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  数馬の腕をしっかと掴んだまま、まるで他人を見るような目で友之は上目遣いに姉の夕実を見やってしまった。
  違う。
  こんな態度ではいけない。
  頭の中では分かっているのに、身体が動かない。今、この数馬という盾となる人間がいなければ、自分はきっとそのまま倒れてしまうだろう。友之はどうすることもできなかった。そして、震えが止まらなかった。
「 友之、どうした?」
  真剣な目をした数馬が静かな口調でそう訊いてきた。何でもないという意味合いを込めて力強く首を横に振ったが、それもその場にいる2人を余計に緊張させるだけだった。
「 お前……」
  言いかけた数馬に、その様子を見ていた夕実が口を開いた。
「 あの…貴方は、友ちゃんの……?」
「 え? …ああ、友達です。香坂数馬っていいます。同じ野球チームに入っているもので」
  まともに受け答えをしている数馬を、友之は不思議な気持ちで見つめた。こんなにも今不安なのに、じんじんとする頭に、ふらつく身体も、彼の温かい温度が癒してくれるような気がした。
  そんな友之の姿をじっと見つめながら、夕実は無理して口の端を上げると、再び髪の毛に手をやりながら言った。
「 …正人君の草野球チームね。友ちゃんが野球を始めたってことは、コウちゃんから聞いていました。友ちゃん、昔から野球好きだったものね?」
  最後は友之に語りかけた言葉だったが、やはり友之は応えることができなかった。夕実はそれでまた翳りのある表情をしたが、努めて明るく振舞い、口調もはっきりとしたまま続けた。
「 今日は突然来てしまってごめんね。私…帰るね」
「 え? でも友之を待っていたんじゃないんですか?」
  驚く友之の代わりに、すかさず数馬が訊いた。けれど夕実は少しだけ困ったような顔をしてから小さく笑うと、首を横に振った。
「 今日はコウちゃんに話があって…。荷物とか、いつ運んできたらいいのかなとか訊こうと思ってたんだけど、帰りも遅いみたいだし、友ちゃんにも迷惑みたいだから今日は……」
「 荷物って?」
  また数馬が訊いた。彼はもう友之の方を振り返ろうとはしなかった。
  そんな数馬に対して夕実は、初対面の相手が自分たちのことを熱心に聞き出そうとしている様子を不審にも思うだろうに、努めて丁寧に答えた。
「 私、今まで2人とは別々に暮らしていたんですけど、今度ここで一緒に暮らすことになったんです。それで」
「 一緒に? 今までは何処にいたんですか?」
「 あ…それは……」
「 ああ、言いたくないことですか。それならいいです、ごめんなさい」
  早口にまくしたてるくせに、謝る時はひどく腰が低い。数馬は心底申し訳ないという顔をして頭を下げた。それで夕実も慌てたように片手を振った。
「 あ、い、いいんです、別に。あの、私、結婚の約束をしていた人がいたんですけど、フラれちゃったんです。それで」
「 ああ…そうなんですか。それなら益々ごめんなさい。俺って気のつかない奴だから、ホント不躾で」
「 本当にいいんです。それより、あの…」
「 香坂です」
  数馬はにっこり笑って夕実を見やった。夕実はつられて笑い返すと「香坂君」と言って、戸惑ったように口を開いた。
「 あの、これからも友ちゃんのことよろしくお願いします。この子、昔から恥ずかしがり屋で人見知りも激しいんですけど、とっても優しい子なんです。私、姉のくせに、それでこの子には随分甘えちゃって迷惑もかけたんですけど…」
「 へえ、そうなんですか? 全然そんな風には見えないですけど」
「 でも、一緒に暮らすようになったら、頑張って今までの分も取り返そうとは思っているんです。だから友ちゃん―」
  夕実はそそくさとリビングに戻ると自分のバッグを取り、再び玄関に戻ってくると靴を履いて、外へと出た。数馬に隠れるようにして立っている友之に少しだけ歩みよって笑顔を見せる。
「 また仲良くしてくれる…? 私、いいお姉さんになるから」
「 ………」
「 友之、お前、何か言う事ないの?」
  数馬がやや呆れたような声を出した。それでも友之は何も言うことができなかった。夕実はふっとため息をついてから、数馬にお辞儀をすると、そのまま2人の元を去って行った。
  夕実の影が完全に消え、しんとその場が静まり返ると、数馬が未だ自分の腕にしがみついたままの友之に言葉を投げかけた。
「 君の決心見たりって感じ?」
  それは冷たい口調だった。
「 ………」
「 会わなきゃいけない人を目の前にして、何を固まってんだよ」
「 ………」
「 言わなきゃいけない事があったんじゃないの? 言いたい事があったんじゃないの? 何ゼンマイの切れたロボットみたいになってンだよ」
「 ………」
「 で? まだボクにしがみついていたいの? 確かにボクは頼りになる男だけどね」
  数馬はそこで友之の手から逃れるように乱暴にその腕を払うと、はあとため息をついてから怒ったような声を出した。
「 ボクは甘えられるのが好きじゃないんだよ。それが都合のいい時だけだってのなら、尚更」
  友之は数馬に距離を取られ、キツイ言葉を浴びせられて、ようやく夢から覚めたような目をして口を開いた。
  けれど音が出ない。
  声が出ない。
  友之はそれでも懸命に不機嫌を露にしている数馬に対して言葉を出そうと試みた。

  夕実に見つめられて。

  動けなかった。金縛りにでもあったみたいに。夕実は違う誰かのようだと思った。少し会わないだけであんな風になるのか。あんな風に笑って、あんな風に自分にすまないような顔をするのか。全てが衝撃的でその状況にどう対応して良いのか判らなかったのだ。
  情けないのは分かっている。けれど。
「 ………しょうがない奴だな」
  その時、高い場所からそう言ってこちらに被さる影を感じた。友之が顔を上げると、すぐ傍には数馬がいて、心底自分を侮蔑するような目が投げかけられていた。
  それなのに、その相手は。
「 君の泣き顔って、ホント参る」
  そう言って、やや乱暴な所作ではあったが、数馬は友之の頬に自らの指を差し向けると、ぐいとこすってきた。友之が無意識にこぼしてしまった涙を、数馬は拭ってくれたのだった。
「 この数馬クンともあろう男が、君のそういう顔見ているだけで、無条件で許してやりたくなるんだからな。ある意味才能だよ。誉めてやる」
「 数馬……」
「 だからそういう声も反則だっていうの」
  数馬はそこで初めて笑ってから、ぐしゃぐしゃと友之の髪の毛をまぜっ返した。


  友之よりも先に家の中に上がりこんだ数馬は、 部屋のあちこちを無遠慮に眺め回した後、「君もちゃんと見ておきな」 などとぶっきらぼうに言った。
「 何か盗られているものとかさ。あるかもしれないでしょ」
「 何のこと…?」
  ようやくリビングに入り座り込んだ友之に、数馬はにやりと意地の悪い顔をしてみせた。
「 だってトモ君。君、夕実お姉さんが勝手にここに入っていたってことにかなり衝撃を受けていたじゃない。入ってほしくない理由があったんでしょ」
「 それは……」
「 見られたくないものがあるとか? それとも」
  数馬はようやく友之の目の前に自分も座り込むと、胡座をかいてからつっけんどんに言った。
「 単にあのお姉さんが嫌いとか」
「 ………」
「 いやあ、そんなんじゃないな」
  数馬は黙りこくる友之の心意を探ろうとするように、目の前の相手をじっと見据えてから言った。
「 完璧、恐れてる」
「 違う」
「 違う? へえ、そう言うか」
「 違う!」
「 違わないだろうが。びびって俺の背中に隠れたのはどこのどいつ?」
「 数馬には分からない…っ」
「 またその台詞かよ」
  数馬はそこで初めて気分を害したような顔をしてから、やがて両手を軽くあげてはあと肩で息をしてみせた。
「 ああ、分からない。君たちのことなんか全然分からないよ。でもさ、君も裕子さんも光一郎さんも。元々おかしな人たちだと思っていたけど、あの夕実さんって人はそれに輪をかけてヘンな人だね」
「 え……」
  数馬の突然の発言に、友之は弾かれたように顔をあげた。数馬はそんな友之にはそ知らぬ顔で、しれっと先を続ける。
「 作り物みたいだ」
「 どういう意味…?」
「 君、自分のお姉さんなのに分からない? 何処かの誰かを真似たみたいな無理した態度。あれが素なんて、そんなわけないね」
「 どうしてそんな事が言えるの…」
「 どうしてって。そう感じるんだから仕方ないじゃん。それとも、ボクの見当違いかな。元から彼女はあんな人なの?」
  友之が首を横に振ると、数馬はそんな友之をじっと見据えてからいやに真面目な声を出した。
「 君さあ……」
  しかし意外にも、数馬はその先の言葉を続けなかった。敢えて口を閉ざし、そうして「まあ、いいか」などと言葉を濁した。友之は何やら胸騒ぎがして、数馬に膝をついたまま這って近づくと「何?」と問い返した。数馬は自分と距離を近づけてきた友之に、それでもいつもの笑顔は見せず、「別に」と素っ気無く返した。
「 何…何言おうとしたの…」
「 別にって言っているじゃない」
「 教えて」
「 ……ちっ。そういう時だけ口開くんだな、君は」
  数馬はいかにも面倒だと言わんばかりの顔をしてから、実にさらりと答えをくれた。

「 お姉さんに、勝ちたいんでしょ?」

  それは、友之の中では、到底受け入れ難い答えだった。
「 何…?」
「 ただそう思っただけ」
「 意味分からない」
「 なら、ボクの考え違いだ」
「 ………」
  友之は数馬の言葉を頭の中で何度も反芻し、そして沈黙した。
  勝つとか、負けるとか。
  そんな問題ではない。夕実とは、そんな関係ではない。
  けれど。
  どうしてか、そう言った数馬の言葉が胸に引っかかる。何故だろうと思う。
「 ねえ、トモ君」
  その時、数馬が不意に友之を呼んだ。いつもの毒のある声ではない。こちらを見てくる眼差しも真摯なものだった。数馬は言った。
「 ボクはさ、助けてあげられるのかな、君を」
「 え………」
「 その為にも、ボクは君のこと、もっと知りたいんだけど」
「 ………」
  何も言わない、返さない友之に、数馬は慣れたような目を向けながら軽い口調で続けた。
「 だから。言いたくなったら教えてくれればいい。何かしてほしいなら言えよな。俺は甘えられるのは嫌いだけど―」
  数馬は言ってからすっと立ち上がった。座ったままの友之を見下ろして、いつもの不敵な笑みを見せる。
「 君と一緒にいるのは好きだから」





  数馬は小一時間ほど友之にお茶や菓子をしきりに要求し、それらを遠慮なく飲み食いし終わった後、満足したように帰って行った。その間も彼の口は実によく動き、友之に余計なことを考える余裕を与えなかった。それが友之にはとてつもなくありがたかったのだけれど。
  しかしだからこそ、数馬が去った後の一人きりの部屋はひどく広く感じた。
「 ………」
  しんとした空間の中に身を置いて、友之は何をするでもなく、窓から見える夕暮れの景色を眺めていた。
  もっとも、そうしていた時間は本当に短いものだったのだが。

  ドン。


「 ……ッ」

  不意に聞こえてきた玄関のドアを叩く音に、友之は驚いて視線を部屋の中へと戻した。一瞬、気のせいかとも思ったが、その音はその後すぐに連続で鳴り響いた。

  ドンドンドン。


  何故、インターホンを鳴らさないのか。

  友之は急激に高鳴る胸の鼓動を必死に抑えながら、そろそろと何者かがドアを叩く方向へと歩を進めた。無意識のうちに足音を立てないよう、すり足で進んでいく。

  ドンドンドンドンドン。


  連動するドアを叩く音が耳に響いた。痛い。何故かそう思いながらも、けれど友之はその向こうの相手に声をかけることができなかった。

  しかし。
「 どうして出てくれないの」
  家の住人―友之―がドアを開く前に、ドアを叩いていた人物は、前触れもなくその扉を開いた。
「 どうしてすぐに開けてくれないの、友ちゃん」
「 ………」
  動けなくなる。

  夕実が立っていた。

  真っ直ぐに友之を見つめ、先ほどと同じ姿で、夕実は目の前にいた。
「 香坂君がなかなか帰ってくれないから」
「 待ってたの…?」
  友之が何かに押されるようにうわ言のような声を出すと、夕実は目だけでそれを肯定した。
「 2人でなきゃ、話せないよね」
「 あ……」
「 友ちゃんは昔からそうだった。誰かがいたら自分の思うことちゃんと言えなかったじゃない? 私にはいつもちゃんとお話してくれるのに、それでも誰かがいると駄目。恥ずかしいんだよね」
  違う。
  心の中でそう思ったが、勿論それは音声として外に流れることはなかった。
  夕実は続けた。
「 本当に久しぶりなんだもん、友ちゃんに会うの。私はずっと会いたかったよ。ずっと話したかったんだよ。それなのに、友ちゃんはずっと私を避けていたよね。でもそれも誰かに何か言われていたんでしょ? 私には会うなって言われていたんでしょ? 誰? 正人? 修司? それとも、裕ちゃん?」
  違う、違う。
  いつもいつも誰かに会うのをやめろと言って、自分を束縛していたのは、夕実だったじゃないか。みんなは関係ない。
「 ねえ、友ちゃん」
  夕実は身体を完全に中に入れてドアを閉めると鍵をかけ、その場に石のように立ち尽くす友之に近づくと、靴を脱いですぐ近くにまで寄った。そうして友之の両手を自らの両手を差し出してぎゅっと握る。
  強く、熱く。
「 会いたかったんだよ、私は。友ちゃんに」
「 夕実……」
「 今度からはまた一緒にいよう? やっぱり私には友ちゃんがいないと駄目なんだ。友ちゃんだってそうでしょう? 私がいなきゃ友ちゃんは―」

  自分を出せない子だもの。

「 ……ッ」
  息苦しさも限界になり、友之は知らぬ間に止めていた息をはっと吐き出した。そしてどうしても逸らすことのできなかった夕実の視線から逃れるように俯き、少しだけ力を込めて、握られた手を振り解いた。
「 友ちゃん…?」
  明らかにショックを受けたような声が聞こえた。友之はそれでもそう言った夕実の顔を見ないようにして、全身を喉の奥に集中するように力を込めて、精一杯言葉を押し出した。
「 夕実と……は、暮らしたく、ない……」
「 え………」
  茫然とする声。拒絶されたことによって受けた、予想だにせぬ衝撃。
「 何言っているの、友ちゃん……」
「 夕実…勝手にいなくなって、それなのに……」
「 そ、それは! 違うよ、友ちゃん、私は―!」
「 ぼ……俺は―」
  友之はここで必死の思いで頭を上げると、精一杯の音量で言った。
  初めての、意思表示だった。

「 夕実とは、もう一緒にいない」
 
  いつもいつも。
  傍には夕実がいて。
  周囲には他に誰もいなくて。
  だけど、もう。

「 友ちゃん……そんな風に言うんだね」


  しばらくした後、夕実はぽつりとそう言った。静かな顔だった。もうそこには哀しみの色はなく、どことなく予想していたような、そんな諦めに近い色が見てとれた。
  友之が改めて顔を上げると、夕実は自嘲した笑みを浮かべて見せた。

「 そうだよね…。私はひどいよね。友ちゃんが怒るのも無理ないよ。友ちゃんが私のこと見捨てるのも無理ないよ」
  夕実はぶつぶつとつぶやくように喋っていた。目の前の友之にというよりは、独演しているような感じであった。そしてしきりに髪の毛に手をやる。
「 もういらないんだよね、私のことなんか。結局、そうなんだ。誰も私のことなんか―」
「 夕実……?」
「 友ちゃんは正人や修司と一緒に野球も始めて、あんな風に友達もできて。幸せなんだよね。そうだよね。私なんか…みんなに嫌われて、何処にも行くところなんかないのに」
「 ゆ……」
「 ねえ、だったら……」
  そして夕実は熱に浮かされたように目の色を変えると、ここで初めて鬼気迫る顔で友之に自らの視線を突き刺した。不意に体をより近づけ、そして必死の形相で友之の両肩を掴む。もの凄い力だった。
「 だったら、コウちゃんは私に返して?」
  そして夕実は言った。友之が応える前に続ける。
「 いいでしょう、友ちゃん? 友ちゃんは何でも持っているじゃない。好きなものも、友達も。それなら、コウちゃんは私に返して」
「 ……ッ」


『 コウちゃんを取らないでよ! 』


  そう言って叫んだ過去の夕実が、今の夕実とだぶって見えた。友之は完全に対処の方法を失って、されるがまま、夕実に身体を揺さぶられた。
「 いいよね、友ちゃん。私は、ここに来てもいいでしょ」
「 い……」
  嫌だ。
  その一言が出なない。

  そして夕実はすかさず言った。
「 元々……コウちゃんは私だけのお兄ちゃんなんだから」
「 ………!」
「 友ちゃんのものじゃないんだから」
「 で……」
  でも。

  光一郎は、傍にいると言ってくれた。

  けれど友之は、どうしてもその言葉を出すことができなかった。
「 コウちゃんだって私を選んでくれるよ」
  夕実の声が友之の耳にじんと響いた。心の中で光一郎を呼んだけれど、それはむなしく自分の胸の中にこだまするだけだった。



To be continued…



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