(3) 朝、目が覚めた時、多少の熱っぽさを感じた。 「………」 身体もだるい。頭も重いような気がした。 学校に行くのが嫌だった。 「トモ」 そう思っていた時、不意に襖が開いて兄の光一郎がリビングから顔を出した。いつも目覚めの早い兄は、こうやって毎朝友之を起こす。 「そろそろ起きないと遅刻するぞ」 「………」 友之が黙ってむくりと身体を起こすと、その様子を見ていた光一郎は、ふと怪訝な顔をしてから部屋に入ってきた。 「……トモ、お前どうかしたか」 弟の異変に気がついたのだろうか、いつもいつも無機的な顔をしている友之だから大抵の人間には彼の感情の起伏など分かりはしない。しかしそこはやはり兄なのだろう、弟のいるベッド脇にまで近づくと、やや陰りのある顔を見せた。 「お前…具合でも悪いのか」 友之は黙って首を横に振った。よく風邪を引く自分だったから、光一郎は殊更神経質にこちらの体調を気遣ってくるところがある。けれど、友之にはそれが嫌だった。 光一郎が、熱があるのかと自らの手のひらを友之の額に当てようとした時、 友之はびくりと身体を震わせてそれを片手で払った。それで光一郎の動きもとまった。 「平気」 友之はそれだけを言うと、のそりとベッドから出た。 それで光一郎もそれ以上は何も言ってこなかった。 新しい学校は「中学校よりはマシ」という程度のものだった。もう入学してから2ヶ月程も経過したが、その新しい生活に慣れたとか、まだぎこちないとか、そういった感情が友之には一切ない。 学校は学校だった。朝起きて、登校して、たくさんの人間に囲まれて勉強をする。時々そのたくさんの人間と一緒に、体育祭やら文化祭やらといった行事をこなさねばならず、その輪の中にうまく入れないと周囲から奇異の目で見られる。 何も変わらない。学校は学校だった。 「友之。お早う」 「あっ、北川君! お早う!」 「………おはよ」 けれど中学校よりも幾分マシな「ここ」は、幾らか北川友之という人間を許容してくれる人間が存在していた。中学の頃はやたらと一人でいたがる友之を変人扱いしたり、大勢で悪口を言いたがったりする人間がいたが、高校に入ると皆自分の事で精一杯になるのだろうか、それぞれが自分に合う人間を見つけると、あとの人間とは適当に「うまく付き合おう」として、下手に触れてこない。 ただ、それは人が変わったのではなく、高校生という年代が中学生よりも幾分かは「大人」だということの証明であるのかもしれなかった。 だから高校はまだ通えた。 来てしまえば。あとは、帰ることができる時間になるまで、自分の席に大人しく座っていればいい。 ただ、それだけだった。 「ねえ、北川君。今日はどうしたの? 具合でも悪いの?」 朝のHRが終わった後、そう言いながら友之に近づいてきた者がいた。橋本真貴。クラスの副委員長で女子のまとめ役のような存在だった。 「何だか顔色悪いよ? また、熱出たんじゃないの?」 「別に…」 「まーた、橋本の友ちゃん構いたがり病が始まった」 教室のどこからか、そんな風にからかう声が聞こえた。その「音」を耳にした途端、友之はひどく目眩を感じて、視線を窓の外へとやった。 「ちょっとー! 今言ったの、山谷ね!? あんた、自分がバカで風邪を引いた事がないからって、いつもそういう事言うのよね!」 「何言ってんだよ、俺はお前の気持ちを北川に教えてやろうと思って言ってや ったんじゃん」 「ああ、うるさいうるさい。ギャラリーはすっこんでなさい! と、ごめんね、北川君。それで本当に体調の方は大丈夫なの? 保健室行く?」 「……平気だから」 「ホントに? 無理しない方がいいよ、この前も―」 「おい、橋本」 橋本が続けざまに友之に向かっていると、不意に横からそれを止めるような声が入った。友之が最初に教室に入った時、一番に挨拶をしてきたクラス委員長の沢海拡だ。彼とは中学も同じだった。あの頃、無口な友之にとって唯一といっていい話し相手だった…と言っても、ただ一方的に向こうが話してくるだけだったのだが。 「平気だって言ってるんだからさ。お前、うるさすぎ」 「な、何よ、沢海君まで」 「友之、そういうの嫌いだからさ。ほっといてやれよ」 「うー、そうやっていつも自分だけ分かったような顔しちゃって…」 橋本は不服そうな顔をしていたが、沢海には逆らえないのか渋々席へと戻っていった。友之がゆっくりと視線を沢海の方へやると、向こうは困ったような顔をしてから少しだけ笑った。友之はそんな相手の態度に戸惑ったようになり、すぐに視線を外へと戻した。 沢海はとてもいい奴で、何かと自分を守ってくれる存在だと認識はしていたが、こういう気の利いたところはどことなく兄の光一郎に似ていて、友之は彼の前だとどういう態度を取っていいか大抵分からなくなってしまうのだった。 とにかく。 とにかく、ここにうずくまって、静かにして。 やり過ごそう。 友之はそう決意してから、固く目を閉じた。 朝の時点ではまだどうにかもっていられるなと思っていた身体が、いよいよ辛くなってきたと感じたのは、三時限目に入る前だった。 「友之」 ガンガンする重い頭を無理に声のする方へと動かすと、休み時間になってすぐにこちらの席にやってきた沢海が真面目な顔をして立っていた。 「来いよ」 そうして友之の腕を掴むと、有無を言わせずに立ち上がらせた。 「あ、北川君、やっぱり保健室行く!?」 その様子を見ていた橋本が我もと一緒に近づいてくる。大騒ぎされるのが嫌で自然に顔を曇らせると、沢海が言った。 「俺が連れて行くから、お前はいいよ」 「えー! 何で! 私も行く!!」 橋本はしつこく粘ろうとしたが、沢海は既に橋本の存在を無視したかのようになって、友之の手首を掴んだまま、ぐいぐいと教室を出て歩き出していた。 「歩…けるから…」 ぼうとした意識の中でようやく友之が声を出すと、沢海は眉間に皺を寄せたままちらとだけ友之を見て不機嫌な声を出した。 「お前さ。別に喋るのが面倒なら喋らなくてもいいと思うけど、具合が悪い時くらい自己主張しろよな」 「………」 「絶対自分から保健室へ行こうとかって思わなかっただろ」 「……そんな事ないよ」 「本当かよ?」 沢海は疑わしそうな声でそう言った後、もうそれ以上は何も言わずに友之を掴んだまま、保健室へと向かった。 保健室には既に具合が悪いと言う生徒が何人かいたが、ベッドは一つ空いていた。中年の保健医は威勢の良い「おばちゃん先生」と生徒たちに慕われている女性で、この時も友之の顔を見るなり、人の良さそうな笑顔を浮かべた。 「何よ、北川君。死にそうな顔しちゃって」 「実際死にそうですよ、コイツ」 連れてきた沢海がため息交じりにそう言うと、保健医は苦笑し、それから両手で友之の首筋を包んでみてから、「あら、ホントだ」と軽い感じで答えた。 「で、どうする? 熱あるけど、寝ている? 帰る?」 「………」 「やっぱり、熱あるんですか」 黙っている友之に代わって沢海が訊いた。保健医はあっさりとうん、とだけ言うと、もう一度友之の顔を覗き込んだ。 「別にそんなに勉強好きってわけでもないんでしょ。ここで寝るかさっさと帰るか、どっちかにしな」 「ちょっと、先生。いい加減な言い方しないで下さいよ」 沢海が抗議すると、保健医の女性は不快な表情をしてみせた。 「何よ、優等生。アタシはいつでも真面目に仕事しているよ。だから北川様には、負担のかかる授業はお休みして頂いて、ここで休まれて行くか、それともすぐお帰りになるかどちらかになさったら?って言っているのでしょうが」 「帰るって……一人で帰していいんですか」 「何を言っているのよ、子供じゃあるまいし。一人で家に帰れない高校生なんて、あたしゃ聞いたことないよ」 「だってコイツ熱が」 「この位ならまあ、帰るまでは大丈夫でしょ。家着いたら、またどっと熱も上がるかもしれないけどさ」 「……帰ります」 ようやく友之が言葉を出すと、保健医はおっという顔をしてから、また相変わらずのあっさり口調でそれに返した。 「あ、そう? じゃあ、気をつけて帰りなさいよ」 「……はい」 「ちょっと、じゃあ俺送って―」 「ああ、だめだめ! そうやって自分も授業をさぼっちゃおうなんて、君も案外悪だねえ」 「あのねえ、先生―」 「ああ、もうそれ以上言わない」 保健医は分かった分かったというように片手を挙げてから、何だかいやに楽しそうな顔を閃かせて言った。 「大体、君は北川君に対して過保護すぎるね。ええっと、同じクラスの真貴君もそうだけどね。委員長肌はこれだからねえ。そんなんだから、この無口君はいつまで経っても無口君なんだよ。ねえ?」 「………」 友之が黙っていると、保健医は大袈裟に苦い顔をしてみせてから「無視された」とつぶやいて、また人の良い笑顔を見せた。 「とにかく、ゆっくり休んで、お兄さんに美味しいものでも作ってもらいなさいね」 保健医の勝手知ったるような言い方に、友之は少しだけ黒い感情を抱きながらも、「ありがとうございました」とだけ言った。 沢海は釈然としないような顔で飄々とした保険医を見つめていたが、半ば諦めたようになって教室から友之のカバンを持ってくると、何回も「気をつけて帰れよ」と繰り返した。 友之は一度だけその言葉に頷いた。 兄が勧める高校には受からなかったが、今の学校は受験した高校の中で一番自宅から近い所だったから、友之的にはここで良かったと思っていた。特に今日のような体調の時には、一刻も早く家に帰りたいと思っているから尚更だった。 電車に乗り、比較的空いた車内にほっとする。毎朝混雑した駅に立つだけで、友之は気分が悪くなる。帰りも同じようなものだ。同じ学生がたくさん乗り込んでいて息苦しい。だから、体調不良故の早退とはいえ、この人のなさは友之を多少リラックスさせた。 改札を出るまで、の話だったのだが。 「えっ! 嘘! 何でこんな時間に!?」 友之が駅の自動改札口から出た時だった。 「ねーねー、そこのキミ! キミってばー!!」 やたらと大きな声がしたと思うと、友之の背後からだだだと激しい足音が近づいてきた。かと思うと、右肩をぐいと捕まれる感触がした。友之はどきりとして顔を強張らせた。 「ちょっとー、呼んでんじゃんー! 何無視してんのよー!!」 振り向くと、友之よりも10センチ程背の高い女の子が立っていた。 友之に声をかけたその子は、長い金髪に色黒、顔にも文字の頭に「ど」がつくほど派手な化粧をした、やたらと飾り気の多い女子高生だった。友之がその子を女子高生と判断したのは、制服を着ていたからだ。 「ねえねえ、キミ。トモ君でしょ?」 「………」 「ちょっとー、訊いているんでしょ? あ、何? それともこっちが先に名乗れって? じゃあ、自己紹介ね。アタシ、進藤由真。ゆま、でいいよ」 「………」 「はい、じゃあキミの番ね。キミは北川友之君でしょ」 友之がようやく頷くと、相手は満足そうににっこりと笑った。笑うと先刻までのばさばさしたような荒っぽさも不思議と消えてなくなる。友之はただ黙って由真と名乗った少女を見やった。 「実は、私キミのこと待っていたのよ。友達とオールした後、直でここ来たからかなり疲れちゃった! でも、まさかこんな時間に会えるなんてラッキー! だって学校終わるまでまだ時間あるじゃん。夕方くらいにここ通るかなあって思ってたんだ」 由真は何も言わない友之には構わず一人でさっさと喋り続けた。 「だってさあ、何にしてもアタシ、キミのことは名前と顔と、最寄の駅がここってことしか知らないからー。そしたらここで待つしかないじゃん! でも、いちいちそんな事するなんて、アタシってかなり熱い奴って友達とかにも言われちゃったよ」 友之は由真を無視して去ることもできずに、ただ目の前に立ちふさがれた大きな壁を見るような思いで、その場にただ突っ立っていた。 由真は続けた。 「そんでね、早速なんだけどお。アタシ、キミに訊きたいことあったんだ。神部裕子って知っているでしょ?」 突然、裕子の名前が出たことで、友之は思わずびくりとした反応を由真に返してしまった。由真の方はそれで嬉しそうな顔をする。 「あ、やっぱり知っているよね。うんうん、そんな事はこっちも当に分かっていたのよ。今のはちょっと聞いただけよ。でさ、ソイツが荒城さんと付き合っているっての、本当なの?」 「………何で」 「え?」 「そんな事、訊くの」 「ああ、だってアタシ、荒城さんのカノジョだからー! 裕子って人がそれ知らないであの人と付き合っているって未だに思っているんだったら、かわいそうじゃん?」 由真という少女は平然とそんな事を言って、不敵な笑みを見せた。けれど、彼女が先を続けようとした時、ひどく騒々しい音で携帯が鳴った。 「マジかよ、こんな時に!」 由真は着信番号を見ながらぶつぶつと言った後、けれどいやににこやかな声で電話に出た。そして、目の前の友之には構わず大声でかけてきた相手と話し始めた。 「ぎゃははっ! 何言ってんだよ、もう! お前、バカじゃん! やっぱバカ!」 駅の利用者が慣れたような顔をしつつも、ちらちらと由真の事を見ていく。友之は自分まで注目されているような気がして、一刻も早くこの場を去りたいと思った。それでも、何故か足が動かなかった。 「えー何よそれー? …はっ。ちょっと、そんな話アタシどうでもいいしー。それより、今ちょっと人と会ってるから! え? うん、はいはい分かった、じゃあね!」 しばらくしてようやく携帯を切った由真に、友之は思い切って口を開いた。 「付き合っているよ」 「え?」 「二人…」 「………」 友之のセリフに、由真は一瞬だけぎゅっと口を固く結ぶと、何事か考えるような素振りを見せた。けれどもすぐに明るい顔になって言った。 「荒城さん言ってたよ。荒城さん、キミのことすっごく好きなんだって」 「………」 「ずっと仲良かったんでしょ? その、裕子って人も」 「………」 「でもさ、これでアタシらも知り合いになれたわけだし! アタシのこともこれからよろしくね! 何てったって荒城修司のカノジョだから、アタシは!」 友之が何も返答しないのも構わずに由真は喋り続けた。 「でさ、携帯の番号とか教えてよ? メールできる? 携帯、どこの?」 友之が持っていないというと、由真はじゃあ自宅の電話番号を教えてとしつこく迫ってきた。何故か嘘をつくこともできずに、友之はそのまま自宅の番号を由真に教えた。 「アタシ、これから友達の所行かなきゃいけなくなっちゃった! だからまたね! 今度電話するから! その時にちょっとまた、アタシの話聞いてくれない? 何かキミってイイ人そうだしさ」 友之が何も言っていないのに、由真は笑って「ありがとね!」と言った。 そうして慌てたように駅の改札に入ると、もう一度くるりと振り返って友之に向かって手を振った。 「ばいばい、友之! 今度電話するからね!」 友之は嵐のような由真の去って行く姿を、しばらく見やっていた。 家に帰ると、光一郎がいた。リビングでノートパソコンを広げて何やらやっていたが、友之の姿を見るにつけ、「大丈夫か」と言ってきた。立ち上がって、友之が拒絶する間もなく自分の手を友之の額に当てた。 「………バカ。早く着替えて寝ろ」 今、氷も出すからと光一郎は言って、さっさとキッチンへと向かって行った。友之は段々熱くなる身体を意識しながら寝室へ行き、制服のネクタイを強引に緩めながら、ベッドにへたりと座り込んだ。 何かキミってイイ人そうだしさ・・・ 突然、先刻の由真の声が頭の中で響いたような気がした。 それを振り払うように、友之は白いシャツのボタンに指をかけた。ただ、それを外そうとしても、手がなかなか言うことをきいてくれなかった。 もたついている間に、光一郎が友之のパジャマと氷を持って部屋に入ってきた。それらをベッドに置いてから、もう一度友之の前髪をかきあげて、額に手を当ててくる。ひんやりとした冷たい手に、友之は目を閉じた。気持ちが良かった。 「まったく、お前は……」 仕方ない奴だ、と光一郎が言ったような気がした。 それでも、もう友之の耳には届かなかった。 |
To be continued・・・ |