( 23 ) その夜、光一郎は帰って来なかった。 突然、 夜遅くに友之たちのアパートにやってきた裕子は、夕実のことで大分興奮していた。 一方的に家を飛び出て2人から離れたのは夕実なのに、突然光一郎たちと一緒に暮らしたいと言い出したその勝手さに我慢がならなかったのか、それともそれを許容しようとしている光一郎に対して腹が立っていたのか。裕子の心意は定かではなかったが、この時の彼女が友之も普段見ないような表情をして、声を詰まらせるようにしていたのだけは確かだった。裕子も自分と同様、夕実の影を背負って生きていたのかもしれないと、この時初めて友之は思った。 そんな裕子に「思っていることを言ってもいい」と詰め寄られた友之は、しかし何を言うこともできずに、ただその場に立ち尽くしてしまった。本当のことを言って光一郎に軽蔑されるのが怖かった。 3人の間には重苦しい沈黙が流れた。思えば、自分も含めたこの3人はいつもこうだと友之は思う。 お互いがお互いを大切に思っているはずなのに、いつもそれをうまく出せない。いつでも相手を気にして、夕実を気にして、余計な気を遣う。 そうして自分を出すことができないのだった。 結局、未だ怒りを沈めることができないような裕子を光一郎が半ば強引に家へと送り届けることになり、それによって友之は一人きりになった空間で、ぼうっとした頭のまま、夕実のことを考えた。 そしてその夜、光一郎はそのまま帰って来なかった。出て行ってから1時間ほどして電話があり、「アラキに泊まる」とだけ連絡があった。 友之を置いて外泊するなど、初めてのことだった。 翌朝、ふと目を覚ました時には、時計の針は既に9時を指し示していた。 「 ………」 あのままリビングの絨毯の上で何となく眠りについてしまった友之は、むくりと身体を起こすと、窓から漏れる明るい日の光に目を細めた。 いつもは光一郎が必ず起こしてくれるから、寝坊するなどという心配もしたことはなかった。それに友之自身も光一郎が作ってくれる朝食の匂いで大抵同じ時間に目を覚ますから、今のこの寝慣れぬ場所のせいでじんじんと痛む身体や、定刻には到底間に合わない学校のことを考えると、ひどく憂鬱な気持ちがした。 学校なんて。 心の中でつぶやき、それでものそりと身体を立たせた。しんとした部屋の中でじっとしているのが嫌だったということもあるが、今日はここにいても光一郎は帰ってこないような気がした。 自分も外に出たいと思った。 とりあえず制服には着替え、友之は真っ直ぐに「アラキ」へ向かった。開店時間は平日の場合11時だったから、そこへ辿り付いた時、店はまだ閉まっていた。それでも友之は「準備中」の札を無視して、古ぼけた茶色いドアの取っ手に手をかけ、ゆっくりとそれを引いた。 ガランと粗雑な鐘の音がして、ドアは開いた。 「 あれえ」 それと同時に、フロアの中央でモップを持った「マスター」の素っ頓狂な声が聞こえた。修司の父親で、このバッティングセンター「アラキ」の店主。気さくで明るく多くの人に親しまれているのは修司と同じだ。友之自身、話こそあまりしないが、嫌な人だと思ったことはなかった。 そのマスターが未だ閉店中の自分の店に入ってきた「客」に、人懐こいそれではあったが奇異の目を向けた。 「 トモ、どうしたい? こんな時間に」 「 ………」 「 ………学校は?」 何も言わない友之に慣れたような目を向けつつも、マスターは何事かを悟ったような目をして目の前の相手を見据えた。それから相手の返事を待たずにすたすたとカウンターの中へと入ると、「まあ、座りなよ」と友之を自分の前の席へと誘った。 「 何か飲むかい? それとも朝ご飯がいいか。食べてないんだろう」 友之が大人しくカウンター席に腰を下ろすと、マスターは相変わらずの人好きのする笑顔でそう訊いてきた。 「 昨夜、コウも突然来たからね。朝もここから出かけていったから、家には戻ってないだろう? コウがいないと朝食も摂らないんじゃないか、トモは」 「 ………」 「 ああ、そうだ。ちょっと待ってな」 マスターはだんまりを決め込む友之にはたと思い立ったような顔をしてから、店の奥へと入っていった。それからしばらくして「いいから起きろ」という叱咤するような声と共に、寝ぼけ眼の修司を連れて戻ってきた。 「 トモ、こんな奴で良かったら愚痴ってな。トモのお陰で久しぶりに居着いているから、こいつ」 マスターがにこにこしながらそう言い、未だ意識のはっきりしていないような息子の背中をばんと叩いた。突然現れた修司は、確かにだるそうな顔をしていたが、いざ友之の顔を見ると、いつもの柔らかい笑みを向けて、「よお、トモ」と軽い挨拶をしてきた。 「 まったく、この人は自分の息子と北川兄弟とに対する態度が違いすぎるね」 言われた父親は息子のその台詞を聞くと、「それはお前もだろ」と言ってにやりと笑った。 「 トモ、昨夜コウが家に帰れなかったのは全部こいつのせいだからね。散々飲ませて自分は朝方からぐうぐう寝ているんだから、いいご身分だよ。少しはコウを見習ってほしいもんだ」 「 あんたね、あれを見習えっての、それはムチャだろう」 修司は寝起きでぼさぼさになっている自分の髪の毛をくしゃりとやってから、改めて友之の顔を覗きこんだ。 「 ……お前が今日はここに来るんじゃないかと思ってた」 「 ………修兄」 「 聞いたぜ、夕実の話」 「 ………」 友之がぐっとしてまた黙りこむと、それを見ていたマスターが「買出しに行ってくるな」とだけ言い残し、店を出て行った。友之への配慮だということは明らかだった。 2人になり、しばらくは修司も何も言わずに俯く友之を見ているだけだったので、店の中は奇妙な静けさに包まれた。 「 ……あ、飯作ってもらってから追い出せば良かったな」 やがて修司がそうつぶやき、ごそごそとカウンター下の棚や冷蔵庫を開き、「お前、何か食いたいものとかあるか」と訊いてきた。 「 俺は別に腹減ってないけどさ。コウ君が心配していたから。お前が朝飯食って学校行くかってよ。まったく、お母さんか、あいつは」 「 ………」 「 目玉焼きとかなら、いくら俺でも作れるぞ」 「 ……いい」 「 腹減ってないのか」 屈んで食料を探していた修司は、上方からそう言ってきた友之と目を合わせるために立ち上がった。相変わらず下を向いたままの友之が何も反応を示さないので、修司は仕方なさそうに首筋の辺りをぽりぽりとかいてから、脚の長い椅子に腰を下ろした。 「 じゃ、何か飲むか」 「 ………」 「 トモ」 「 いらない」 「 ……ふーん」 修司は言ってから、ジャージのポケットから煙草を取り出し、傍にあったライターで火をつけると、すぐにそれをくわえてふっと煙を吐き出した。 「 で? 光一郎を迎えに来たのか?」 「 ………」 「 そこでな、俺に会いに来たとか言えれば可愛いんだけどな」 「 ……夕実が」 「 ん?」 ようやく口を開く気になった友之に、修司は落ち着いた目をしたままそう聞き返してきた。それで友之も後を続けるのが楽になった。 「 一緒に暮らしたいんだって」 「 そうだってな」 「 ………」 「 ……お前は」 修司は手にしていた煙草を傍の灰皿に押し付けると、改めて友之に自分の身体を向けた。そしてやや精悍な顔のまま、凛とした声で言った。 「 夕実のこと、好きか」 修司がそうやって友之に夕実のことを訊いてきたのは、初めてだった。 「 俺は、夕実は嫌いだぜ」 そしていともあっさりと、修司はそう言い放った。 「 まあ、ガキの頃からあんまり関わってなかったし、そんな身も蓋もない言い方はないだろうという気もするが。けど、あいつも俺のこと嫌ってたし、どっちもどっちってことで」 「 何で……」 「 何が」 「 何で夕実のこと…?」 「 お前、それはトモを独り占めしていたからに決まってンだろ」 修司は半ば冗談のような言い回しでそう言った後、にやりと笑った。再び煙草の箱に手をかけ、新しいものに火をつける。 「 その上、光一郎まで取られたんじゃかなわんぜ。あれも欲しいこれも欲しいって、子供の玩具じゃねえんだよ」 少々乱暴な口調になった修司に、友之はやや怯んだような顔を見せた。それに逸早く気がついたのか、修司はすぐにきつい瞳の色を隠してしまうと、また優しい笑みを浮かべた。 「 トモ、お前、光一郎のこと好きなんだろ?」 「 ………」 ぎくりとして顔を上げると、修司は未だ静かな目をして自分の方を見やっていた。光一郎が言ったのだろうか。自分が昨夜口走って光一郎に縋ったこと。あんな風に甘えて、恥ずかしいと思わないでもなかったから、友之はどう反応していいのか判らずに、ただ修司のことを見つめ返した。 すると修司はゆっくりと言葉を出した。 「 傍にいてほしいんだろ」 「 ………」 「 一緒にいたいんだろ」 修司は再度訊いた。友之が頷くと、修司は得心したようにふっと笑んだ。 「 だったら絶対離れるな」 「 修兄……」 「 ごまかして逃げてばかりじゃ、結局何も手に入れられないからな」 「 ………」 「 そういう意味では、あいつは何も持ってないんだな」 「 あいつ……?」 「 お前のお兄ちゃん」 修司は少しだけ寂しそうな顔をしてから、今までで1番優しい顔をして笑った。 結局、修司が作ってくれた簡単な軽食を摂ってから、友之は学校へ向かった。 「 今日はサボって、打ち込みでもやっていけよ」 そう言ってくれた修司の言葉は嬉しかったが、友之は首を横に振った。今、がむしゃらに振っても、きっとあの試合の後のように、意味のないものになるだろうと思った。 「 あの時はうまくなりたいと思っていたんだ」 友之は何ともなしに、修司に向かってそうつぶやいていた。 夕実が家を出て、父親と2人きりのあの家に閉じこもっていた時。暗くて、息苦しくて。何故ここにいるのだろうと何度も思った。 けれどやがて光一郎が迎えに来てくれて、その後中原らの野球チームに入れてもらった。中原は相変わらず怖かったけれど、他の皆は優しくて、野球も楽しくて、小さい頃望んでいて叶わなかったことが今やれるのだと考えたら嬉しかった。 それにうまくなれば、それだけ光一郎や中原らと一緒にいられるような気がしていた。 だから、練習も楽しかった。 「 あの時は……」 けれど、最近は。 それなのにどうしたことか、日を追うごとにバットを振ってもボールが見えなくなり、段々と皆と一緒にいることも苦痛になった。どうしてそうなのか自分自身でも判らなかったが、試合を観ていても身が入らないことが多くなった。 「 いつからそうなったのか、お前は分かっているだろ」 修司が友之のことを見越したようにそう言った。友之はそう断言してきた修司の顔をまともに見られずに、やはり視線を逸らしたのだが、いつからかと問われれば答えはすぐに出すことができた。 自分が落ち着きをなくした時。皆と一緒にいても戸惑いを覚えるようになった時。 それは、光一郎との暮らしの間を縫うようにして夕実からの荷物が届き始めたあたりの頃だった。 夕実が自分に関わってくる度に。 光一郎や中原らと共にいる自分自身に対し、友之の精神はひどく不安定になるのだった。 『 トモ。そんなんじゃ、たとえお前が強打者になったって、俺は使わねェからな』 中原が言った言葉が脳裏をよぎった。裕子は到底勝ちの見えないボロ試合の時でも友之を使わない中原を怒っていたが、友之自身、ゲームに出してもらえない理由くらい本当は分かっていた。分からないフリをしていたのは、きっと夕実のことを考えたくなかったからだろう。 「 トモ。それでもお前は、夕実に会うべきだよ」 店を出る間際、修司が言った。 友之に何かをするべきだと修司が言ったのは、これが初めてだった。 教室に入ったのは、4時限目も中盤を迎えたあたりの頃だった。 遅刻をして授業途中に入室する生徒は珍しくないが、それが友之となれば話は別だ。何人かのクラスメイトが物珍しそうな顔をしてちらちらと視線を送ってきた。この時間の担当である数学教師は別段何も言わず一瞥してきただけだったが、友之としては、当然そちらの方がありがたかった。 沢海が見ていることにも気づいていたが、気づかないフリをした。 席に着いてから、ふっと息を吐いて窓の外へと視線をやった。 『 久しぶりだね』 夕実の声は、いつも友之を支配してきた。 『 元気だった…?』 優しい口調は、友之の胸をしめつけた。 『 友ちゃんに会いたいんだけど』 何かを望まれると、泣きたくなった。 一緒に暮らす? 頭の中が真っ白になるのが分かった。 大勢の人間がいる教室の中に身を置いたまま、友之は目の前にはない風景を思い浮かべていた。 父親と登ったあの丘は何処にあるのだろうと思った。 |
To be continued… |