( 24 ) 昼休みになって真っ先に友之の傍に寄ってきたのは、橋本だった。 「 今日はどうしたの、北川君」 やや遠慮がちに問うその口調は、明らかに昨日の出来事を示唆してのものだったのだろうが、友之はどうとも返事をせずにただ首を横に振った。 「 あっ…。ごめんね」 話しかけられるのが嫌なのだろうと敏感に察知した橋本は、戸惑いながらもすぐに席を離れて行った。…が、友之はそんな彼女に対してどうしても申し訳ないという感情を抱くことができなかった。 こんなに心配してくれるのに。 でも、今はそれがひどく鬱陶しくて。 「 友之」 だから、この人にも。 友之は橋本が去った後すぐに自分のところにやってきた人物の姿を席から見上げた。視界にはその人物―沢海―の精悍とした容貌が映し出された。 息苦しい。 「 今日…どうした」 橋本と同じことを沢海は訊いてきた。橋本が訊ねた時、友之が答えなかったのを見ていたはずなのに、沢海は敢えて訊ねてきたようだった。 友之はそんな相手から視線をそらせずに、本当に小さな声でつぶやいた。 「 寝坊しただけ…」 「 ……寝坊?」 友之の発した言葉を反芻して、沢海は多少眉をひそめた。全部を信じたような感じではない。けれどもそれ以上は訊かず、沢海はただ手にしていたノートを差し出した。 「 遅れた分の。特に数学は来週テストがあるっていうから」 「 ………」 「 返すの、いつでもいいから」 「 ……ありがとう」 また相手が聞こえるか聞こえないかくらいの声でぽつりと言った友之は、それでも沢海から差し出されたノートを受け取った。そして何ともなしにそれを開いた友之は、ふと、差し込まれていたメモ用紙に目を留めた。 今日も一緒に帰ろう。 その文字を目にした途端、ズキリと胸が痛んで、友之は反射的にそれを書いた人物の方へと目をやった。すると、目の前にいたはずの沢海はもういなくて、彼はとうに自分の席の方へ戻ってしまっていた。 友之はぐっと唇をかみ、そうしてただ俯くしかなかった。 「 私、この家を出る。もう我慢できないから」 夕実が父親に突然そう切り出したのは、義母である涼子の葬儀が終わってから程なくしてのことだった。 「 高校もね、辞めたから。もう行かないから」 友之はリビングにいる2人の前にはどうしても姿を出すことができず、部屋のすぐ脇にある階段途中から、中の緊迫した空気をただ伺っていた。 「 結婚もするかもしれない。まだ詳しい事は分からないけど、彼、とてもいい人だし」 どうしてか夕実の声しか聞えなかった。父親は娘である夕実の次々と発せられる言葉にどんな顔をしているのだろうか。友之はただ夕実の声を耳に入れ、じっとしていた。 「 それじゃあね」 そして一方的に喋っていたような夕実は、しばらくして静かにドアを開き、部屋から出て来た。すぐに階段の所にいる友之に目をやり、無表情で言う。 「 そういうわけなんだ、トモちゃん」 「 ………出て行くの?」 「 うん。もうここにはいられないよ」 「 ………何処行くの?」 「 好きな人の所」 「 ………」 そう言う割に夕実は、ちっとも嬉しそうではないと友之は思った。よくは分からいけれど、好きな人と一緒に暮らすという事は幸せな事なのだろうと友之は思っていた。 けれど目の前にいる夕実は少しも幸福そうではなかった。 いつもよりも暗い顔をして。 自分にもいつもの優しい笑顔を見せないで。 ただ、感情の見えない目をして、そこにいた。 「 トモちゃん」 そして夕実は言った。 「 バイバイだね、トモちゃん」 夕実は自分のことを捨てたのだと友之は思った。 いらなくなったのだと思った。 「 友之」 はっとすると、隣には沢海がいた。 「 もう、とっくにHR終わったよ」 やや苦笑して沢海は言った。「お前、ずっと寝ているみたいになってた」と続けて言い、それから友之の鞄を手に取った。 「 帰ろう」 「 あ………」 慌てて沢海から鞄を取り返し、友之はようやく我に返ったようになって立ち上がった。 足を怪我しているはずの沢海は、しかし一見普通に歩行しているように見えた。さっさと廊下を通り過ぎ、階下の昇降口へと向かう。歩幅のある沢海の後を追うだけで友之は必死になった。それでも沢海は校舎を出るまで一言も発せず、友之にも口を挟ませる余裕を与えなかった。 「 拡……ッ」 ようやく声を出せた時、沢海はくるりと振り返ると、友之にややキツイ目を向けた。そして拒絶することは許さないというような、厳とした口調でこう言った。 「 今日さ…裏門から帰ろう」 「 え……?」 「 またアイツがいたら…嫌だろ」 「 ………あいつ」 「 香坂数馬」 沢海は数馬の名前を出すとみるみる不愉快な表情になり、そうしてやはり有無を言わせぬように先を歩き出した。友之はいつもと違う沢海にどうしようもなく胸がざわつくのを感じながらも、やはり逆らうことができなかった。数馬が2日も連続で自分を待つことなど有り得ないと友之は思っていたのだが、たとえそんな事を言ったとしても、沢海はきっと承知しないだろうとも思った。 「 今日さ…」 そして人通りの少ない裏門から外に出た時、沢海はようやく落ち着いたようになって、再び口を開いた。 「 何で遅れたんだ?」 「 え……」 寝坊したと言ったはずなのに、と思いながらも、友之はそれも言うことができなかった。仕方なく同じ事を繰り返す。 「 寝坊して……」 「 嘘だろ」 けれど沢海は間髪入れずにそう切り替えしてきた。驚いて言葉を失っていると、先を歩いていた沢海はくるりと振り返って、静かな瞳をくゆらせたまま友之のことを見据えてきた。 「 何か理由があるんだろ」 「 どうして……」 「 そういう顔しているよ」 「 ………」 「 俺のことで…ってわけでもないみたい」 沢海は言ってから、今度は少しだけ自嘲するような笑みを浮かべて、また歩き始めた。友之は慌てて後を追った。 「 俺が何をしても……友之には何てことないんだよな」 「 え……?」 「 だってそうだろ。普通はもっと考えるよ。クラスメイトの男から告白されてさ、キスまでされてんだぜ。それなのにお前は違う事考えてる。他の事で頭いっぱいになってる」 「 拡……」 「 さっきだって、教室でぼんやりしていたお前のこと、俺はずっと見ていたのに、お前は俺のことなんか全然眼中にないんだ」 「 ………」 「 まったく、頭にくるよな……」 最後はつぶやくような声だったけれど、友之の耳にまではしっかりと届いた。その言いように一瞬だけぞくりと震え、友之は歩を止めた。 裏通りは一般の住宅地で、同じような造りの2階建て木造家屋が並んでいた。が、昼下がりの陽気の良い日に、何故か人の通りは見られなかった。 まるでこの空間には友之と沢海しかいないような。 不思議な静寂が2人を包んでいた。 「 どうした、友之。早く来いよ」 その沈黙をやはり沢海が先に壊して、立ち止まっている友之に声をかけた。少しだけ苛立たしいような、何かを抑えたような声だった。 「 ………」 友之はどことなく厳しい口調の沢海に黙って従った。そろそろと近づいていくと、出し抜け手首を捕まれた。そしてそのままその手を握られて。 「 ひろ……ッ」 「 ………」 戸惑う友之には応えずに、沢海はただ友之の手を握ったまま歩き始めた。と、いうようりも、歩こうとしない相手をただ強引に引っ張っているだけにしか見えないのだが、それでも友之は困惑して、益々胸ががさがさとして、泣き出したい気持ちになった。 「 拡……ッ」 小さな声で必死に呼んだが、相手は応えてくれない。 「 拡……!」 もう一度呼んだ。今度は多少、批難するような声色で。 「 拡、嫌だよ……」 そして最後に消え入りそうな声でそう言うと、相手はすっと拘束の手を緩めた。そして友之から顔を背けたまま、その場に立ち尽くした。 「 ………」 友之は解放されたばかりのじんとした手首をもう片方の手で掴み、恐る恐る沢海のことを見上げた。相手の顔は見えなかった。けれど、またこの人を傷つけたのだろうなということは分かった。 それなのにその相手は、また。 「 ごめん……」 沢海は友之に謝った。 「 ごめん、友之……」 「 ………」 沢海といると、胸が苦しくなる。 自分はひどい。こんな目に遭わせたくない。そう思っているのに。 沢海といると、息できない。 「 好きになるって……分からないけど……」 友之は無意識のうちに言葉を発していた。沢海が聞こうが聞くまいが関係ないと思った。ただ分かっているのは、今、言わなければならないということで。 「 分からないけど、でも…一緒にいたい人がいて……」 「 ………」 「 その人の、傍にいたくて……」 「 ………」 「 だから―」 「 それ…光一郎さんのことか」 「 え……」 突然の沢海の声に友之は絶句した。けれど沢海はようやく顔を上げると友之の方に視線をやり、「いつもの」優しい顔を見せた。 「 そうだろ」 「 ………何で?」 「 お前のことなら……俺、何でも分かるんだ……」 「 拡……?」 「 ホント、俺、どうしようもないんだ。バカみたいに焦ってる。お前の事なんか全然考えないでさ」 「 ………」 「 ホント、どうしようもないんだ……」 「 拡のこと、嫌いじゃない……」 頭がズキズキした。視界がぼやけた。声が震えた。それでも、何故か言葉は口をついて出た。 「 嫌いじゃない…。……されても、嫌じゃなかった」 「 ………」 「 本当に……嫌じゃなかった……」 「 ……『でも』、だろ?」 「 好きって分からないけど、でも嫌いじゃない……」 「 分かったよ、友之」 「 いつも優しくしてくれて……」 「 分かったよ、友之。大丈夫だよ。俺は大丈夫だから。最初から分かっていたことなんだから」 「 拡……」 「 いいよ。いいんだよ…。苦しめて、ごめんな」 沢海は言い聞かせるようにそう言ってから、必死に言葉をつぐ友之の頬をそっとなでた。沢海が自分の目から流れた涙を拭ってくれたのだと気づいたのは、少し後になってからのことだった。 家に着いた時、まだ光一郎は帰ってきていなかった。 「 ………」 ぼとりと鞄を置いて、友之はそのまま居間の絨毯の上に座りこんだ。壁際に身体を寄りかからせて、ぼんやりとベランダに続く窓から空の色を眺めた。 大丈夫だよ。 そう言ってくれた沢海の顔はやはり優しかった。 「 拡……」 声に出して名前を呼んでみた。誰もいないしんとした空間の中で、その音は不思議な響きがしたと思った。 大丈夫なわけ、ないじゃないか。 「 ………コウ」 今度は光一郎のことを呼んで、友之は膝を抱えた。どうしてこんなに苦しいのか、自分自身で分からなくなってしまいそうだった。 夕実といた頃から、本当はずっと一緒にいたかった。 一緒に遊びに行って、一緒にいろいろな事を話して、他所の家みたいな兄弟になりたいと思っていた。 それなのに、いつもいつも遠くから眺めるだけしかできなくて。 『 コウちゃんを取らないでよ!!』 夕実はそう言って怒って泣いたけれど、自分こそ、夕実にそう言いたかった。母親を取られて、光一郎とも一緒にいられなくて。 それでいて夕実は自分を縛っていたかと思えば、簡単に捨てた。 自分は夕実のものだと思っていたのに。 「 夕実」 今度はその人の名前を呼んだ。 「 夕実…」 そうなのだ。いつもいつも。 「 夕実ぃ……」 自分の中には、この人がいて。この人に何もかも支配されていて。 「 う……うぅぅ……ッ」 友之は膝を抱えて顔をうずめたまま、押し殺すようにうめき声をあげた。叫び出したい。大声で何か言いたい。でも、言えなくて。 でも、言わなきゃいけなくて。 「 ……っ…」 友之は立ち上がっていた。その勢いのまま玄関にまで駆けて行き、靴もきちんと履かないままに、友之はドアを開けた。そうしなければいけない気がして。 しかし、その刹那―。 「 …ぅおあっ! び、びびった〜!!」 すると、開いたドアのその先には、数馬がいた。 「 いきなり開けるなよ〜。それとも、ボクが来たの分かった? 熱烈歓迎ってやつ?」 友之は思い切り意表をつかれ、目を見開いて数馬のことを見つめたが、すぐに我に返ると、そのまま相手の横を通り過ぎようとした。これには数馬も面食らって反射的にそんな友之の肩を掴んだ。 「 …って、オイオイ! どうしたわけ? 何急いでンの? 何処行くわけ?」 「 い、行かなきゃ……ッ」 「 だから。何処行くのかって訊いているンでショ! 大体、君、鍵もかけないでお出かけする気? あ、もしかしてこのボクに留守番させる気じゃないでしょうねえ。ぜってーヤだからね、そんなつまんない事」 「 は、離……っ」 「 いやだから。離してもいいけど、何処に行くのか言ってから行きなさい。君はぼんやりしているか焦っているか、ホントどっちかしかないね。フツーの時がないわけ? それともそういう時にばっかりボクが来てしまうのか?」 「 ……ゆ」 「 ん? 何? だからハッキリ言えってーの。それにしたって、そんな如何にも考えなしで行動しようとしてみたってうまくいかないよ。特に君みたいな不器用者はね」 数馬はやんわりと言いながらも、しかし友之の腕を掴む手には余計力を込めた。これは本当に行き先を言わねば離してくれないだろうというような感じであった。 「 夕実の所に……」 「 ……誰ぇ?」 聞き覚えのない名前を聞いたことで、数馬は顔を歪めた。それから更に友之のことを玄関の中へ押し込むと、ゆったりとした口調で言葉を出した。 「 君は案外ボクの知らないところでモテているようなので。ちゃんと説明してもらうよ。誰だよ、そのオンナ。拡君以外にも誰かいるわけ?」 「 そんなんじゃない!」 「 わっ、怒鳴った!? 驚き! でも新鮮!」 「 離せってば!!」 「 分かった、分かった。離してあげる。じゃ、行こうか」 「 ……?」 友之は珍しく大声をあげたことで息がぜえぜえと荒くなり、一瞬数馬の言ったことの意味がよく分からずに茫然としてしまった。 すると友之を離し、先に歩き出した数馬がくるりと振り返って楽しそうに言った。 「 一緒に行ってあげるからさ。そのユミさんの所。君だけじゃ駄目でしょ」 「 ………」 「 誰だか知らないけど、君、死にそうな顔しているし?」 そして数馬は 「 あ、でも戸締まりはして行こうよね 」 と付け足すのだった。 |
To be continued… |