(17) 長い一週間の始まりがやってきた。 昨日の雨が月曜の今日になってもまだ降り止まずにいた。さすがに一日中寝ていたこともあり、身体のだるさは消えていたが、学校に行きたくないという気持ちに変わりはなかった。 「 トモ、朝だぞ」 けれども、往生際悪くベッドの中でもたついていると、いつものように光一郎が部屋に入ってきて、友之に声をかけてきた。 「 朝飯食べる時間なくなるだろ。いい加減、起きろ」 「 ………」 光一郎は昨夜も帰ってくるのが遅かったというのに、早朝から実にてきぱきとした動作で朝食を作り、出かける支度を整えていた。 友之は何となく恨めしい気分のままそんな光一郎の顔を見やり、抵抗するようにベッドの上で黙って身じろいだ。 すると光一郎の方はそんな友之の無言の抗議が聞こえたのだろうか、 やや苦笑したようになって傍に寄ってきた。 そして友之の顔を覗き込むようにしてから、そっと頭を撫でた。 「 そんな顔しても駄目だ。さっさと起きろ」 「 ………」 どうしたことだろう。 友之は不意にどきりとする自らの気持ちに心内で密かに狼狽した。 光一郎がいつもと違うのも確かだった。いつもはただ厳しく急かすだけであるのに、今朝は妙に優しく感じる。やはり一昨日のことがあったからだろうかと思う。自分も光一郎に甘えてしまったし、光一郎もそんな自分を許容してくれた節がある。だから。 こうして優しくしてくれるのか。 友之は心の中でそんな風に解釈してから素直に身体を起こした。光一郎がそっと撫でてくれた髪に自分でも触れてみて。 「 じゃあな、トモ。俺は先に出るからな」 友之が顔を洗って居間に戻ってきた時は、 光一郎は既に時計を身につけ、玄関へ向かおうとしているところだった。テーブルには友之の朝食がきちんと並べられていた。 「 今日はサボるなよ」 毒気のない声で光一郎はそう言い、友之に背を向けた。 「 あ……」 その時、思わず友之は光一郎を呼びとめてしまった。 「 ん?」 それで光一郎も振り返る。 「 どうした?」 「 あ……」 自分でもどうして引きとめたのか、友之にはよく分からなかった。 けれど友之は困ったようになりながらも、こちらを向いた光一郎に少しだけ嬉しい気持ちを抱いていた。 「 ……行ってらっしゃい」 だからだろうか。 2人で暮らしてから初めて、友之はその言葉を出した。 「 え…? あ、ああ……」 光一郎も驚いたようだった。いつも無口でろくに喋らない弟がわざわざ出かける自分を引きとめて、何を言うかと思えば「行ってらっしゃい」である。 調子が狂うと言えば、それは狂ってしまうだろう。 「 ………っ」 友之自身、慣れない事を言ったという気持ちで無性に恥ずかしい思いがし、身体が熱くなるのを感じた。何だかバカみたいだと思った。 「 ……行ってくるな」 けれどそうして赤面している友之に、光一郎は不意に近づきそう言ったかと思うと、再びそっと優しい手を差し出してくれて。 友之の頭を撫でてきた。 「 ……!」 驚きはしたものの、友之はそれを先程と同じように嬉しいと思った。光一郎にこうされることが自分はひどく嬉しいのだと、この時友之ははっきりと理解した。 だから引きとめたのかもしれなかった。 光一郎の顔を見ようと友之がそっと顔を上げると、やはりそこにはいつもの困ったような表情があった。 学校までの道のりは、やはり遠くて憂鬱なものだった。 大体にして友之は学校へ行くにあたり、先週の沢海との出来事を思い出さないわけにはいかなかったから、自然足取りも重くなった。 夕実のことで週末は色々と心が乱れたため、沢海のこともそれほど考えず済んでいたが、今はやはり嫌でも思い返されてしまう。 彼の思いつめた顔とか。 声を。 降りしきる雨を電車の中から眺めながら、友之は湿った空と同じような心持ちのまま、ふっとため息をついた。 「 あら。おはよう」 そんな通学途中だった。 不意にそんな妙にあっさりとした、それでいて落ち着いた声をかけられて、友之はふっと視線をそちらへやった。車内は割と混雑していたというのに、その人物は依然涼しい顔で友之のところにまで移動してくると、目の前にまでやってきてニヤリと笑った。 「 何と何と。君もこの電車だったんだ。いつも同じくらいの時間に登校していたのかしらね」 「 ………」 友之に声をかけてきたのは保健室の「おばちゃん先生」こと、白石通だった。割に長い髪をゴムで一つにまとめ、ポロシャツにジーンズという実にさっぱりとしたカジュアルな格好をしている。「おばちゃん」と呼ばれる割にはあどけない顔をしているその養護教諭は、年齢にすれば三十後半なのだろうが、こうしてまともに対峙してよく見ると大層若くみえた。 「 こらこら。先生に朝の挨拶は」 友之が黙ったまま自分を見ているだけと知ると、白石はやや不機嫌そうな顔をしてみせ、不敵な感じでそう言ってきた。 「 ……おはようございます」 「 おはよう」 けれど友之が素直にそう言うと、彼女はすぐにころりと表情を変えてにこりと笑った。 気さくな感じのする人だった。この教師からは数馬が持つような掴み所のない雰囲気を感じていたから、友之にとって苦手なタイプではあるのだが。 「 北川君は、その後調子はどう?」 「 え?」 「 え、じゃないでしょ。先週は体調崩していたでしょ。保健室のおばさんとしては、まあ、そういう生徒は後々まで気になるわけよ」 友之の煮え切らないような態度に「おばちゃん先生」はやや呆れたような顔をしてそう言ってきた。 「 ……もう大丈夫です」 「 そう? なら良いけど。でも金曜日も早退したって聞いたよ」 「 ………」 「 ほら、君とこの真貴君からね。具合悪くて帰ったって。委員長君がわざわざ送っていってくれたのだって? ったくあのガキャ、そういう事するなって言っているのに」 「 ………」 「 実際、君もいいわけ? そんな、タメの奴に過保護られてさ」 「 ………」 「 あ、無視だ。また無視」 害のない顔で白石はそうつぶやくように言ってから、やがてさり気なく視線を車外へとやった。穏やかな目が何処でもない遠い所を見やっている。自分から目を逸らされたことで、ようやく友之はほっとできた。 「 拡……あれから学校戻りましたか」 「 え?」 「 ………」 「 ……ああ、戻ってきたよ。戻ってきて、ケガして、うちとこに運ばれてきたよ」 「 え………」 またしてもそんな一大事を、白石は実に飄々とした態度で言った。 そうこうしている間に、電車は目的地のホームへと到着した。 「 う〜、やれやれ。やっと着いた」 驚く友之はそのままに、白石はさっさと電車を降り、人込みと共に改札へと向かって行く。友之は慌ててその背を追った。友之と同じくらいの身長である白石の姿を見失わないようにするのは割と骨が折れた。 「 先生」 けれど、訊かなくては。焦る気持ちのまま、友之はそう思った。 「 先生」 珍しく何度か呼びとめて、友之はようやく白石との距離を縮めると、その勢いのまま訊ねた。 「 ケガって……?」 「 気になるの?」 何を思ったか、意味ありげにそう言った後、白石はちらと友之の顔を見てから「意外」とだけつぶやいて、すぐに答えをくれた。 「 大した事ないって。軽い捻挫。ま、都大会には出られないだろうけどね」 「 ………」 「 先輩がそりゃ怒ってねぇ。ほら、あの優等生は今季のバスケ部のホープだったわけじゃない。何でもやたらと意識散漫で、全然練習に身が入ってなかったんだって。それでぐぎっとね。ぐぎっと」 やたらと擬音を強調して、白石は苦虫を噛み潰したような顔をした。そして改札を出てから、持っていた傘を開き、その影越しに友之を見やってきた。 「 でもねえ、沢海のやつ。別の意味で痛い顔していたよ」 「 ………」 「 わざと足痛むように触ってやったのに、あの野郎、うんともすんとも言わないのだよね。先輩が横で怒っていても、どこか上の空だし。 あれは、フラれて何もかもどうでもいいって若者の顔だったよ」 「 ………」 「 まあ、ちょっとでも気になるなら、『大丈夫』の一言くらいかけてやりな」 「 ………先生は」 「 ん?」 「 何で僕にそんな話」 「 君が訊いてきたのでしょうが」 「 ………」 「 それに、沢海の親友なのでしょ、君は」 「 ……親友」 「 ただの友達って風には、君と彼を括れないよ、私は」 「 ………」 「 違う?」 白石の問いに、友之は答えることができなかった。 教室に入ると、やはりいつものように友之の所に真っ先にやって来たのは、橋本真貴だった。 「 おはよ、北川君!」 「 ……おはよう」 「 ねえ、身体大丈夫? 金曜日、具合悪かったのでしょ?」 「 もう大丈夫」 「 本当? 良かった。私、心配して家にまで電話しちゃったんだけど。だって全然気がつかなかったから。北川君が具合悪いのって」 「 あんたがまとわりついていたから、疲れたんじゃないの、北川君も」 橋本とよく一緒にいる友人の女子生徒が、苦笑したように横からそう口を挟んできた。 「 えー! 何よ、それ」 橋本は当然のことながらそんな横槍に口を尖らせ、それから急に不安そうな顔になって友之のことを伺い見た。 「 あの、さ。北川君、実は私があの時言ったこととか気にしちゃった?」 「 あの時?」 「 わ、忘れているのだったらそれでいいけど! ほら、図書室で……」 最後の方の言葉だけやけに小さい声で橋本はそう言った。 友之とて、橋本のあの時の言葉を忘れたわけではなかったが、ここはもう知らぬフリをしようと決めていた。黙っていると、余計に焦ったような橋本は、誤魔化すように間の抜けた笑みを見せて言葉を出してきた。 「 ま、 まあいいよね、そんな話は! あ、 ところで北川君、 あの時休んだ授業のノート見る?」 「 ………」 「 あ、拡!」 その時だった。 教室の入口の方で男子生徒の声が聞こえ、やがて周囲の視線や声も一斉にそちらへ注がれた。 沢海が珍しく遅く登校してきたのだ。 「 お前、ケガしたんだってな。大丈夫かよ?」 クラスメイトの1人が心配そうにそう言っている声が聞こえた。見た目普通に見えた沢海だったが、ケガをしたのは左足なのだろうか、やはりややそこをかばうような足取りで、彼は教室に入ってきていた。 「 何でもう知ってるんだ?」 「 そりゃお前、うちの部でも結構噂立ってたぜ。今季期待の1年生選手が夏大会絶望でバスケ部の主将が泣いていたって。俺ら1年には関係ないって風だったけど、先輩とかがそれで2年の先輩レギュラーとかに葉っぱ掛け直していたし」 「 別に大した事ないよ」 その後も次々と心配そうな声をかけてくるクラスメイトに、沢海はやはり穏やかに笑ってみせていた。 いつもの沢海拡だった。 「 え、あいつケガしちゃったんだ」 橋本は知らなかったようで、遠巻きからそんな様子を見て、やはり気にかかるというような声でつぶやいた。そして友之の傍からは離れずに、その場でよく通るような声を出した。 「 沢海君、何なの? 足?」 橋本の声に、沢海がここで初めて友之たちがいる方へと視線をやった。ちらとだけ友之の方も見たような気がしたが、それでも表情は変えずに橋本に笑顔を見せると、「軽い捻挫だよ」とだけ答えてきた。 そして、後はまた自分の近くにいる友人たちに意識を向けた。 「 わあ、ついてないね。あいつも」 橋本は同情するような声を出し、「ね?」と友之にも同意を求めた。友之は自分からわざと視線を逸らしているような沢海を見やりながら、ただ黙って頷いた。 その後も朝のHRから授業、そして昼休みに至るまで、沢海は決して友之の方に来ようとはしなかった。沢海は休み時間の度にやってくる、自分を気遣うクラスメイトや他のクラスの友人たちに愛想を振りまき、そしてただ静かに笑んでいるように見えた。 友之はその様子を窓際の席からさり気なく眺め、後はただ橋本のいつもの明るい声や、外の喧騒に耳を澄ましたりした。 そして昼休み。 友之は橋本が自分の傍にやって来る前に、教室を出た。 何故だか今日は、普段より疲れる。そう思ったから、何処か人気のない所へ避難したいと思った。空腹ではなかったから、昼食はどうでもいいと思ってもいた。 行く場所と言えば大体は図書室とか、晴れていれば校庭へ出ることもできたが、雨の降る今日はそれも叶わないことだった。自然、足は図書室へ向いたが、4時限目の授業でそこを使っていたらしい生徒たちがまだ入口付近で何やらわいわいと騒いでいて、入ることができなかった。 友之はそのままそこを素通りし、何となくその通りにある美術室に入った。ドアが開いていたし、誰もそこにいなかったからだと思う。 美術室は広く、そして雑然としていた。 全体的に油の臭いがする。教師の趣味なのか、3年生にはやたらと油彩画ばかり描かせるのだと誰かが言っていたっけ、とふと思う。選択授業であるから、全員がそれを経験しているわけではないのだろうが、それにしても膨大な量のキャンパスと油絵が、教室のそこかしこに立て掛けられていた。その周囲には石膏や瓶、筆立てや絵の具などもばらばらに、これまた適当に配置されたような長机の上に置かれていた。 「 ………」 別段興味があったわけではなかったが、友之はそれらに一つ一つ目を通しながら教室を移動し、そしてすぐ隣の美術準備室のドアにも手をかけた。 教師はいなかった。 狭いそこは幾つかの戸棚とやはり長机が一つ。そしてそこに様々な絵の道具や本が雑多に並べられていた。 妙な静けさの中で、友之は異質な世界に迷いこんだような錯覚を受けた。 「 友之」 けれど、そのすぐ後に。 「 ………」 振り返ると、そこに沢海がいた。 「 後、つけてきたんだ」 友之が訊く前に、沢海はそう言った。別段悪気のあるような声でもなかった。 「 今日は―」 沢海はいつもとは明らかに違うような口調と顔のまま、友之の前に立っていた。 「 友之、俺のこと見てくれたな」 「 ………」 友之が黙っていると、沢海は本当にケガをしているのだろうかというような滑らかな足取りで近づいてくると、依然として静かな表情のまま言った。 「 あれくらいで、俺が諦めると思った?」 「 ………」 「 お前から離れると思った?」 「 拡……」 「 あんなの……予想していたよ。ああなることくらい、分かっていたよ」 沢海は言いながら、更に友之との距離を縮めてきた。友之は無意識のうちに体を後退させていたが、それでも傍に来る沢海との距離はあっという間になくなってしまった。友之は戸棚に背中をつけ、もう下がることができないところまで身体を逃がしてしまっていた。 「 そんな顔するなよ」 自分を避けようとする友之に、沢海は寂しそうな顔を向けた。 「 俺ってお前の何なんだ…」 「 ………」 「 そんな不安な目で見るなって」 「 ……や」 けれど友之は逆らうことができなかった。抵抗の声は小さくなり、ただ覆い被さってくる沢海の影を感じていた。 沢海は片手を戸棚にかけ、もう片方の手を友之の頬へとやり、自らの唇を近づけた。逆らうことなど許さないというような威圧感がそこにはあった。 「 ……っ」 身体が動かなくなり、友之はぎゅっと瞳を閉じた。ただ片手で触れられているだけであるのに、友之は完全に硬直していた。ただ、相手の吐息を間近に感じた。 泣きたくなった。 「 ……そんなに嫌なのか」 けれどその刹那、 沢海から掠れたような声が聞こえた。それから、不意に胸元に沢海の体重がかかってきた。彼は友之の胸に頭をもたげかけたまま、やや震えたような声を出した。 「 好きだ、友之……」 「 ……ひろ」 「 好きだ…好きだ…こんなに……」 「 ………」 「 自分の痛み…初めて分かった」 「 ………拡」 「 もう、偽りたくない」 ズキンと胸が痛んだ。傷つけている、と感じた。誰よりも傷つけられるのを畏れている自分なのに、こうして誰かを苦しめているなんて。 嫌だ。そんな自分が。 「 ………拡」 友之は本当に小さな声で沢海を呼び、そうしてそっと自らの腕を相手の背中に回した。 |
To be continued… |