映しているかは、甚だ疑問の残るところではあった。 友之はこんな光一郎の姿を見た事がなかったので完全に声をかけそびれた。それでも引き返すこともできず、入口の陰でその様子を伺った。 不安な気持ちになった。 光一郎が何を考えているのか分からない。それはいつもの事だったのかもしれないが、ただこんな風にどこをも見ていないような表情は、自分には見せたことがないと思った。 「 友之」 その時、光一郎が友之の存在に気づき、はっとしたように声をかけてきた。 「 ………」 こちらを見る光一郎に何と応えて良いのか分からず、友之は固まったままその場に立ち尽くしていた。 光一郎はどこに隠し持っていたのか、ベランダに置いているらしい灰皿に吸っていた煙草を押し付けると、窓を閉めて改めて友之を見やった。 「 どうした」 「 ………」 「 具合、悪いか」 友之がただ黙って首を振ると、光一郎はまたいつもの困ったような顔になった。自分の扱い方に戸惑っているのだろうなと友之は冷静に思った。 「 いつまでそこに突っ立っているつもりだ? ……水でも飲むか?」 今度はすぐに頷いた。言われて、喉が渇いている事に気づいたから。 水道に近いのは当の友之であるのに、光一郎はすっと立ち上がると相変わらず突っ立ったままの友之の横を通り過ぎ、キッチンに入って冷蔵庫から麦茶を取り出した。綺麗に洗われた透明のグラスにそれを注ぎ、すぐに友之に渡す。友之はそれを受け取って、ようやくテーブルの前まで行くと、そこにすとんと座りこんだ。 喉を潤す冷たい液体が濁った身体を洗い流してくれるようだった。何かを美味しいと思うことなどあまりないのに、その時は夢中になって飲んだ。美味しかった。 「 そんなに慌てて飲むなよ」 光一郎はそんな友之が珍しかったのか、微笑してそう言った。友之はその兄の声でようやくグラスから口を離し、それでもそれを両手で包むように持ったまま、ふうと息を吐いた。 「 朝まで寝ていると思ったけどな」 「 ……何時に帰ってきたの?」 「 覚えてないのか? 終電に乗っただろう?」 「 知らない」 「 ………」 一体どこまで覚えていないのだろう、という顔を光一郎はしていた。友之は夕実のことで心を乱して光一郎に縋った自分を徐々に思い出してきていたが、それが何だか無性に恥ずかしくて、わざと何も覚えていないフリをした。 光一郎もそれ以上問おうとはしなかった。 「 裕子、がっかりしてたぞ」 それからしばらくして光一郎が思い出したようにそう言った。 そういえば、4人で食事をしようと言っていたのだった。夕実のことで頭がいっぱいで、とにかく家を飛び出してしまったのだが…。 「 修兄は?」 「 裕子と一緒に帰ったよ。と言っても、何処に帰ったのかは知らないけどな。あの2人、こっちに戻ってきたら友之がいなくなっているっていうんで、事務所の方にまで電話してきた。まあ、正人がすぐ電話くれたんで2人も安心してその後はすぐ帰ったけどな」 「 ………」 中原は自分が夕実と話したという事を彼らに告げたのだろうか。光一郎に言わないわけはないから、多分知っているだろう。別に知られて困ることではないが、それであの2人が気を遣って帰ったのだとしたら、嫌な事だと友之は思った。 みんな。 自分と夕実のことになると態度が強張る。 それは全部自分のせいだと友之は知っているが、「あれ以来」はずっとまた仲のよい姉弟だったわけだし、別段夕実について不平を言ったこともない。それでも自然と夕実の前だと不自然な態度になってしまう自分に、彼ら年上の幼馴染が何か思うところがあるのは間違いなかった。それが嫌だと思った。 気を遣われるのは嫌だ。余計に疲れるから。 「 トモ…?」 ぼんやりと考え込んでいる友之に光一郎が声をかけた。友之がはっとして顔をあげると、こちらの心意を読み取ろうとしているかのような兄の姿が目の前にはあった。 「 大丈夫か」 ……どうしてこの人はこうなのだ、と。友之は半ば憎々しげに思った。 「 コウは…大丈夫なの」 だから逆に訊いてみた。やはり酔っていたのかもしれない、こんな風に光一郎に話を振るなどと。 「 何で俺が?」 「 煙草なんか吸わないのに」 「 ………そうだな」 「 本当は吸っていたの」 「 いや。時々だな。修司が置いていったり、正人がくれたりした時に」 「 何で」 すぐにまた問い返すと、光一郎はやはり困惑した表情を浮かべた。 「 何でかな。……分からないな」 「 分からない?」 いつも完璧な存在のこの人にも分からない事などがあるのか。友之は半ば真剣にそんな事を思い、その気持ちのまま不思議そうな顔を相手に向けた。 「 俺を何だと思っているんだ、お前は」 友之の心根が見えたのだろう、光一郎は苦笑して片腕を伸ばすと、友之の髪の毛を大きな手でくしゃりとやった。修司にはよくやられるが、光一郎にこうやられたのは何だか久しぶりのような気がした。戸惑って相手を見返すと、光一郎はひどく静かな目をしたまま言った。 「 お前の兄貴だぞ、俺は。似ていて当然だろ」 「 ………似ている?」 「 そうだよ。お前と同じなんだよ、俺も」 「 ………」 何も言い返せずに、友之は黙りこくった。 自分と光一郎が似ているなど、考えたこともなかった。周りから言われた事も勿論ない。正反対の兄弟。世間の評価はいつだって一つだったのだから。 大体、光一郎は自分の本当の兄ではない。友之は冷めた気持ちのまま、そう思った。 やはり光一郎は知らないのだ。 その事を。 そう思って、益々何も言えなくなった。 「 トモちゃんてさぁ、本当はうちの子じゃないんだよね」 いつそう言われたのか、やはりはっきりとしたことは覚えていない。それでも、多分そう言われるまで、自分は夕実と楽しく何かをして遊んでいた。その時、不意にそう言われたのだと思う。 「 知ってた? よその子なんだよ、トモちゃんは」 友之が訳も分からずに首を横に振ると、夕実は庭の雑草をぶちぶちとむしりながら、薄く笑みを浮かべつつ続けた。 「 この間、お父さんたちが話しているの聞いちゃった。トモちゃんはお母さんの子だけど、お父さんの子供ではないんだって」 「 何、それ?」 「 だから北川の人間じゃないんだって。お母さんの、前の旦那さんとの子供なんだよ、トモちゃんは」 「 ………」 「 分かる? 意味分かる?」 友之は何故だかとても悲しい気持ちになり、黙って首を左右に振った。どういう意味なのかよく分からなかった。夕実は友之の方を見ようともせず、ただひたすらに地面に向かっていた。 「 トモちゃんは夕実の本当の弟じゃないってこと。だって血が繋がってないんだもん」 「 お姉ちゃん……」 「 お姉ちゃんだけど、本当のお姉ちゃんにはなれないの。コウちゃんだって、だからトモちゃんのお兄ちゃんなんかじゃないんだからね」 「 お姉ちゃん……」 「 なあに? ほら、トモちゃんもここ掘って!」 夕実は今にも泣き出しそうな友之には構わず、 いきなり傍にあったスコップを突き出すと、ここで初めて「弟」の顔を直視してきた。 そこにいつもの笑顔はなかった。 「 トモ?」 はっとして我に返ると、目の前の光一郎が怪訝な顔をしていた。 「 どうした? やっぱり具合悪いのか?」 「 ………っ」 慌てて首を振り、コップに残っていた麦茶を飲み干した。はっと息をついて、無理やり思考を現実に戻そうと試みた。 しかし。 友之は目の前の「兄」をじっと見据えて、やはり躊躇した。 光一郎がこの事を知らないなどという事があるだろうか。 夕実はたまたま父親たちがそんな話をしているのを聞いたと言い、この事は誰にも言ってはいけない、内緒の話だと友之に言った。けれど夕実が他の誰にも言わずにその事を黙っていたとは、友之にはどうしても思えなかった。 「 トモ、本当にどうしたんだ?」 いよいよ心配になったような声を出して、光一郎が再度訊いてきた。友之はびくりと身体を揺らし、それからやや上目遣いになってぽつりと言った。 「 コウは……」 「 ん…?」 「 ……………」 「 何だ?」 「 ………夕実から―」 聞いているのか。 その一言が言えない。やはり訊けない。訊いて、もし本当に光一郎がその事を知らなかったら? 自分が光一郎の本当の弟ではないと分かったら、兄の重責から解放された光一郎は、自分から離れていってしまうかもしれない。 そうなったら、自分は一体どこへ行けばいいのだろうか。今更あの「父親」のところへなど帰れない。それこそ。それこそ、あの人は自分にとって赤の他人だと友之は思う。実際、当人にもそう宣言されている。 お前はもう息子ではない、と。 これは光一郎によってあの家から連れ出される以前、丁度学校へ行かずに部屋に閉じこもっていた時に言われた台詞だった。何を考えているのか皆目分からない塞ぎがちの次男に、優秀な父親は心底失望し、そうして言ったのだ。 戸籍上は親だから当面の面倒は見るが、なるべく早く自立しろと。 夕実と違い、直接本当の子供ではない等言われたわけではなかったが、あの言葉は夕実の話を事実だと信じるに足るものだった。その時の事を思い出すと、普段は父親に何の感情も抱かないはずの友之でも、やはり胸が痛んだ。物心がついた時分から自分とは無関係だと思っていた「父親」でも、 本当に「父」ではなくなったのだと実感すると、やはりむなしさは感じるもののようだった。 「 夕実がどうした?」 光一郎の問いに友之は慌ててかぶりを振った。やはり訊けない。友之はじっと下を向いたまま、沈黙した。 しかししばらくして、光一郎の方がその沈黙を破った。 「 …トモは夕実にはもう会いたくないのか」 「 え…?」 突然の問いに、友之は意表をつかれて顔を上げた。 「 あいつな、手紙でもお前に会いたいってよく書いてくるんだ。今一緒に暮らしている奴ともそんなうまくいってないみたいだから」 「 ………」 「 あいつも寂しいんだよ」 「 コウは夕実が心配?」 「 ん…?」 「 心配なの?」 「 そりゃな。高校も知らない間にいきなり辞めてるし、家出はするし。世話の焼ける妹だよな」 妹。 やはり、光一郎にとって夕実は自分の大切な妹なのだ。当たり前のこととはいえ、本人の口から聞くと何故か心が暗くなった。 「 でも…2人、そんなに仲良くなかったじゃない」 だからなのだろうか。そんなことを友之は口走っていた。 「 ……そうだな」 「 何で」 「 何で? それこそ俺があいつに訊きたいよ。あいつは俺のやる事なす事全部気に入らないって風で、お前を味方につけちゃ、ぼろくそ言ってきたからな。俺は一時、お前らの本当の兄弟じゃないんじゃないかって思ったほどだ」 「 え…」 どきりとして、友之は光一郎の顔をじっと見つめた。光一郎はそんな友之の様子に気づいていないのか、ゆっくりと言葉をつないだ。 「 親父はあんなだし、お母さんは…まあ、夕実に気を遣いっ放しだしな。思えば昔から変な家族だったよな、本当に」 「 ………」 「 そう思わないか、トモは」 「 うん……」 「 だからトモも疲れたんだろ」 「 うん……」 「………なのに、我慢ばっかりしてたんだろ」 「……うん」 友之が素直に答えると、光一郎はふっと笑んだ。柔らかい、優しい微笑だった。 「 そういう事はな…。すぐに言えよ」 「 うん……」 こんな風に話ができたのは、初めてだったかもしれない。 友之はただ頷いただけだったが、それでも光一郎の傍にいるのは温かいと思った。 「 ………」 あの川原沿いで、光一郎に縋って泣いた事が脳裏にはっきりとよぎった。 『 夕実は僕に死んでほしかった……?』 だから、自分を川へ突き落としたのだろうか。ずっと誰かに訊きたいと思っていた。でも、怖くて訊けなかった。 『 そんな風に言うな』 光一郎はそう言う友之の身体を支えながら、そう言った。 『 そんなわけないだろう 』 そして、更に強く友之のことを抱きしめた 「 ………」 今また、縋りたい。 友之はそう思っていた。 けれどそれをやっては、きっとまた甘えていると思われる。弱いと思われるだろうとためらわれた。 数馬ならきっとそう言って自分のことをバカにするに違いないと思う。 だから言葉を出さずに押し黙った。 ただ光一郎の方を見て、それから困ったように下を向いた。 「 友之」 けれど、光一郎は友之の気持ちが分かったようだった。友之に近づくと、そのまま腕を伸ばしてきて、ぐいと力強く引き寄せてくれた。 「 ………っ」 視界に光一郎の胸が飛び込んできた。髪の毛をぐしゃりとなでられて、後はただもうぎゅっと抱きしめてくれた。母親にすら、こんな風にされた事はなかったなと友之はふっと思った。 いつもいつも、見ているだけで。 「 お前は本当に……」 その時、光一郎がそうつぶやくのが聞こえた。けれど、最後まで聞こえなかった。光一郎はわざとその後の声を消してしまっていた。 「 ………」 けれどそんな事は気にはならなかった。ただ、気持ち良くて。 温かくて。 同時に、やはりあの夕実の話は絶対に言えないと思った。 朝、目覚めた時、光一郎はもういなかった。 あの人は一体いつ眠っているのだろうと本当に不思議に思う。いつも自分よりも後に寝て、先に起きている。そして気づくと仕事か大学の勉強か。いつも何かしていた。 やはり完璧な人なのだ。 外をふと見る。どうりで光が射さないわけだ、空はどんよりと湿った色のまま、しとしとと細く長い雨を降らせていた。そういえば梅雨だったかと、どうでも良い事が頭をよぎった。 そしてその後、兄のメモが目に入った。今日の練習は中止だと正人から電話が入っていたらしい。今日は1日寝ていよう。そう思った。 電話は3回か4回は鳴った。いずれも取らなかった。幸いなことに玄関のチャイムは鳴らず、友之は部屋でただじっと横になり、雨の音を聞いていた。 うつぶせのまま、ただ静かに目を閉じる。静かで、独りで。 やがて、また眠りに落ちた。 |
To be continued… |