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  明け方、光一郎が身じろぐ気配を感じて友之は閉じていただけの目を開いた。
「 コウ……?」
  夕実が帰ってから今まで、友之は光一郎の傍を決して離れなかった。強くしがみつき、泣きたい分だけ泣いてしまうと落ち着きはしたが、不安は拭いきれなかった。光一郎の方は案の定困った顔をしていたし、友之にも特に何も言わなかった。だから余計離れたくないと思った。何度も眠るよう言われたが、光一郎が共にベッドに来てくれるまで友之は言う事をきかなかったし、それで嫌われたらという思いがあっても、身体はそれに見合う反応を示せなかった。結局光一郎が一緒にベッドに来て、自分の髪の毛に優しく手を差し入れ、なでてくれるまで、友之は目をつむることすらしなかった。
「 どこ行くの…?」
  友之はまだ薄暗い部屋の中から抜け出して、自分から離れてリビングへ向かおうとする光一郎の袖口を引っ張って訊いた。光一郎はそんな友之を暗がりの中、目を細めてじっと見やってから言った。
「 新聞取ってくるだけだよ」
「 ………」
「 お前、ちゃんと寝たか?」
「 ………」
「 寝てないのか」
「 寝た」
  怒られると思い、友之は嘘を吐いた。それは容易にバレてしまうようなそれだったが、それでもきっぱり答えた分、光一郎はそれ以上何も言わなかった。
  だから友之は調子に乗ることができた。
「 ここにいてよ」
  光一郎がどんな顔をするのか、どんな言葉でそう言った自分に返してくるか、それはとても怖いことだった。それでも、友之にはそう言える自分が貴重だったし、言わなければいけないと思ってもいた。
  友之は、上体を起こして既にベッドから片足を出している光一郎の腰にしがみつくと、もう一度言った。
「 行かないでよ」
「 ちょっと玄関に行くだけだろ」
「 嫌だ……」
「 ………」
  そう言って更にきつく光一郎に抱きつく友之は、後はまた目をつむって相手の動向を伺った。
  夕実を帰してくれた光一郎が嬉しかった。けれど怒ってお前たちと一緒にいるのはもうウンザリだと吐き出した光一郎が怖かった。
  怯える自分が嫌だった。
  でも、止められなかった。
「 ……お前、ホントに子供になっちゃったな」
  その時光一郎がつぶやくように言い、心底困惑したような顔を見せた。友之は目をつむっていたのでそんな光一郎の表情は読み取れなかったが、その後恐る恐る開いた視界の先には、やはり自分に対して呆れたような目をした兄の顔があった。
  鋭利な何かで胸を抉られるような感触がした。

  この人は嫌いなのだろう、こんな甘えた人間は。
  でも、止められなかった。
「 ………我慢ばかりするからだ」
  しかし、その後すぐにひどく優しい口調がおりてきて。
「 ……!」
  友之が驚いて顔を上げると、そこにはその声の通り、柔らかい微笑を携えた光一郎の顔があった。光一郎は友之を労わるような言葉を続けた。

「 それを考えると…ちょっとはマシになったのかな」
「 マシ……?」
  友之が聞き返すと、光一郎は友之の髪の毛をぐしゃぐしゃにかきまぜ、再び笑った。
「 そうだよ。マシ。まだまだ全然駄目だけどな」
「 コウ……」
「 ん……」
  光一郎が静かに返してくれたので、友之は訊きやすくなって割とすんなりと言葉を出すことができた。
「 ずっと…嫌ってた……?」
「 ……お前のことか? それとも夕実のことか?」
「 どっちも……」
「 別に」
  光一郎は即答した。
  けれどその簡潔すぎる返答は、友之の中にあった不安をより一層大きくさせた。確信があったわけではないが、友之は心のどこかで、こんな事を訊いた自分に「馬鹿なことを言うな」、「そんなわけがあるか」と言ってくれる光一郎の言葉を期待していた。
  けれども、光一郎は冷徹過ぎるほどの平然とした声で、ただ「別に」とだけ答えたのだ。

「 ………」
  何と言って返して良いか、友之には分からなかった。
「 ……そんな顔するなよ」
  すると光一郎はそう言って、自分にしがみついたままの友之の前髪を何度かいじくり回した後、露にした額にキスをおとした。
「 あ……」
「 ……めちゃくちゃに泣きやがって…」
「 コウ…?」
  低く、聞き取り難い声で光一郎がつぶやいたので、何を言ったのかと問い質そうとした瞬間、友之は深く唇を重ねられた。そして友之はいつの間にか光一郎に回していた腕を振り解かれ、自分の上に覆い被さるようにしてキスをしてきた光一郎を真正面から受け入れる形を取ってしまった。
「 ん……」
  喉の奥で声を出し、少しだけもがくように光一郎の肩に手をやると、その口付けはより激しいものになっていった。始めは宙に浮かしたり遠慮がちに触れたりしていたその手を改めて光一郎の肩先にもっていくと、そのキスはそれに応えるように、さらに追い込むように熱くなり、やがて舌まで差し込まれた。
「 んぅ…っ、ふ…っ…」
  光一郎の舌が自分の口腔内を自由に行き来していた。何度も貪られ、気が遠くなっていく。
「 ……ぅ…っ」
  このまま光一郎に自分を預けたら、何もかも投げ出して甘えたら、どんなに気持ち良くて楽だろうかと友之は思う。

  それで光一郎にしがみつく力をより一層強くした。
  けれど。
「 ………っ」
  光一郎は突然友之から離れると、荒く息をついて上体を起こした。不意に失われた感触に友之が呆然としていると、光一郎は押し殺すような声で言った。
「 最低だな……」
「 え……?」
  友之が訳も分からず、それでも焦って自分も身体を起こすと、光一郎はベッドの外側へ身体を向けたまま苛立たしげに言った。
「 何でもない」
「 何で? コウ、僕、何か怒らせた…?」
「 違うよ」
  くぐもった声は友之をより一層戸惑わせた。このまま光一郎に抱きしめてもらって、自分は光一郎のものになれればいいと思っていた。それなのに、何かに我慢ならないというように自分から離れてしまった光一郎に、友之は先ほど浮かんだ不安を再び蘇らせて、舌をもつれさせながらも必死に声を出した。
「 コウ…やっぱり嫌いだから? どうし―」
「 いいからお前、もう黙れ」
「 ………」
  キツイ言い回しで拒絶されて、友之は一瞬息が詰まった。
  けれどもそんな光一郎の背中から目が離せなかった。恐怖から目を逸らした瞬間、この人は何処かへ行ってしまうのではないかという思いに苛まれていたから。
  すると今にも崩れそうな自分に対し、光一郎はふっと息を漏らすと言葉を継いだ。
「 ……言っただろう。俺はお前の兄貴になんてなりたくなかった」
「 コウ……」
「 だから、そんな捨てられたガキみたいな声出すな」
  光一郎はひどく口悪くなって、ショックを受けたような友之に背を向けたまま搾り出すような言葉を続けた。
「 兄貴が弟にこんなキスするわけがないだろ。こんな……」
  ここで光一郎は改めてようやく振り返って友之を見やった。そこにはどんな感情が隠されているのかやはり分からない、静かな顔があるのみだったのだが。
「 本当の俺は…自分のことばっかりなんだよ。お前のことなんかどうだっていいんだ」
「 え……」
「 それなのにお前は……そんな風に無防備になって」
「 だって僕……」
「 この間お前に好きだって言われた時だってな…俺は自分がおかしくなるんじゃないかと思ったよ」
「 ………」
  光一郎はここでふっと苦笑し、それから友之に一旦触れようとしたが、ふと思いとどまったようになって手を止めた。
「 お前の好きは…違いすぎる」
「 何……?」
「 俺の気持ちと違いすぎる」
「 コウ……」
「 今のお前には分からない」
  光一郎はそう言うと、今度は止められる前にさっと立ち上がった。部屋を出て行こうとしている。友之は慌てて叫んだ。
「 嫌だよ、コウ! 行かないでよ!」
「 ………」
「 何でも言う事きく! だから、ここにいてよ!」
「 ………勘弁してくれ」
「 コウ……ッ」
「 いるから…。だからお前は心配するな。もう…言うな」
「 コウ……」
  友之が段々消え入る声で、それでも呼び続けると、光一郎はちらとだけ振り返って怒りと苛立ちを消した瞳を向けてから、静かに部屋を出て行った。
  すぐに後を追おうと思ったけれど、友之はベッドから出ることができなかった。

  学校に行く時間が近づいても、光一郎は友之を起こしにくることはなかった。ただ部屋の外から一言、「朝飯用意しておいたからな」とだけ言い残し、光一郎は友之を置いて出かけて行ってしまった。
  友之は一人部屋に閉じこもって、ベッドの中で身体を丸めて目をつむった。





  眠ったのか、それともただ目をつむっていただけなのか、曖昧な時間がカーテンを締め切った暗い部屋の中でただ友之のことを包んでいた。何も考えられない。考えたくない。そう思っているのに、けれどぼんやりとした思考の中で様々なことが交錯し、そして友之の胸を締め付けていた。
  だからかもしれない。周囲の音には、ひどく鈍感になっていて。
「 引き篭もり少年に戻ってるじゃん」
  その声を聞いても、友之は反応を返すことができなかった。
「 お兄ちゃんですよ、トモ君」
  優しい声。 お兄ちゃん?
  光一郎はそんな風に自分には言ってくれないのに。
「 だからさ、いっそのこと俺がお前の兄貴だったら良かったんだよな」
「 修……」
  ふっと開いた視界の先に、修司がいた。友之がいるベッド脇に腰を下ろし、いつもの落ち着いた瞳をくゆらせて、修司は傍にいた。
「 あ。まだお目覚めのキスしてないのに、目、覚ましちゃ駄目だろうが。眠り姫っていうのは、王子のキスで目ェ覚ますものなんだからさ」
「 馬鹿なことばっかり言ってンじゃねえ」
「 ……トモ、邪魔者も来ちゃったよ」
「 トモ。お前、いい加減起きろ」
  苦虫を噛み潰したような顔をする修司の背後には―部屋の入口でじっとこちらを見やっている中原の姿もあった。


「 吸うな」
  中原はリビングに胡座をかいて早速ジーンズの尻ポケットから煙草を出した修司に、台所から一言ドスの利いた声で言った。そんな自分は昼間からビールをたくさん買い込んでいて、きちんと片付けられているキッチンからグラスを勝手に取り出している。
  修司はそんな幼馴染の姿をつまらなそうに眺めてから、肩で軽く息を吐いた。
「 正人君、俺、吸ってないと落ち着かないんですけど」
「 じゃあ、ソワソワしてろよ」
「 ふっ。ヤな奴」
「 いいから吸うな」
「 ……はいはい」
  修司は苦笑して煙草をテーブルに置いてから、自分のすぐ傍に座った友之を見やった。それからすっかり消沈したような「弟」の顔を覗きこむようにして言葉を出す。
「 はれぼった〜。でもそういう顔も可愛いな、トモは」
「 修司」
「 ん?」
「 お前、ホントムカツク奴だな」
「 別に正人君にムカつかれても全然構わないけど」
「 その呼び方やめろ」
「 分かったよ、正人」
  修司はあっさりと、しかしひどく毒のこもった声でそう言ってから、再び友之ににっこりとした笑みを返した。
  光一郎の親友という立場は一緒であるが、実際にこの2人の関係はあまり良いものではなかった。幼い頃から光一郎を通じて交流はあるが、修司は中原の真っ直ぐすぎる性格が嫌いだったし、中原は修司のいい加減なところが嫌いだった。だからこの2人が光一郎を抜きにして会うことはそれほどなかったのだが。
「 今日はさ、最悪な事にそこで会っちゃったんだよな」
  修司が友之の思いを読み取ったようになってそう言った。中原もそれでむっとしたようになり、言葉を継ぐ。
「 だったら光一郎に文句言え。俺だって貴重な休日をお前らとなんか過ごしたくねえんだからよ」
「 んじゃ、帰れば。俺は全然構わないけど」
「 駄目だ」
「 何で」
「 お前は光一郎と違うからな。人の弱味につけこむタイプだ」
「 ああ、それって悪いことだっけ」
  修司はあっさりと返して鼻で笑ってから、すっかり蚊屋の外になっている友之を見やった。それから、何もかも見透かしたような目をしてこれも平然と言い放つ。
「 トモ。俺はさ、昨夜のコウ君を思うとかわいそうでマジ涙が出そうだったよ。でもな、俺も基本はトモ優先だから。いいんじゃないの。我がまま言いなさい。そんで、コウ君にいっぱい甘えればいいよ」
「 ………」
「 夕実に会ったんだろ? トモ、頑張ったなあ」
 修司は友之と夕実とのやりとりの場にいたわけでもないのに、まるでその場面を見ていたような言い方をした。友之がじっとそんな修司を見やっていると、中原が口を開いた。

「 夕実、何言ってきたんだ」
  ひどく真面目な顔つきだった。友之は昨日の夕実を思い出し、心の中で再び震え、口を固く結んだ。まだ、何かを話す気にはなれなかった。
「 ……あ、あと忘れてた」
  修司は友之が何も言いそうにないことを逸早く察すると、急に声色を変え、傍に置いていた鞄からB4ほどの大きさの茶封筒を取り出し、友之に渡した。
「 これ、お土産」
「 何処のだよ?」
  中原は封筒の中身を瞬時に悟ったようだったが、それ自体には然程興味が沸かないのか、ビールを飲みながらつまらなそうに訊いた。修司は「金がないので結構近場でさ」とだけ答えた。
  友之が修司から受け取った茶封筒を開けると、そこには幾枚かの写真が出てきた。修司はいつも何処かへ出かけて写真を撮ってきては、現像したものを友之にくれたが、それを貰うのは随分久しぶりのような気がした。
「 ………あ」
「 いいだろ、それ」
  夜だった。
  しかしそこには、何処からか見下ろしたような街並みの景色が、その暗闇の中でも一つ一つその存在を主張するかのような光を発していた。

「 ………」 
  そしてそれは写真のはずなのに、絵の具か何かで着色されたような、一種作り物めいたような不思議な色が浮き出ていた。

「 夕暮れ時からさ、そこに陣取って撮ったんだけど」
  修司は友之が手にしている写真をちらと見ながら笑った。
「 その丘が結構上るの大変で。あんまりそういうトコ行かないからな。でも今回は特別」
「 お前はいつも特別が多過ぎンだよ」
「 あれ、そうだっけ」
  中原の厭味を再びさらりとかわして、修司はすましていた。それから、黙ってその写真を眺め続ける友之に言った。
「 コウがさ、そこが好きだって言うから」
「 え……?」
「 行ったことあるんだろ? 家族で」
「 へえ……」
  もう何本かビールを空けてしまった中原が多少驚いたように声を出した。友之もはっとして顔を上げると、修司の方は相変わらずの柔らかい微笑を向けていた。けれどもすぐにその視線をずらすと、中原にふざけたような台詞を吐いた。
「 しかし、家族の思い出ってお前ある?」
「 あん? …ねェよ、ンなもん」
「 荒んだ家庭環境だもんね、正人君」
「 殺すぞ」
「 怖い」
  修司はちっとも怖がった様子を見せずにそう言うと、「でも俺も」などととぼけて見せて、友之に笑いかけた。しかし言葉こそなかったものの、それはどこからともなく温かい空気を友之に送ってきてくれた気がした。豪快にビールをあおる中原の存在も、いつもは何を言われるかとびくびくしてしまうはずなのに、今日はどことなく優しく感じた。
  それで友之はようやく夢から覚めたような気持ちがした。
  そして修司から貰った写真をじっと眺めるのだった。



To be continued…



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