( 27 ) 「 いいでしょ、友ちゃん。私はコウちゃんと一緒にいたいの」 「 ………ッ」 友之は流れる汗を拭うことも許されなかった。自分に接近してくる夕実は、友之が必死に振り払った手を再び強引に握ってきて、顔もぐいと近づけてくると再度強い口調で言った。 「 友ちゃんが私をいらないならもういいよ。友ちゃんがそう言うならいい。どうせ友ちゃんはいろいろなものをいっぱい持っているんだものね。でも、なら私にはコウちゃんを返して」 「 ………」 「 ずっと友ちゃんは一緒にいられたじゃない。もういいでしょ」 何がいいと言うのだろう。何がもういいと言うのだろう。夕実は理不尽だ。ひどい。 そうは思っても、やはり言葉にはできなかった。 そして夕実に対し憤る一方で、ひどく悲しい気持ちもした。 あんなに自分と一緒にいろと言っていた夕実が、それを拒絶した自分の一言に、こうもあっさりと引き下がってしまうとは。自分を手放しても構わないという態度をこうもすんなり取ってくるとは。 「 夕実……」 「 何」 「 ………」 「 何、友ちゃん」 名前を呼んだきり、やはり絶句してしまった友之に、夕実はしつこく迫った。両手をきつく握り、じっと視線を合わせて弟の反応を待つ。 「 何なの、友ちゃん。言いたい事があるならはっきりしてよ」 「 あ……」 「 何、何なの。何が言いたいの。どうしていつもそうなの。どうしていつもそんな目で私を見るの!」 「 あ……あ……」 「 ずるいよ、友ちゃんはずるい!!」 夕実は遂にヒステリックに叫ぶと、どんと友之を両手で突き飛ばした。完全に身体を拘束されていた感のあった友之は、女性である夕実の一突きだけでも簡単に身体を後退させてしまった。細い通路で、しかしそれでも夕実は友之を攻撃する手を緩めなかった。 「 どうしてそうやって私ばっかり悪者にして、自分ばっかりかわいそうな顔をするのよ!? 私が何をしたっていうの? 私はずっと友ちゃんの傍にいてあげたでしょ! ずっと面倒みてあげたでしょ!」 最早夕実は友之に言っているような感じではなかった。きつい視線だけは真っ直ぐに友之に向けられていたが、上ずった声はどこか宙に浮いていて、どこに向かっているのかよく分からなかった。 「 ずっと私を避けて。ずっとそうやって閉じこもって、かわいそうな子を演じていたんでしょ。それでコウちゃんに心配してもらって、でも勘違いしないでね。そんなの、ただの同情なんだから」 「 ……え……」 「 コウちゃんの性格知っているでしょ。コウちゃんはいつもそうなんだ。弱い子には甘くなっちゃうんだ。何でも護ってあげようとしちゃうんだ」 「 ………」 その言葉で傷ついた顔をしてしまうと、それに夕実は更に苛ついたようになって、再度友之の胸をどんと叩いた。それで友之はまた足を二、三歩後退させた。 「 何でも自分一人でやっちゃおうとして、何でもできちゃうから、それで友ちゃんのことも自分が見なきゃって思って、だからだから…ッ」 夕実はぜいぜいと息を切らせながら、終いには友之の胸倉をつかむと、ぎゅうと力強く締め上げて、それから再び勢いをつけてリビングのドアの方へと無理やり押しやった。ガンと大きな音がして、友之は頭を思い切りドアのガラス戸の部分にぶつけてしまった。 「 い……ッ」 「 何よ、そんな声出して!」 友之の苦痛に歪む顔を更に忌々し気に見つめて、夕実はより一層大きな声で怒鳴った。それから友之の頬をバシンと激しく平手打ちして―。 「 ………ッ」 恐怖故に目を見開く友之に、夕実は再度同じ部分に激しい強打を加えた。 『 友ちゃんは悪い子だよ!』 そういえば昔もよく叩かれたっけ、と友之は思う。 その後夕実は必ず何回も謝って頭をなでたり足をさすったりしてくれるのだけれど。 「 どうして…ッ。どうして一緒にいたくないなんて言うの…ッ」 夕実は言いながら何度か友之のことを叩いた。 「 どうしてそんなひどい事言うの…!」 そして、いつの間にか。 ああ、やっぱり、と友之は思った。 やっぱり夕実が先に泣いてしまった。 「 友ちゃん…ひどいよ……」 「 ご…めん…」 だから、友之もやはり謝ってしまった。 「 ………」 夕実の動きが止まった。 その時―。 「 夕実」 光一郎が玄関の入口に立っていた。 「 コウ…ちゃん」 夕実がゆっくりと振り返り、茫然とした目で背後に立ち尽くしていた光一郎を見やった。それで友之もそれに誘われるように視線を遠方へと移した。 夕実の肩越しから見える、光一郎の姿。 「 お前……何やってるんだ」 「 何って……」 やや唇の端を上げ、笑顔を作ろうとして夕実は失敗した。それでも流れていた涙を慌てて拭うと、早足で友之から離れ、光一郎のもとへと向かう。 「 ねえ、ここに来てもいいでしょ」 「 お前、ここで何やってたんだ」 光一郎は夕実の問いを無視して再度訊いた。戸惑いは身体全身から感じられる。しかしそれ以上に、光一郎は何やら尋常ではない2人の様子を察して、威厳のある口調で夕実と対した。夕実は明らかにそれで怯んだ様子を見せ、困ったように俯いた。 「 何って…来ちゃいけなかった…?」 「 ……トモに何した?」 「 別に……何も……」 「 トモ」 光一郎は夕実に問うのはやめ、リビングのドア前で石のようになっている友之に視線を送った。すぐに靴を脱ぎ、そんな友之の傍に近づこうとして、しかし光一郎はそこで夕実に腕を取られた。 「 ねえ、コウちゃん。私はここに来てもいいでしょ?」 「 ………夕実、お前」 「 友ちゃんもいいって。だから」 夕実の台詞に、友之がぎくっとして顔を上げると、そこにはまた泣き出してしまいそうな姉の姿があった。縋るように光一郎を見上げ、その腕を必死に掴んでいる。 自分と同じだな、と友之は思った。 「 トモ」 その時、光一郎が不意に自分を呼んだ。 「 トモ。……お前、本当にそう言ったのか」 「 え……」 「 言ったよ、友ちゃんもいいって。だから―」 「 いいからお前は黙っていろ」 光一郎は夕実にぴしゃりとそう言い放つと、改めて友之の方を見つめ、そうして再度訊いてきた。夕実の腕をゆっくりと振り払い、そうして友之との距離も縮めていく。 「 友之」 「 ……あ」 「 ちゃんと言え」 「 ……ぃ……」 友之は再び全身にどっとあふれ出た冷たい汗と、ぼうっとする視界とでくらくらと目眩を感じていた。光一郎と夕実に見つめられ、どう言葉を出していいのか皆目分からない。 自分はきちんと夕実に言った。一緒に暮らしたくないと。もう一緒にいないと。 ちゃんと、言ったのだ。 「………っ」 でも、もう言えない。もう一度なんて、言えない。心の中で何度もそう叫ぶのだが、光一郎にはその気持ちは永遠に届かないような気がした。いつでもきちんとはっきりしないと気がすまない完璧な人だ。自分のこんな弱い心をきっと軽蔑しているに違いないと思う。 夕実の言う通り、きっと同情で自分といるだけなのだ。 「 コウちゃん。友ちゃんにそんな厳しく迫っちゃかわいそうだよ」 その時、夕実が3人の間の沈黙を破った。先刻の取り乱した様子からは大分かけ離れている。落ち着かないように髪の毛に手をやる所作は先程と同じだが、それでも随分柔らかい口調に変わっている。何故、こんなに切り替わりが早いのかと思うほどだった。 「 友ちゃんはそういうの苦手でしょ。言葉に出すの苦手でしょ。でも、さっきは私に言ってくれたよ。一緒にいてもいいって。最初はちょっと、戸惑っていたみたいだけど」 「 ………」 光一郎は夕実に背中を向けたまま、ただ友之のことを見つめていた。そんな兄の様子に不安を覚えたのだろうか、夕実が無理に作った笑顔で友之に視線を送る。 「 ね、そうだよね、友ちゃん」 「 あ……」 友之はやはり掠れた声しか返すことができなかった。 夕実は続ける。 「 3人で仲良くやろうよ。ね、そうしようよ。大体コウちゃん、私行く所ないんだよ。今更あんな家には戻りたくないよ。それは分かるってコウちゃんだって言ってくれたじゃない」 「 夕実、ちょっと黙っていろと言っただろ……」 「 だってコウちゃん…ねえ友ちゃん、さっき言ったこと、もう1回コウちゃんの前でも言ってよ」 さっき言ったこと。 友之は恐る恐る夕実の方を見やった。夕実は真っ直ぐな視線を向けてきていた。 言うはずないと思っている。瞬時に友之は悟った。 友之が自分を拒絶する言葉を二度も吐くわけがないと、夕実は確信している。 『 だって友ちゃんは私がいなきゃ―』 実際、そうなのかもしれないと友之は思ってしまう。そして自分自身、もう決して先刻の言葉を繰り返すことはないだろうと感じてしまっている。 「 ……別にいいから」 だから。 「 ……友ちゃん、ありがとうね」 「 僕は、いいから」 夕実の望み通りの言葉を紡ぐ。 「 夕実がそうしたいなら」 「 うんうん。どうもありがとうね。ごめんね、わがまま言って」 我慢できる。 「 ねえ、じゃあ私はいつ荷物持ってきたらいいかな? まだアイツの家にいろいろと置いてあるんだけど、私はいつでも出てこられるんだ。あ、いっそのこと今のバイトも辞めようかな。こっちの近くで探そうかな」 夕実の言葉が家の中でくるくると一人歩きする。それを何となく友之は聞いて、何となくそうしようとする夕実を自然に受け入れようとしていた。 別に。 別に、大した事じゃないから。 「 ……いい加減にしろ」 その時。 低く、抑えつけるような声がふっと漏れた。 光一郎の声。 「 ……コウちゃん…?」 一拍後を置いてその言葉に反応を見せた夕実は、驚きのあまり声を失っている友之とは反対に、焦ったように先を次いだ。 「 どうしたの、コウちゃん」 「 俺はごめんだ」 「 え? 何が?」 「 俺は」 光一郎は友之にも夕実にも自分の顔が見えるように身体を少しずらすと、最初に夕実を見てから、次に友之を見やった。 「 俺はお前らとなんか暮らしたくない」 「 え……?」 「 何度でも言ってやる。俺はお前らと3人で暮らすなんてごめんだ。冗談じゃない。兄弟で仲良く暮らしたいって言うなら、お前たち2人で勝手にやってろ」 「 ……ちょっと、どうしちゃったのコウちゃん」 夕実がその場を取り繕うように笑顔を見せたが、光一郎は決してそれに返したりはしなかった。口調は怒っているが、それでも表情は無機的なままで、実際のところ何を考えているのかはまったく見当がつかなった。 ただ友之の方はそう言った光一郎の言葉にただショックを受けていて。 そんな自分に、光一郎は優しい瞳を向けてはくれなくて。 「 どうもしないさ。正直に自分の思っている事を言っただけだ。悪いか」 「 こ……」 「 夕実、友之。お前らは昔から仲の良い姉弟だったから、一緒に暮らすのも別にどうってことはないだろ。でも俺は、いい加減もう限界だ」 「 どういう意味よ…」 相変わらず返すのは夕実だけだ。友之は完全に固まって、何もできずにいる。光一郎はそんな友之には一瞥すらもくれないで、今ではもう言葉を返してくる夕実にだけ視線を向けていた。 「 そういう意味だよ。お前たち、俺が何も考えない機械だとでも思っていたのか? 俺は何でも都合良く動く完璧な人間だとでも思っていたのか? ふざけるな。俺にだって嫌なこともあれば我慢できない事だってあるんだよ。ましてや―」 早口でまくしたてる光一郎。こんな兄の姿を見るのは、2人とも初めてだった。 「 自分に嘘をついて、相手にも嘘つかれて、何なんだ? 家族? 馬鹿じゃないのか、こんな家族があってたまるか!」 「 コウちゃん……」 「 夕実、お前はいつも都合が悪くなると安全な所へ逃げようとするよな。やり場がなくなるとトモに当たっていたな。いい加減、子供みたいな真似やめろ。みっともない」 「 なによ…だって、だって……」 「 ああ、確かに面倒くさいけどお前は俺の妹だよな。仕方ないから愚痴だって聞いてやったよ。別れそうな今の男の悪口も聞いてやったよな。でもな、お前、お前は1度でも俺の話を聞いたことあったか? 俺が実際何を考えているのか、考えたことあったか?」 「 …………そんなこと」 完全に押されていた。光一郎がこんなに喋り続けること自体、今までなかったことだし、いつも優しくて理解を示してくれた態度で、自分たちが困った時は手を差し伸べてくれるような存在だった。それ以上のことを考える必要などなかった。 「 物分かりのいい兄貴の役は、もうやめだ」 けれども光一郎はそう言って、そうして深くため息をついた。それからくるりと友之の方に向き直った。びくりとして友之が顔を上げると、「兄」の仮面を脱いでしまった光一郎は、ひどく冷淡な目をしてじっと「弟」であった相手のことを見下ろしていた。 「 友之、お前もだ」 「 ……光…」 「 本当はな……俺はあの時、お前の兄貴だなんて台詞は吐きたくなかったんだ。何で…俺はわざわざそんな事を言ってやらなきゃならないんだと思っていた」 「 ……!」 「 コウちゃん……」 これには夕実も絶句して思わず兄の名を呼んだ。光一郎はそんな夕実をちらと見てから、「最初に言ったのはお前だろ」と厳しく言い放った。 「 お前、トモに言ったんだってな。俺たちとトモは本当の兄姉じゃないって」 「 あ…それは……」 夕実が言い淀む隙に、光一郎は先を続けた。 「 馬鹿なこと言うな。血は繋がっているだろうが。たとえ半分でもな」 「 え…! だって―」 「 くだらない事は言うな。俺たちは一体何年一緒に暮らしてたんだ?」 「 ………」 「 でもな。そんな事は、今はどうでもいい。友之」 「 あ……」 光一郎は再び友之に向き直って言った。 「 そんなに信用できないか」 「 え……」 「 俺はそんなにお前を不安にさせているのか」 「 コウ……」 「 だったら、俺は傍にいない方がいいだろ」 「 え………」 「 コウちゃん……」 「 夕実。お前にとっても良くない。俺はいない方がいい。そうだろう? 俺自身にしてみてもそうだ。俺はもう嫌だ。お前らとは一緒に暮らしたくない」 頑なな台詞。突き放す台詞。それが、光一郎の本音。 夕実はぐっと唇を噛み、何も言えないという風に俯いた。家の中は再びしんと静まり返った。 けれど。 「 嫌だ……」 友之は、ここで初めて言葉を出せた。 はっとして夕実が顔をあげると、言った友之の方は遂に堪えていた涙をぽろぽろ落として息も絶え絶えに言葉を出していた。 「 嫌だ……コウ、約束、したのに……」 「 ………」 光一郎が黙ってそんな友之を見やっていると、友之は益々焦ったようになり、すっかり固くなっていた足を一歩前へと踏み出した。そうして、光一郎に数歩歩み寄ると、その腕にぎゅっと捕まって。 「 いるって言ったのに…。それも、嘘だった…?」 止めようと思っても涙は止まらなかった。ここで見捨てられたら。そう思うと、いてもたってもいられなかった。光一郎が初めて我を出している、その事に面食らい、戸惑いはしたが、だからといってそれをただ見やって彼が去って行くことを容認することはできないと思った。 「 嫌だ……」 もう一度言った。 すると。 「 ……夕実」 光一郎が夕実を呼んだ。そして、自分に縋る友之の身体にそっと手をやってから、光一郎は静かに言った。 「 今日は帰れ。……また連絡する」 「 ………」 「 分かったのか、どうなんだ」 光一郎が厳しい口調で言うと、夕実は少しの間だけ沈黙してからぽつりと言った。 「 ……コウちゃんは結局、トモちゃんの味方だよね」 どっと疲れが出たのだろうか、夕実がひどくしわがれたような声でそう言った。そして、友之をちらと見てからほんの少しだけ笑顔を見せる。 「 ……またね、トモちゃん」 「 ………」 友之はもう夕実を見ることはできなかった。そうして。 閉じられたドア、2人だけの空間になった途端、友之は光一郎に強く抱きついてわあわあと泣き出した。 「 ……馬鹿。そんな風に泣けるなら……」 自分の泣く声で後半はかき消されてしまっていたが、 遠くの方でそんな台詞が聞こえた。それから光一郎が自分の頭ごとぐっと抱きしめてくれたのが分かった。友之はそれで益々泣き出して、ただ光一郎に縋りつくのだった。 ただもう、そうすることしかできなくて。 |
To be continued… |