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  降り続いていた雨も、午後にはすっかり上がっていた。
  保健室の窓から見えるグラウンドでは、恐らく上級生だろう、男子がサッカー、女子がソフトボールをやって盛り上がっていた。そんな遠くから聞こえる歓声に、友之はぼんやりと耳を済ませた。
  保険医の白石はベッドから抜け出た友之にウーロン茶の入ったカップを渡すと、後は自分も黙ってお茶を口にし、幾つかの書類に目を通していた。その沈黙が心地良く、友之はただ視線を外へ、思いを無にしてその場にいた。
「 ああ、そういえば」
  そんな時がどれくらい続いたのだろうか。白石が不意に顔を上げて友之に話しかけた。
「 北川君のお兄さん。何ていう名前だったっけ?」
「 え…?」
  突然、そんな事を言われて友之は驚いた顔を向けた。白石も何事か考えるような表情を見せながら、先を続けた。
「 イイトコの大学行ってるんだよねえ。それでいてしっかりしていてさあ。電話でしか話した事ないけど、かなりの男前と見た!」
「 ……何で急に」
  白石が光一郎のことを知っているのは、友之も知っていた。
  友之がこの高校に入学してすぐのこと、何かの弾みで足をケガしたことがあったのだ。その時にケガの状況を電話で知らせた白石は、友之が他とは少し違う家庭環境で過ごした事、今は大学生の兄と2人暮らしであることを知ることになった。

  あまり他人に自分たちのことを詮索されたくないと思った友之は、この時何の非もない白石のことを良く思えなかった記憶がある。自分の見られたくない部分を見られたようで。
「 4月以来だったけど、実はこの間もお話ししたのよ。君のお兄さんと。ええと、だから名前何て言うんだっけ?」
「 話した?」
  白石の質問を再び無視して、友之は思わず訊き返した。
  一体、この教師と光一郎が何を話したというのだろうか。
「 ほら、君、先週の頭に具合悪くしたでしょう。それで電話してね。それにしても、ホントにできたお兄さんだよねえ。それでもって君のことを溺愛しているね! あれはブラコンってやつなのかな」
「 ……そんなことないです」
  白石の言い様にむっとして、友之はくぐもった声で言い返した。白石の方はそんな友之の態度が面白かったのか、興味深い顔をしてから再びカップに手を伸ばし、身体を椅子ごと相手の方に向けた。
「 そんな事ありますよ。今時、高校生の弟をあそこまで心配したり面倒見たりするお兄さんがいますかって。しかも向こうだって遊びたい盛りだっていうのにさ」
「 ………」
「 身体の調子聞くだけじゃなくて、学校はどうですかとかクラスではうまくいっていますか、とかさ。あんたはお母さんかいって突っ込みの一つも入れたくなったね」
「 ……完璧だから」
「 ん?」
「 あの人は完璧な人だから、完璧な兄貴でいなきゃって思っているだけです」
「 ………ふーん」
  白石はぽつりとそんな事を言った友之を、無機的な顔のままじっと見やったが、しかしその意見については特に何も返してこなかった。

  そうこうしているうちに5時限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、保健室はあっという間に賑やかな状況になった。ただ白石がそうなる一歩手前でベッドに戻ることを勧めてくれたので、友之はその雑然とした空気をカーテン越しに感じるだけで済んだ。
  やってきた生徒たちは大体が白石と無駄話をしたいが為に集ってくるようで、別段具合の悪い者はいないようだった。白石は適当と思われるような会話で彼らの相手をし、時々は本当に楽しそうに笑っていた。友之はベッドに横にはならず、座ったまま、そんな声に耳を済ませていた。

  その時だった。
「 友之」
  カーテンが勢いよく開いて、沢海が友之の前に現れた。
  突然の事に驚いて声も出せずにいると、当の相手の方は実に静かな表情のまま友之のことをじっと見据えてきていた。
「 ……具合悪いんだって?」
「 ………」
「 大丈夫か」
  何故、友之がここに来たかくらい、沢海は分かっているはずだった。周囲を気にしての発言なのだろうか、それとも本当に友之の具合が悪くなったと思っているのだろうか。いずれにしろ目の前の相手は一瞬も視線を逸らすことなく、真っ直ぐな瞳を向けてきていた。
「 あ、さ、沢海君!」
  友之が何と答えて良いものやらと戸惑っているうちに、沢海の後をすぐに追ってきたのだろう、橋本が息を切らせながらやってきた。
「 も、もう! 授業終わったと同時に教室出ちゃうんだもん。早過ぎるよ!」
「 ……何しに来たんだよ」
  思い切り不快な表情を見せて沢海は橋本に言葉を投げた。その言い様があまりにも冷たくて、友之の方がびくりとしてしまった。
  言われた橋本の方は割と平然としていたのだが。
「 何って。あんたと一緒よ。北川君の事が心配だから来たに決まっているでしょ! 北川君、どう? ちょっとは落ちついた?」
  友之が黙って橋本の方に頷いて見せると、橋本はにこっと笑った。
「 あと一時間だけだし、放課後までここにいなよ。ね? 鞄は私が持ってきてあげるから」
「 ……橋本」
「 何」
「 ちょっと、友之と2人にしてくれないか」
  沢海の陰のこもった声に、友之はまた怖い気持ちになった。橋本の方は先刻まであんなにうろたえていたというのに、たったの一時間の授業の間で自分の気持ちに整理をつけたのだろうか、いやにさばさばとしていた。
「 別にいいけど。北川君に何言うつもり」
「 ……お前には関係ない」
「 関係なくないよ。私…北川君に告白したんだからね」
「 何?」
  橋本の突然の発言に沢海は思い切り表情を変えた。不機嫌な気持ちを努めて抑えていたというのに、その表情がみるみるうちに曇っていく。
  きっぱりとそんな事を告げた橋本は、背後の他生徒を少し気にしたのか、閉めたはずのカーテンをよりぴっちりと閉め直してから、沢海に向き直った。
「 と、言っても私に望みがないのは分かっているの。だから私の事は別にいいの。でも、私は北川君が好きだから、北川君が嫌がる事はしてほしくないの。誰にも」
「 ……俺は」
「 ごめん、もう気づいてると思うけど、私さっきの見ちゃった」
「 ………」
  沢海が何かを言う前に、橋本はそう言った。
「 沢海君は私にとっても友達だから。だから尚更、沢海君に北川君を傷つけてほしくないの」
「 傷つける?」
  橋本の発言に沢海が弾かれたような視線を相手に向けた。友之も同時にそんな橋本を見やった。
「 そうだよ。だってあんなやり方はないんじゃない」
「 ……俺はただ」
「 北川君、泣いてたでしょ。そうなること、沢海君だって分かってたくせに」
「 ………」
「 傷つけてないとは思わないでしょ? あんな……無理やりしといて」
「 ………」
「 私、ひどい言い方しているって分かっているよ。でもね―」
「 橋本さん……」
  たまらくなって友之は声を出した。
  橋本は沢海の気持ちを痛いほどに感じていながら、自分のために敢えてひどい言い方をしていた。それが分かったから、友之は声を出さずにはいられなかった。それに、傷つけているという点では、自分こそが沢海にひどい事をしているという自覚があったから、友之は言葉を出さずにはおれなかった。
「 俺、平気だから…」
「 北川君……」
「 ……大丈夫だから」
  橋本は友之の態度に多少驚きを隠せなかったものの、 しばらくしてからふっと哀しそうな顔になり、「分かった」とだけ言うとその場を去っていった。
「 ………」
  そうは言ったものの。
  いざ2人だけになると、友之はベッドの傍でこちらを見下ろしている沢海の視線をただ痛く感じてしまい、窮屈な気持ちで押し潰されそうになった。

「 橋本…お前に何言ったんだ?」
 だからだろうか。やはり最初に言葉を出したのは沢海だった。
「 何言ったんだよ?」
「 ………」

「 告白した…? ふざけるなよ…」
  その言い方にどきんとして友之が顔を上げると、沢海はどこかしら遠くの方に視線をやったまま、こちらにはもう目を向けていなかった。
「 拡……」
  呼ぶとようやく沢海は我に返ったようになり、それから再びイライラしたような態度で言ってきた。
「 何て答えたんだよ? あいつに、何て返したんだよ?」
「 拡……」
「 俺から逃げるためにあいつに良いように言ったってことはないよな? あいつだって分かっている。お前があいつのこと、何とも思ってないってことくらい」
「 ………」
「 お前には―」
  自分しかいない、と沢海は言いたかったのだろうが、けれど彼はその先の言葉を告げられなかった。友之が自分のことをまだ受け入れられないことくらい、沢海自身嫌というほど分かっていたし、その点では橋本と何ら変わる位置にはいないと知っていたから。
「 ………」
  言いたいのに言えないというもどかしい気持ちのまま、沢海はぐっと俯き、黙りこくった。
  そしてその後に。

「 本当、俺って情けないな…」
  沢海は心底嫌気がさしたように自身を卑下し、それから友之に背を向けた。黙って出て行こうとしていた。
「 ひろ―」
  話があったから、自分のことが気になったから彼はここに来たはずで。それなのに何を言うでもなく行こうとしている沢海に、友之はたまらなくなって声をかけた。

「 拡…っ」
  呼び止めて与えてやれる言葉など何もないのに、友之はただ必死に声をかけていた。
「 拡……」
  何を言おう、何が言える? そう考えても、頭の中はただ混乱していた。同時に、先刻の沢海とのキスまで思い出してしまって、友之は自然に顔を紅潮させた。
「 いいよ、友之」
  沢海にはそんな友之の心根がよく分かっていたのだろう。ようやく振り返ってこちらを見つめてきた時には、いつもの友之を安心させてくれる優しい笑みに戻っていた。
「 無理しなくていいよ。ごめん。本当に、ごめん」
「 何でそんなすぐ謝…っ」
  沢海の優しい顔と、また「ごめん」を繰り返す沢海に胸がいっぱいになって、友之は舌をもつれさせながらもすぐにそう返した。泣き出しそうになる気持ちを必死に抑え、思わず立ち上がって相手の腕を掴んでいた。
「 ……っ!」
  その友之の所作に驚いたのだろう、沢海は思い切り目を見開いて相手のことを見つめてきた。そしてその後は無意識にか、気持ちが湧き立つままに、沢海は友之のことを強く抱きしめていた。
「 友之……っ」
  そして強張る友之のことをただ抱きしめたまま、間を置くこともなく、沢海はすぐに友之の唇を奪った。
「 ……っ」
  先刻のものと同じ感触、けれどどことなく余計に痛くて温かい熱を感じて、友之は身体を震わせた。相手にもそれが伝わったのか、抱きしめる力はより込められ、友之はその拘束に余計身体を熱くさせた。
「 友之……」
  唇が離された後またじっと見つめられ、呼ばれて、友之はどうして良いか分からないまま、沢海のことを潤んだ瞳で見つめ返した。
  けれど、その刹那。
「 はいはい、チャイム鳴ったよ。どいつもこいつも教室戻れ〜」
  カーテンの向こうで白石の声と、それに対して反抗するような未練がましい多くの声が突然2人の耳に飛び込んできた。
「 ……!!」
  自分たち以外の存在をすっかり忘れていた2人は急に現実に引き戻されたようになり、どちらからともなくお互い距離を取った。友之はただ赤面し、沢海の方もひどく戸惑った顔をしていた。
「 おーい委員長、鳴ったぞー」
  今度は白石が直接沢海を名指しで呼んできた。沢海はびくりとその声に反応し、慌てて呼ばれた方に視線をやったが、またすぐに友之の方を見ると、小声で言った。
「 ……授業終わったら迎えに来るから」
「 ………」
「 一緒に帰ってもいいか?」
「 ……うん」
  友之がやっとの思いでそう返事をすると、沢海は心底ほっとしたような顔を見せ、それから白石に気の抜けた返事をしながら保健室を出て行った。他の者も何だかんだとその場を去って行き、しばらくすると白石の城は再び元の静寂に包まれた。
  その異空間の中で友之はしばらく動くことができず、 ただ心臓の鼓動を意識したままその場に立ち尽くしていた。





  放課後になってからどんな話をしたのか分からなかったが、帰りに鞄を持ってくると言っていた橋本は結局友之の所にはやって来なかった。
  すぐに現れたのはやはり沢海で。そんな「委員長」に、白石は半ば呆れたような目を向けたが、特に何も言っては来なかった。

  校舎を出るまで2人共何も言葉を出せなかった。沢海もどことなく落ち着かず、友之は友之でいつも以上に口を重くし、黙って下を向いていた。恐らく、このまま誰も登場しなければ2人はそのまま一緒に電車に乗り、そしてそのまま別れていただろう。それくらい、今日1日で2人には多くのことが起こり過ぎていた。
  そんな2人の沈黙を破ったのは、まったく別の人間だった。
「 やっべえ、修羅場だよ」
  数馬だった。
「 どうも、トモ君。1日ぶり」
「 ………」
  校門の壁に寄りかかっていた数馬は、この間とは違って私服だった。土曜日に会った時のようにラフな格好。学校帰りではないのだろうかと何となく友之が思っていると、すぐにそれを読んできた数馬は、耳にかけていたヘッドホンを外しながらにこっと笑い、相変わらずの口調で言葉を出してきた。
「 今日はね。自主休校の日です。ボクの中では愛すべき母校の創立記念日ってことで。昨日雨降っちゃってトモ君に会えなかったしさあ。あの時、ホントはちょっと君のこと心配してたんだよね。あの恐ろしい先輩の所に置いてきちゃったわけだし。怖いこととかされなかった?」
「 ……大丈夫」
「 あ、そう。それは良かった。で、今日も今日とて待ち伏せとかしてみたんだけど、前みたく教室まで行くのもなあ、何かかったるいし。幸い雨も上がったことだし、ここで待たせてもらいました」
「 友之に何の用なんだ?」
  初めて沢海が声を出した。友之が驚いて視線を上げると、そこにはあからさまに敵意の目をした沢海がいて。友之は再び不安でいっぱいになった。
  けれど言われた数馬の方は実に飄々としたものだった。沢海よりも背の高い利を生かし、余裕の態度で相手を見下ろす。

「 やだなあ拡君、怖い顔はなしにしようぜ。ボク、別に君と仲良くしたいとは思わないけど、いちいち喧嘩するのもヤなんだよね。メンドーじゃん」
「 何の用なんだ?」
  数馬のすっとぼけた態度にも、沢海は調子を変えなかった。この数馬と初めて会った時は相手のペースにただ飲まれ、そのまま帰って行った2人に何も言えなかった。―けれど、今また数馬にそういう事をさせるつもりは、沢海には毛頭なかった。
「 用って言われても。用は特にないよ。この人に会いたいから来ただけ」
  数馬はそう言って笑ってから友之の方に近づくと、何もかも見透かしたような、からかうような調子で言った。
「 トモ君、ボクが以前言った言葉の意味が分かりましたか? 言ったでしょう、君がいつまでもこの拡君に寄りかかっていたら、君はいつかこの人の言う事やる事、全部断れなくなるって」
「 ………」
「 何の話だ…?」
  沢海が眉をひそめて数馬に問い質す。数馬は「さてね」ととぼけてから、友之の頭をぽんぽんと叩いた。
「 だから君はいよいよ自分の気持ちをはっきりさせなきゃいけなくなったわけだ。どうするの、できるの? ちゃんと自分のココロと向き合えるの?」
「 数馬……」
  友之が呼ぶと、相手はまた不敵な笑みを浮かべると沢海の方を見やった。
「 あのねえ、拡君。君も分かっていると思うけど。ボクもこのトモ君のこと結構気に入っているンだよね。まあ、君とボクとは良きライバルってやつ?」
「 気に入っている…?」
「 ああ、ごめん。そういう言い方じゃ納得しないかな。でもなあ、まあ君ほど重くないけど、ボクもボクなりにコイツのことが好きってこと」
「 ………」
  数馬は黙っている友之にちらとだけ視線をやった。
「 まあ俺、君と違ってコイツには今まで散々ひどい事やったり言ったりしてきたもんで、こんな事言ってもコイツは信じないと思うけどね。けど、北川友之って奴のこと、ちゃんと見てやれるのは俺かなって」
「 何を…」
  沢海が言いかけた言葉を遮って数馬は続けた。
「 そういうわけで。『何の用だ』も何もないの。お前にそんな事言われる筋合いないってね。さっきも言ったけど、俺はコイツに会いたいから来てンだよ。お前と同じだろうが」
「 お前みたいな奴に…何が分かる……」
「 何がって」
「 友之の何が分かるって言うんだ…」
  精一杯自分を抑止しようとしている沢海に対し、 逆に自分の思いをどんどんと貫ける数馬には、相手のそんな態度は馬鹿馬鹿しいものにしか映らないのだろう、冷めた目のまますぐに言葉は返された。
「 分からないとこはコイツから聞くよ」
  数馬は言ってから「あーあ、何か疲れる」とつぶやき、それから友之の方を見て肩をすくめた。
「 君もイロイロと、ホント大変だよねえ」
  友之はそんな数馬に返す言葉を知らなかった。
  3人はしばらく沈黙したまま、校門前に佇むことになった。




To be continued…



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