「 兄弟じゃなくても…いたいんだ」
  ただ光一郎に縋り、 必死に言葉を紡いでいた友之は、自らが思わず口走ったその台詞に気づかなかった。

「 友之…。お前、それどういう意味だ?」

  けれど光一郎はその言葉に鋭い反応を示した。友之を抱いていた腕を離し、真っ直ぐな視線を向けてくる。友之はそれで自らの言葉にはっとなり、慌てて顔を背けた。


  ( 22 )



  自分でも光一郎が好きだなどということには気づかなかった。
  いつも口うるさくて、厳しくて。自分とは違って何でもできて、何もかもを持っていると思った。以前、数馬は光一郎のことを「あの人は何も持っていない」と言っていた。その言葉がどこかで引っかかってはいたのだけれど、それでも自分よりは数段上にいる光一郎のことが、友之は鬱陶しくて、怖くて、嫌いだと思った。夕実も以前、そんな光一郎が嫌いだと言っていた。だから自分も嫌いなのだと思っていた。本当につい最近までずっとそう思っていたのだ。
  それなのに。
「 コウ……」
  距離を取られ心細くなって、友之は光一郎を呼んだ。顔を上げることはできなかったけれど、この告白によって余計離れられたらどうしようという気持ちが声を出させていた。
「 コウ……」
「 友之。こっち見ろ」
  キツイ口調で言われて、友之は思わず弾かれたように顔を上げた。そこには声と同じような、険しい顔をした光一郎の姿があった。
「 さっきの…どういう意味だ」
「 ………」
「 兄弟じゃないって……何言っているんだ?」
「 ……じゃないから」
「 何?」
「 兄弟じゃないから…。コウと僕は、兄弟じゃないから」
「 だから何だそれは……」
  光一郎の憮然とした声が聞こえ、友之はそれによって余計に胸がズキンと痛んだ。
  やはり光一郎はこの事を知らなかったのだ。

  言わなければ良かった。

「 トモ。何の話だ。お前、何を言っているんだ」
  光一郎が再度訊ねたが、友之は再び俯いたまま、言葉を出せなくなってしまった。
  言わなければ、この人は自分のことを今まで通り弟として見てくれて、これからもずっと一緒にいてくれたかもしれない。不意に光一郎が何処かへ行ってしまうかもしれないという不安に駆られてつい口走ってしまったが、自分が「弟」ならば、やはりこの人は「兄」でいてくれるかもしれない。いや、絶対に傍にいてくれるはずだ。 光一郎の性格上、「完璧な兄」を演じることは彼の責務であったから。
  この人が自分から離れてしまう。この人と自分を結ぶ唯一の糸は、「兄弟と」いう、ただそれだけのものしかなかったのに。
「 お前、その話を誰から聞いたんだ」
「 ………」
「 トモ、顔を上げろと言っただろ」
  口調が再び普段の「兄」のようになったと友之は思った。恐る恐る顔を上げると、光一郎はやはり友之のことをじっと見詰めていた。いたたまれなくなってまた顔を背けようとしたが、光一郎はそれを許してくれなかった。
「 友之」
  呼ばれて、びくりと肩が震えた。反射的に答えた。
「 夕実から」
「 ……夕実がお前にそんな事言ったのか」
「 僕の本当の父親は、お母さんの前の旦那さんだって」
「 ………」
「 だから…夕実もコウも、僕の本当の兄姉じゃないって」
「 ……いつだ」
「 ……何が」
「 その話を聞いたのがだ」
  光一郎の声はどことなく翳っていたが、友之はそれには気づかなかった。
「 ……忘れた」
「 お前、ずっと思っていたのか。俺とお前は兄弟じゃないって?」
「 うん…」
「 夕実ともか」
「 うん…」
「 ………」
  黙り込み、何かを考えるようにじっと視線を一点にだけ向けている光一郎の顔を、友之も黙って見やった。困惑したような、そしてやはり苦しそうな顔を、光一郎はしていた。
  しかし、しばらくしてから光一郎はきっぱりと言った。
「 ……バカ、そんなわけがあるか」
  そして再び友之の身体を引き寄せると、光一郎は拘束した弟の耳元に自分の唇を近づけて、言い聞かせるように言葉を出した。
「 そんなのは嘘だ。お前は俺の……弟だ」
「 え……」
  光一郎の言葉が信じられずに、友之は思わず聞き返し、身じろいだ。光一郎がきつく抱きしめてきていたので、あまり動くことはできなかったのだが。
「 お前は俺の弟だ。それに何処にも行かない。お前を置いていったりしない」
「 ……本当?」
「 ああ」
「 ……本当?」
「 本当だよ」
「 傍に…いてくれるの」
「 お前はいたいんだろう?」
「 うん……」
  聞かれて友之は慌てて光一郎の身体に接近すると、自らの身体を押し付けた。そのままぎゅっとして離して欲しくなかった。
「 いてほしい……」
「 大丈夫だ。俺はいる」
「 ……うん」
  全身から力が抜けるのが分かった。
  いてくれるんだ。
  そう思ったら、実感したら、身体の何処からかふっと軽くなるのが分かり、安堵の吐息が漏れた。
  夕実の言っていた事は嘘だったのだろうか。本当は光一郎とも夕実とも、たとえ半分でも血は繋がっていて、自分はやはりあの父親の息子だったのだろうか。…そんな思いも頭をよぎったが、しかし最早そんな事はどうでもいいと思った。光一郎が今まで通り傍にいてくれる。それが確認できただけで十分だった。友之は抱きしめてくる光一郎の力が少し強まるのを感じつつも、目を開くことなくその抱擁に甘んじた。
  その時がどれくらい続いたのだろうか。
  恐らくはそれほど長い時は経っていないだろう。友之には却ってひどく短い時間に思われたが、突然光一郎が自分に縋ってくる友之のことをベッドに押し倒した。
「 ……っ」
  それが急なことだったため、友之は驚いて閉じていた目を開いた。柔らかいマットの上に倒されたので身体に衝撃が走ることはなかったけれど、光一郎の両腕に挟まれた状態でその相手に見据えられたことは、少なからず戸惑いの原因になった。
「 コウ…?」
「 ………」
  光一郎は応えなかった。ただ、やはりいつもの表情をして、じっと友之のことを見やっていた。それは先刻友之が感じたような、光一郎が何処かへ行ってしまうような、普段の光一郎が消えてしまうような、そんな錯覚に捕らわれた。
  不安だった。
「 コウ…何……?」
「 ……どうして……」
「 え……?」
「 俺は……」
  光一郎は何かを言いたそうにしつつも、しかし後の言葉を続けることをためらうような所作を示した。そしてその代わり友之にすっと顔を近づけると、そのままそっと軽い口付けをしてきた。
「 ………」
  友之が驚きながらも黙ってそれを受け入れると、やはりその口付けは勢いを増して、何度も重ねては貪られた。
「 んぅ…っ…」
  喉の奥で声を漏らし、少しだけ苦しいということを訴えようとしたが、光一郎は離してはくれなかった。やがて光一郎が自分の舌を絡めとってくるのを感じて、友之は益々力が抜けて意識がぼうっと遠のきかけた。光一郎の腕を掴んでいた手にも力が入らなくなる。ぽとりと両手をベッドに落とすと、光一郎のキスはそれで一層激しくなった。
  傍にいてくれると言った光一郎が、何故こんな風に自分を求めてくるのか、友之にはよく分からなかった。
  ただ何かが痛くて。
「 ふっ…ん…ん」
  息苦しくなって顔を背けようとした時、唇が離された。しかしそれはそのまま自分の首筋に移行し、さらしていた肌に光一郎の手がすっと触れた。
「 あ……」
  驚いて目を開いた時、どうしてか涙がこぼれた。光一郎とは一瞬目が合ったが、それはすぐに向こうから逸らされ、そうして胸にもキスをされた。
「 やっ……」
  それに思わず抵抗の声が出た時。

  ピンポーン。

  玄関のチャイムが鳴った。
「 ………」
  光一郎の動きが止まった。友之がそっと視界を開くと、そこにはどことなく殺気立ったような眼光の光一郎がいて。
  友之は心の中で密かに震えた。
「 トモ……」
  けれど友之を呼んだ声は優しく、さらりと髪の毛をなでてくれたその指もとても滑らかな感触だった。それ以上のことを光一郎は言わなかったが、さっと離れると部屋を出て、玄関へと向かって行った。
  途端に、友之の心臓の鼓動は早まった。
「 ………」
  かっと身体中が熱くなり、どうにかなってしまいそうな感覚が全身を襲った。自分でもその状態に混乱し、それを振り払うかのように友之は上体を起こし、はだけた身体を傍の掛け布団にこすりつけた。
「 どうしたんだ」
  その時、玄関から近づいてくる光一郎の声が聞こえ、友之ははっとした。
「 何を怒っているんだ」
「 怒ってなんかいないわよ」
  声は段々と大きくなり、光一郎ともう一人、中に上がりこんできた人物の声が直接耳に響いてきた。
「 怒ってないけど、びっくりしただけ」
  声の主は裕子だった。
「 ……それでこんな時間に突然来たのか」
「 だって!」
  リビングにいる2人の様子はどうにもおかしかった。裕子はいつもと違ってイライラした様子だし、光一郎の方もそんな裕子に不快な気持ちを表しているようだった。
「 どうするの? 本当にあの子の言う事を聞くの」
「 ……お前には関係ないだろう」
「 あるわよ、だって!」
「 静かにしてくれ。トモが寝てるんだ」
「 ……っ!」
  裕子ははっとしたようになって一瞬向こうの部屋は静かになった。裕子が自分を気にしてくれたのが分かったが、それによって友之は余計に耳をそばだてた。それから傍にあった寝間着に目がいき、のそのそと着替えをし始めた。
「 ……そのトモ君をどうするつもり」
  裕子の本当に小さな声が自分の名を出した。友之がじっと隣の部屋に意識を集中させると、裕子のその後の声は余計に聞こえた。
「 光一郎はそうやっていつもあの子を甘やかすのよね。勝手に出て行って、いつだって勝手なことをしているのはあの子でしょ。どうしてそこまで許してしまうの」
「 ……あいつも色々悩んでいるんだ」
「 そんな事は分かっているけど」
「 帰る所がないんだ。あの家には戻れないし、ここに来たいと言うあいつの気持ちも分かる」
  光一郎は誰の話をしているのだろうか。友之の胸がどきんと高鳴った。
「 トモ君はどうするの」
  裕子がもう1度聞いた。光一郎はすぐに答えなかった。
「 どうするの。まさか3人で一緒に暮らすなんて言わないわよね。それが無理だってことは分かっているわよね」
「 ………分からないわけないだろ」
  言われた光一郎がイライラを押し殺すような声で返した。それでも裕子の勢いは止まらなかった。
「 だったら無理でしょ。いくら夕実が一緒に暮らしたいと言ったからって―」
「 トモ」
  裕子の言葉が最後まで出ないうちに、友之は2人の前に立っていた。話を聞こうとベッドから抜け出て、入口の傍に来た時は、もう無意識に姿を現してしまっていた。
「 ……トモ君」
  裕子が驚いたようになり、声を詰まらせた。光一郎も表情を曇らせて、友之のことを見やっていた。
「 夕実が……?」
  友之がつぶやくように言うと、裕子が2、3歩近づいてそっと言った。
「 トモ君、あの子とはどれくらい会っていないの」
「 ………」
「 トモ君にはずっと言ってなかったけど、私は、夕実とはよく連絡取り合っていたの。あの子はいつも一人で無茶するところがあったし、好きになった相手と暮らしているって言ったって、いつまで続くんだろうなって心配だったし」
「 うまくいってないの」
「 え?」
「 一緒に暮らしている人と」
「 ……別れたいんだって」
  裕子と友之の会話に、光一郎は口を挟まなかった。
「 それで今日光一郎と会ったんだって。トモ君、その事知っていた?」
  友之が裕子の言葉で光一郎を見ると、向こうもじっとこちらを見ていた。臆する様子はない。そして、何故光一郎が自分に何処へ行っていたのか言わなかったのか、何かを言おうとして言えないでいたのか、すぐに分かった。
「 トモ君にも会いたいって言っていたよ。トモ君はどうなの?」
「 ………」
「 ずっと会いたかったんだって。ずっと一緒に暮らしたかったんだって」
「 ………」
  夕実がそう言う姿は、何となく想像できた。いつもそうだったから。離れたと思ったらまた近づいて、近づいたと思ったら離れて。
  そういうところのある人だった。自分はいつもそれに振り回されて。
「 でも、そういう事を言うあの子はズルイと私は思うよ」
「 え……」
  珍しくきっぱりとした口調でそう言った裕子を、友之は驚いた目で見返した。
「 そんなのは本当に勝手だよ。いきなり何を言っているのと思った」
「 裕子……」
  光一郎がつぶやくように呼んだが、裕子は振り返らずにただ友之の方を見ていた。
「 あの子はいつもそうだよね。みんなそれを許しすぎてきたんじゃないの」
  裕子は滅多なことでは怒らない。確かに夕実は幼い時分から身勝手なところが多々見えて、一緒にいた友之や裕子は人よりも多くそのとばっちりを受けていたように思う。それでも裕子はそんな夕実に文句を言った事はないし、年上ということもあったかもしれないが、良き相談相手で、良き友人という感じが見てとれた。
  それなのに。
「 トモ君。はっきり言っていいの。光一郎にはっきり言っていいのよ。夕実がここに来てもいいの? 3人で暮らしてもいいと思う?」
  どうしたのだろうか。
  やっぱり自分はおかしいのかもしれないと友之は思う。
  夕実のことを思うと自分の心はひどく空虚になり、同時に胸の中が何かでいっぱいになって息苦しくなる。それを誰かに伝えたいのに、いざとなるとその言葉は表には決して出すことはできないのだ。
  はっきり言ってもいい? 自分の思いをここで告げる? 夕実と一緒に暮らしたいか? 3人で暮らしたいか?
  そんな事、したいわけがない。
  できるわけがない。

  でもそれは、言えない。

「 ………」
  友之は光一郎のことをちらと見た。光一郎も友之の答えを待っているような気はした。光一郎は傍にいてくれると言ってくれたし、今なら自分の夕実への気持ちを言っても良いような気もしたが、それでもためらう部分があった。
  自分が光一郎の弟で傍にいても良いなら、それは夕実とて同じことではないか。光一郎は自分を必要としている妹を、決して見捨てたりはしないだろう。そんな人間に、自分だけを取ってくれと言えるだろうか。
  まだそこまで自分に自信がない。そんな我がままを言って、光一郎にどう思われるか分からない。
  怖い。

「 ………分からない」
  友之はただそう答えた。それが精一杯だった。
「 分からない」
  もう1度言った。消え入るほどの小さなそれだったのに、言った瞬間、汗がどっと噴出すのを感じた。

  今、2人は自分のことをどう思っているのだろうと友之は思った。



To be continued…



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