( 18 ) 数馬とした時は本当に不意なことで、実感もなかった。ただ驚いただけ。 けれど、沢海とのキスは違った。 「 ………っ」 自然と回してしまった腕に、沢海はぴくりと反応を返した。恐る恐るという感じではあったけれど、自分を無理に許容しようとしている友之を真っ直ぐに見やってきた。 「 友之……」 沢海はうわ言のように名前を呼び、そうしてそのままの勢いで友之の唇に自らのそれを重ねてきた。友之はただ固く目をつむり、それを受け入れた。 「 …っ、ん…」 始めは遠慮するようなそれだったのに、沢海のキスは段々と激しさを増した。何度も唇を押し当てられて、苦しくて息をつごうとした瞬間に、舌まで入れられた。 「 ふっ…んぅっ…!」 「 ……っ、友、之…」 唇を離す合間に沢海はまた友之の名を呼んだ。勿論、友之がそれに応えられるわけもなかったが、それでも相手の痛い想いは伝わった。 友之はぎゅっと沢海の背中を掴んだ。 何もかも奪われてしまうような口付けに意識が遠のきかけた。唇を貪りとられ、絡められた舌には妙な感覚が襲った。 「 や…っ、も……苦し…」 鬼気迫るような沢海のそれに友之も段々と恐ろしくなってきて、さすがに抵抗の声を出した。沢海の制服のシャツを引っ張り、自分から引き離そうと試みる。 「 だめ…んっ……ひろ……っ」 「 ………」 それにより、沢海はやっと友之から唇を離した。 「 ……っ」 はあと息を吐き出し、友之は怯えた目で沢海を見やった。まだ至近距離にある相手の顔は、こんな時でもやはり整って見えて。 いやに堂々としているような気が友之にはした。 未だ沢海の吐息を間近に感じて、友之は身じろぐこともできずに、ただ身体を熱くさせていた。唇に沢海の唾液が残っていたが、それを拭うこともできない。視線を逸らせなくて、泣き出しそうな自分をただ必死に抑えていた。 「 ……ごめん」 その時、沢海が謝った。 「 ごめんな…友之」 「 ………」 また、謝られてしまった。 そう思うと、耐えていた気持ちがふっと緩んだ。ぽろりと涙がこぼれ、慌てて視線を下に落とす。それでも自分を抱きしめている沢海の拘束は解けなくて、どうすることもできなかった。 「 友之……」 友之の涙に沢海は悲痛な顔を見せ、そうしてそっとその涙を指で拭ってきた。そのせいで友之の方は益々泣きたい気持ちになってしまったのだが。 「 ……っ」 しゃくりあげる身体を、それでも何とか抑制し続けて友之はようやく渾身の力で沢海の拘束から抜け出した。そして、そのまま脱力してその場に座りこんだ。自分が何をしているのか、何をしたいのかさっぱり分からなかった。 ただ。 さっきまでは沢海を拒絶することはどうしてもできなくて。 「 ……俺、お前の優しさにつけこんだ」 沢海が立ち尽くしたまま、そう言った。 「 でも…後悔はしてないから」 「 ………」 「 俺、お前だけだから」 「 ……な…で」 「 え…?」 「 何で…」 かろうじて出た言葉に、自分でも戸惑っていた。けれど、それは最初から訊きたかったことで。友之は無意識のうちにその質問を発していたようだった。 「 友之は…誰かを好きになったことない?」 「 ………」 沢海がゆっくりと屈みこみ、友之に目線を合わせようとしてきた。友之は必死にそれから逃げようと膝を抱え込んで俯いたが、それでも優しい声だけは耳元でよく聞こえた。 「 言っていたよな。この間。『好きになんてなれない』って。あれは俺だけに言った言葉じゃなくて…誰に対してもって意味なんだろう?」 「 ………」 「 友之は人を好きになれないんじゃないよ。なろうとしてないだけだよ」 顔を上げると、そこにはいつもの優しい表情があった。 「 ………」 「 でもだからって自分まで嫌うことないだろ。友之は、すごく綺麗なんだから」 「 ……何言って―」 「 自分で分かっていないだけだよ。俺は…知っているから」 「 ………」 「 だから俺は友之が好きなんだ」 「 ……分からない」 「 ………」 「 拡の言っていること…分からない」 「 いいよ」 沢海はあっさり答えた後、再び友之の口の端にキスを落とした。それからすっと立ち上がると出口へと向かった。 「 分からなくていいよ。そのうち分かるよ。俺、ずっとお前の傍にいるから」 「 ………」 「 お前が嫌がっても」 最後の言葉はひどく冷たい口調だった。背中を向けていた沢海の顔を友之は見ることができなかったが、きっと普段の誰にでも見せる顔はしていなかっただろうと思った。 そして沢海はそれだけを言い残すと、友之が声を出す前に入って来た場所から再び廊下へと出て行ってしまった。 1人残されて、再びその場所には静寂が戻ってきた。 「 ………」 沢海がまるで別人で。自分にとって知らない面ばかりで。 友之はただ怖かった。 そして、やはり何故彼が自分にあそこまで固執するのか、訳が分からなかった。 「 ……北川君」 その時だった。 準備室の入口の所に、橋本が立っていた。 「 ………あの、北川、君………」 いつもの橋本ではなかった。 明らかに動揺して、明らかに蒼白で。床に座りこんでいる友之のことをただじっと見やっていた。 「 ………」 友之とて突然現れた橋本の存在に、さすがに平静ではいられなかった。まさか全部見ていたのだろうかと思うと、自身も青ざめ、思わず視線を相手から逸らしてしまった。 「 あっ……」 けれど、 その友之の態度で橋本の方が逸早く冷静になった。慌てたようにかぶりを振り、それからきょろきょろと誰もいないであろう美術室に目をやり、それからたどたどしい足取りで友之に近づいてきた。 「 あの、あのね! あの…私ね、あれ、何混乱してるんだろ…っ」 橋本はろれつの回らない舌を必死に動かし、友之の傍に座りこむと、落ち着こうと一気に大きく息を吐き出した。それからぐいと顔を上げて、目線が同じになった友之にきっぱりと言った。 「 わ、私、口は堅いから!」 開口一番の台詞はそれだった。ああ、見られていたんだなと友之は思った。 「 ……っ! あ、あのそんな顔しないでね…って、 そりゃ、最悪だよね。 うん、そんな私も別に見るつもりじゃなかったんだけど! ほら、私って自慢じゃないけど北川君のストーカーだったりするから…! って、そんなの本当に自慢にもならないんだけど、気持ち悪いんだけど、でもでもアイツ、いきなりホント、何考えてんのかしら!」 橋本は明らかに混乱しているようだったが、あたふたしつつも必死に友之を慰めようとしているらしかった。 「 あ、あいつが北川君のこと好きだからって、あんな無理やり…! ホント、何て奴! 私だってあんな真似はできないわよっ…て! わあ!! 私はまた何を言っているんだろう!!」 「 ………」 「 ああああの! これ、ハンカチ!」 そうして橋本はスカートのポケットから桃色の花がプリントされた薄生地のハンカチを取り出して友之に差し出した。ひどくしわくちゃなそれだったが、橋本はあわあわとしたまま言った。 「 こ、これ3日間同じハンカチなんだけど、でも私その間これ使ってないから 綺麗だから! トイレ行った後だって自然乾燥で乾かして使ってないし、お昼ご飯で口拭く時だってティッシュ使っているしね! だから…ほら、涙とか、拭いて……」 「 ………」 女の子からハンカチを借りて涙を拭くなんて、さすがに友之もためらわれてしまった。それでも相手の好意はよく分かったから、取りあえずはそれを受け取った。 橋本は友之のその所作に明らかにほっとしたようだった。 「 ………」 橋本の慌てたような声は消え、準備室は再びしんとした静けさに包まれた。友之は橋本から受け取ったハンカチをただじっと眺め、それから手の甲で流れていた涙をぐいと拭った。 「 ね、北川君…」 その様子を黙って見ていた橋本がそっと声を出した。制服が汚れる事も厭わず、ただ屈んでいた体勢から、彼女もまた友之と同様、思い切り床に腰を下ろす。 「 沢海君……北川君のこと、すごく好きなんだね」 「 ………」 「 さっきはつい興奮しちゃって色々口走ったかもしれないんだけど。私ね、さっきの沢海君見ていたら、何だかすごく胸が痛くなっちゃった」 「 ………」 「 あっ、そりゃ! 北川君はもしかして気持ち悪いとか思っちゃうかもしれないけどさ。でも…真剣だったじゃん、アイツ。私なんて恥ずかしい。何か、すごく中途半端な気持ちだったのかなあって」 「 ……中途半端って?」 ようやく言葉を出した友之に橋本は露骨に嬉しそうな反応を見せたが、すぐに照れたようになって誤魔化すように視線を宙に泳がせた。 「 あ、あのね。私ってすごくあからさまだから。クラスでもバレバレだし、北川君も分かっていると思うんだけど、私、すっごく北川君のこと好きなのね」 橋本は割とあっさりと友之に告白してきた。 「 ああ、言っちゃった。でも、私この気持ち、全然、口に出して言う気とかなかったんだ。ただ北川君とずっと仲良くしていられて、いっぱい話せるようになれればいいなあって、それくらいしか思っていなかったの。告白して、付き合って下さいとかってよくあるパターンとか、全然望んでなくてね」 「 ………」 「 だからそういう点では、私の気持ちって沢海君のあの気持ちに比べたら、まるで甘っちょろいものなのかもしれない。私、北川君の無口で、でもすごく色々考えてそうなとことかにとっても憧れているけど、あんな風に死にそうなほど北川君のことずっと想っていられるアイツには、到底敵わないかもって…」 「 死にそうなほど……」 「 そんな感じだったよね?」 橋本は窺うようにして友之を見ながら、そう言って少しだけ笑った。 「 そんな…感じだったよ。沢海君、北川君のことしか見てないよね」 「 ………」 「 北川君は…どう? ちょっとは沢海君のこと、好き?」 「 ……そんな事」 「 そ、そうだよね。それは…無理だよね。でも……」 それでも、沢海を一瞬でも許容しようとしていた友之を橋本は見ていたわけで。当然の事ながら、橋本はあと一言二言は何かしら言いたいような顔をしていた。 ただ友之が悲痛な顔で黙りこくっているのを見て、彼女も余計な口出しはしまいと決めたようだ。美術室を出る時は何度も友之に「絶対誰にも言わないから」と繰り返したものの、その他に関しては一切口にしようとはしなかった。 「 真貴君。弱い者イジメかよ?」 「保健室のおばちゃん」こと白石通は、午後の授業が始まる間際に自分の城にやってきた2人を見て、別段からかう調子でもなくそう言った。 「 ふざけないで下さい。とにかく北川君は具合が悪いので、ベッドを貸してもらいます」 橋本は白石の態度に慣れたような調子でそう言うと、ためらう友之には構わずに、「ベッド空いていますよね」とずんずんと中へと入って行った。 美術準備室を出るなり橋本は、「目、まだ赤いし、教室戻らない方がいいよ」と進言し、半ば強引に友之を保健室へと連れて行った。友之は白石の顔とて見たくはないのだが、しかしこういった面倒な状況に対して、この場所が1番の逃げ道であることも、間違いはなかった。 「 本物の病人を寝かすためにね。仮病の人はお断りしているんですがね」 「 北川君は、正にその本物の病人です」 橋本はきっぱりとそう言ってから、「北川君、こっち!」とカーテンで仕切られているベッドの場所から友之を呼んだ。のろのろとその声に反応して保健室に入ってきた友之を、白石は無機的な顔で見つめていた。が、特に何を訊いてくることもなかった。ただ、「じゃあ、放課後になったら起こしますね」などといやに丁寧な口調で言った。 「 あ、もう予鈴なるね! じゃあ、私もう行くね!」 「 あ……」 「 え? 何?」 ベッドを整えてそこから去ろうとした橋本に、友之はためらった後思い切って言葉を出した。 「 ありがとう」 「 ……え」 そこには明らかに意表をつかれたような驚いた顔があったが、友之は黙ってそんな相手のことをじっと見やった。橋本はそれでみるみる赤面していったが、 それでも平静を装うようにふやけた笑みを見せてから、「気にしないで」と明るく答えた。 「 ほら、私は北川君の味方だから! 絶対、どんな事あっても味方だから! ね、えと、ホント、気にしないで、こんなこと! こんな汚い所だけど、我慢してね」 「 聞こえているよ、お客さん」 カーテンの向こうで白石が呆れたような声を出したが、橋本は浮かれた顔のまま教師の言葉を無視すると、そのままだっとの勢いで保健室を後にしていった。 「 ったく、この聖域を汚いだってよ……」 ぶつぶつと不平を言う白石の声が尚も聞こえたが、友之はベッドに入ると、後は黙ってふとんをかぶった。 『 好きだ……』 沢海の声。 『 お前が嫌がっても― 』 あの目。 重ね合わせた唇。 「 ………っ 」 思い出しただけで友之の身体は熱くなった。それを戒めるように、友之はぎゅっと目をつむると、身体を折り曲げて尚も深くすっぽりとふとんの中に身体をうずめた。 どうして。 ただ、その思いが脳裏をよぎって。 何故。 あんな風に自分のことを好きと言えるのかと不思議に思う。 『 トモちゃんのことを本気で好きになる人なんか―』 夕実の言葉が霞んでくる。 あの言葉は真実だと思っていて、実際今でもそう信じているのに、混乱する。頭がぼうっとした。 そして、また不意に過去の言葉が、映像が脳裏をよぎった。 夕実との思い出がこんなに自分の中に埋まっているなんて。もう忘れてしまったと思っていたことが、こんなにはっきりと意識の上に上ってくるなんて。自分の心が自分のものではないような感覚に捕らわれて、友之は自身の記憶に恐怖を抱いた。 『 トモちゃん』 夕実はいつも自分を呼んで、いつも自分を拘束して。だから自分は夕実のものだとばかり思っていた。夕実もいつもそう言っていた。 『 トモちゃんは夕実のだからね!』 あれはいつの事だったのだろう。そう、光一郎が珍しく中原と一緒に遊びに行く時に友之を誘ったのだ。友之はそれが嬉しくて行きたくて、うんと言いたかったのに、先に夕実が「行かないよ」と答えたのだった。光一郎はそのまま行ってしまったが、あの時ばかりはひどく哀しくて自分は思わず泣いてしまった。 けれど、それによってもっと泣いたのは夕実だった。 何度も何度も友之のことを叩いて、夕実は激しく泣きじゃくった。 『 盗らないで!』 夕実は友之が恐ろしさのあまり声を失った後も叫んで、叩いた。 『 盗らないでよ、ひどいよ!』 どうして自分が叩かれるのか。自分が夕実のものだからだろうか。訳も分からずに友之は謝った。それでも夕実は許してくれなかった。 ああ、どうして。 どうして、思い出してしまったのだろう。 「 北川君、平気かい?」 不意に白石の声が聞こえて、友之ははっとして目を開いた。いつものように発作的に息苦しくなり、もしかすると自分は何か口走ったのかもしれなかった。声のした方を見ると、白石のいつもの不敵な顔があって。 友之は少しだけ安心した。 「 ウーロン茶とかあるよ。飲む?」 「 ……いいです」 「 遠慮するなよ、一緒に茶、しよう?」 白石はそう言って、再びカーテンを閉めると冷蔵庫へ向かったのだろう、ぱたぱたと足音を立てて離れて行った。友之ははっと息を吐き出し、あの時の夕実の言葉をはっきりと思い出してしまった自分を思い切り悔やんだ。 『 お母さんだけじゃ足りないの! まだ盗るの 』 夕実はそう言って、泣いたのだった。盗らないで、としきりに繰り返し、そうして最後にこう言ったのだ。 『 コウちゃんを盗らないでよ!』 自分は夕実のものなのに、何故そんな事を言われるのか、友之には分からなかった。 |
To be continued… |