あの時、何を考えていたのか、もう覚えていない。

『 もう、 いい加減泣くなよ! 殴るぞ!! 』
『 正人 ! 怒鳴らないで!! 』
『 うるせえなあ!  トモがいつまでも泣いているからだろ! コイツのこういうところ、イライラするんだよ!』

  中原と裕子が自分の事で言い争いをしていたが、そのことが余計に悲しくて居た堪れなくて、ただしゃくりあげて泣いた。 息ができないくらいに嗚咽がひどくて、苦しくて、どうしようもなかった。 けれど、涙を止めることができなかった。何に悲しかったのかも分からないくらいに、めちゃくちゃに泣いていた。

『 トモ』

  その時、誰かが来て自分の手を握った。それから、もの凄い勢いで引っ張られたかと思うと、黙ったままぐいぐいと自分のことを先導して歩き始めた。何が何だか分からないまま、その人の後ろ姿だけを見て歩いた。
  強く握られた手が熱を帯びていた。


『 泣くな』

 そう言われたけれど、泣き止むことができなかった。


(4)



  何ともなしに目を開くと、ぼんやりとした視界の中で薄暗い部屋の天井が見えた。
「 ん……」
  少しみじろいでから、今見た夢は何だっただろうと思う。
「 トモ」
  けれど思考を巡らす前に、自分を呼ぶ声が聞こえた。
  光一郎だった。
  友之ははっとして未だはっきりしない意識ながらも、自分が横たわるベッドの端に座る兄の姿を認めた。 いつからここにいたのだろう。ただじっとして、光一郎は友之のことを見やっているようだった。
「 気分……どうだ?」
 優しい声だった。いつもは口煩くてどこか不機嫌な感じなのに、こういう時の光一郎は何だか別人だと友之は思う。 けれどもどういう反応を返していいのか分からずに、友之はただ視線だけを光一郎に向けていた。
  光一郎は黙ったままの弟の額にそっと手を当てた。
  あ、この感触。 友之は再び瞳を閉じた。
  眠る前、ひやりと冷たいこの手がけだるい熱を全部吸い取ってくれそうで、ひどく気持ちが良かった。あれはもう遠い昔のことのような気がしたが、今もう一度この感覚を味わうと、ベッドに入ったのがつい先刻だということを思い出させてくれる。
「 ……熱いな」
  光一郎はつぶやいた後、「何か欲しい物、あるか」と聞いてきた。 友之が黙って首を振ると、光一郎は少しだけ表情を曇らせたが、やがてちらと時計を見た。
  午後6時だった。
  友之は兄のやった視線に同じように自分も目を向けてから、ああそうか兄のバイトの時間だ、とふっと思った。
「 行くの……?」
  何となく出た言葉だった。 普段は兄といるこの2人だけの空間が苦しくて、何だか肩身が狭くて、時々いたたまれなくなることすらあるのに、何故こんな心細い声を出したのだろうと、友之は心の中で密かに狼狽した。
  熱のせいで気持ちが弱くなっているのかもしれなかった。

  光一郎はもう一度、友之の、今度は紅潮した頬に手のひらを当ててから頷いた。
「 ……裕子、呼んだから」
「 え…?」
  一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「 あいつなら、お前の面倒喜んで見るだろ」
「 ……いい」
「 もう遅いよ」
  光一郎はここで初めてふっと笑んでから、 友之の髪の毛をくしゃりとなでて立ち上がった。
「 無理でも何でも、何か食って温かくして寝ていろよ。裕子、買い物してから来るって言っていたから、何か作ってくれるだろ」
「 ………」
  友之は応えなかったが、言葉を待たずに光一郎はすっと立ち上がった。それからもう一度時計を見やり、「行ってくるな」とだけ言って部屋を出て行ってしまった。
  しんと静まり返った部屋の中で、友之ははっと息を吐いた。

  裕子は、それから数分も経たないうちに現れた。

「 光一郎とそこで会ったのよ」

  裕子は言ってから、 ベッドに身体を預けている友之の顔を心配そうに覗き込み、「大丈夫?」と聞いた。 友之が頷くと、いつものにっこりとした笑みを浮かべる。
「 こういう時はね。 消化に良い栄養価の高いものを食べて、 お薬飲んで寝れば一発なんだからね。 食欲なくても食べてもらうわよっ。もうトモ君のために腕をふるっちゃう!」
「 料理…できるの?」
「 なっ! な、な〜にを言っちゃっているのかな〜友之君は〜? 料理のことならこの裕子さんに任せなさいって」
  裕子は一瞬だけたじろいでから大袈裟に腕まくりをし、台所へと向かって行った。そして「それまで大人しく寝ているのよ」と、相変わらず姉のような態度で友之に念を押した。
  姉のように。 そう、裕子はずっと友之の姉のような存在だった。
  幼い頃からずっとそうだ。 何があっても裕子は友之の側についた。それは実姉の夕実と全く変わりなかった。ただ、夕実がいた時は、夕実が友之のことを必要以上に構っていたので、裕子の影が薄かっただけなのだ。
  夕実がいなくなってからの裕子は、 まさに「夕実の代わり」のようなポジションを友之の横に確立していた。
「 もう何なのこの綺麗すぎる台所は〜! ホントにあいつは潔癖症なんだから、これじゃあ、ちょっとでも汚したら私がやったって一目瞭然じゃない!!」
  台所から裕子の素っ頓狂な声が聞こえた。
  友之はむくりと上体を起こして額のタオルを取った。 緩慢な動作で目をこすった後、意識を台所の方へ向ける。
「 げげっ。 冷蔵庫の中も…! これでこの買ってきたもの大量に放り込んでおいたら、あいつ怒るかな…?」
  裕子の独り言は続いている。友之はベッドから足を下ろし、のそりと立ち上がった。
  部屋を出て居間へ入ると、そこから通じるキッチンではまだ裕子が一人でぶつぶつと言っていた。
「 またトモ君に変な物食べさせたら殺されるかしらね…。 ん? あれ、トモ君! 起きちゃったの! もしかして私、煩かった?」
  友之が首を振ってから居間に座りこんでテレビをつけると、 裕子は両手を腰に当ててから、咎めるような声を出した。
「 なあに、トモ君、テレビなんかつけちゃって。 寝てなくていいの? 熱あるんでしょう?」
  友之が返答しないことに慣れたような目を向けながら、裕子はわざと大袈裟にため息をついて見せた。
「 まあ…ね。 もうご飯だからそれまでは起きていてもいいけど。これでまた熱が上がったりしたら、あいつに怒られるの、私なんだからね」
  友之から反応はない。 裕子は少しだけ口をとがらせたが、 どうせその表情を友之は見てくれないので、 諦めて再び夕飯作りに精を出し始めた。
  裕子が友之に出してくれたのはうどんだった。中には卵やらほうれん草やら色々な具が入っていたが、それを一つ一つ説明する裕子の顔があまりにも嬉しそうで、友之は思わずその幼馴染の顔ばかりじっと見てしまった。
「 さ、食べて食べて! 自信作だから! ふふん、光一郎兄より愛情入っているからね!」
「 ……裕子さんて」
「 え?」
  珍しく名前を呼ばれて裕子は驚いて目を見開いた。小さい頃は「裕子お姉ちゃん」とか「裕子ちゃん」とか呼んでくれていたが、中学校あたりからちっとも名前を呼んでくれなくなっていた。 時々こうして「裕子さん」と呼ぶことはあったが、本当に時々だったから、裕子は思わず顔が緩んでしまった。
「 な、何? うどん、マズイ?」
「 ………美味しい」
「 あ、ホント!? 良かったー! 一言マズイって言われたら立ち直れなかったところよ〜。ああ、ほっとした」
「 ………」
「 あ、それで何? 今、何か言おうとしたでしょ?」
「 ………」
  しかし友之は黙ってしまい、また黙々とうどんを食べる箸を動かし始めた。 裕子は不審な顔を見せつつも、それ以上聞けなくて黙ってしまった。
  その時、電話が鳴った。
「 あ……」
  裕子は反射的に立ち上がって電話の方へ向かったが、一瞬自分が取ってもいいものだろうかと友之を見やった。 以前、遊びに来た時に裕子が電話を取って、 光一郎を好きだと思われる同じ大学の女性から、ひどい詮索を受けたことがあった。
「 ね、トモ君、電話…」
「 ………」
  しかし友之は知らぬフリで立ち上がる気配すらない。そうだった、出ないのだわ、この子は…と、半ば呆れた思いでいながらも、裕子は思い切って受話器を取った。
「 はい、北川です」
  光一郎たちの姓を名乗ることに裕子は心の中で赤面した。何となく腹の辺りがくすぐったい気持ちだった。
  ただ取った電話の向こうから、 ひどくやかましい音楽ががんがんに鳴り響いてきたので、その気分は一瞬にして消え去ったのだが。
『 えーっとお。 友之君いますかあ?』
  その大音量の間を分け入るようにして、女の子の声が聞こえてきた。随分間延びしただらしない喋り方をする。 裕子の印象としてはかなり最悪だった。
「 ……どちら様ですか?」
『 ああ、アタシ〜、進藤って言います〜。友之君の友達ですう』
「 ………」
  嘘つけ、と裕子は心の中で引きつりながらまずそう思った。
  友之が「こんなタイプ」の女の子と知り合いのわけがない。 友達なぞ、もっての他だ。しかも裕子の癇に思い切り触ったのは、こちらと電話で話しているのに、その進藤と名乗った子は、電話口のところで別の誰かとも談笑しているようなのだ。けらけらとした笑い声が響いてから、声は再びこちらに戻ってきた。
『 あのお、それで友之君、いないんですかあ?』
「 ……今日ちょっと風邪を引いていまして」
『 えっ、マジで!?』
  裕子の声に電話の主は大層驚いたような声を発した。 それから、横にいるらしい誰かに「ちょっと向こう行けよ、邪魔なんだよ!」と怒鳴ってから、声はまた裕子に向けられてきた。
『 大丈夫なんですか? 熱あるんですか?』
「 はい…でもまあ、今は大分」
  ちらりと視線を友之に向けると、 友之はもう当にこちらを見ていたようだった。 目だけで「誰なの?」と訴えてきている。 裕子は受話器を手で押さえてから友之に相手の名前を告げた。
「 ねえ、トモ君。 進藤ってコ、知ってる?」
「 ………進藤?」
  友之が不可解な顔をした。 その瞬間、 裕子の中で「 このコはトモ君の知り合いではない」ということがインプットされた。 再び、受話器に向かう。
「 あの、ですから今は電話には出られませんので」
『 アタシ、お見舞いに行っていいですか?』
「 お、お見舞い?」
  …まさか今から来ると言いたいのだろうか、いやまさかそんな非常識な。 裕子は居間の窓、ベランダ越しから見える、すっかり暗くなった外を見ながら混乱した。
「 あの、お見舞いっていうほどのことでもないんで…」
『 えっ、でも心配だし! あの、友之君のお母さんですか?』
「 おかっ…!? 違います!!」
  思わずムキになって裕子は叫んでいた。 すっかり向こうのペースになっている。相手は裕子の抗議は聞いていないようだった。
『 アタシ、今日の午前中に友之君引きとめてお喋りしちゃったし…。 だからかな、熱上がっちゃったのかもしれないです、ごめんなさい』
「 え? 午前中? お喋り?」
  一体何の話なのかと疑問が湧いているところで、 不意に隣に友之が立っていることに裕子は気づいた。
「 ト、トモ君…?」
「 ……思い出した」
「 え? 何? やっぱり知っている子なの?」
  友之が頷いて、電話に出ると手を差し出した。裕子はそんな友之にすっかり翻弄されて、無意識のままに電話を渡してしまった。
「 ……もしもし」
  友之が電話に出て、何度か頷きながら「うん」とか「別に」とか言う単語を発すのを、裕子は黙って見やっていた。文章にはなっていないが、自ら電話に出て声を出す友之の姿を見るのは久しぶりだった。
「 ……裕子さん」
  そして友之が電話の相手に自分の名前を言うのを聞いて、裕子ははっと我に返った。自分と友之との間柄を説明しているのだろうか? 色々な考えがよぎりながら、けれどそもそもあのコは何なんだという気持ちが大半を占める。
  しばらくして、友之は電話を切った。
「 ねえ、トモ君の友達なの?」
  裕子が聞くと、友之は居間に戻って座ってから、黙って再びうどんに箸をつけ始めた。しかし裕子がいつまでも自分の返答を待っていると悟り、ぽつりと言葉を出した。
「 …別に違うと思う」
「 …友達じゃないの? でも、向こうはそう言ってたよ?」
「 今日知り合ったばかりだから」
「 え? そうなの? ねえ、そもそも何なの、あのコ? 何かやたらと派手そうだよ」
「 派手だった」
「 え? で、でしょ!? 何かクラブっぽいところにいた感じだし。 何でそんな子とトモ君が知り合いなの? あっ、分かった! 逆ナンされたんだ! そうでしょう!?」
  これは割とイイ線いっているなと裕子は思いながら友之に詰め寄った。友之は眉をひそめてその言葉を流したようだったが、やがて少しだけ考えるような素振りを見せてから、また小さな声で言った。
「 裕子さん……修兄のこと好きなの?」
「 え」
「 ………」
「 や、やだな、何いきなりそんな事…」
  裕子はただ焦ってしまい、 はぐらかすような笑みを向けたが、友之が真面目な顔をしているので、その先の言葉を飲み込んだ。
「 そ、そりゃあ、まあ、それなりには…」
「 ……コウとどっちが好き?」
「 !」
  友之の突然の質問に、裕子は絶句した。
  しんとした部屋の中、丼から浮き立っていた湯気も消えていた。
「 ……な、何であいつが出てくるの、トモ君」
「 ………」
  友之の視線が痛くなり、裕子は訊いた。けれど真っ直ぐな友之の瞳に何故か耐えられなくて、裕子は思わず下を向いた。
「 何で…トモ君ってそうなのかなあ…」
「 ……そう思ったから」
「 うん、そうだよね…」
  裕子は頷いてから、俯いたまま少しだけ笑った。
「 でも、あいつ……私のことなんか眼中にないしね」
「 ………」
「 昔っからそうだもん。 私のことなんか…全然」
「 修兄は?」
「 修司だって、私のことなんか何とも思ってないよ」
  裕子は荒城の名前を出されて、すぐにそう答えた。 それから「色々な子と遊んでいるみたいだしね」と言ってから、ここでようやく友之を見た。
「 でも、私には修司くらいが丁度いいの。 あんまり依存されるのも嫌だし。 お互いに好きにやれて、気楽だよ。だからかな……一応付き合っているのは」
「 ………」
  友之は裕子に不快な表情を隠さなかった。修司や裕子のような考え方は理解できないようだった。けれど直接には何も言ってこない。裕子にはそれが寂しかった。
「 軽蔑かな。トモ君、こういうの嫌いだものね」
「 別に」
  素っ気無い声。 こういうところは光一郎に似ているな、と裕子は思う。
「 でも今、もの凄く嫌な顔していたよ」
「 ………」
「 ねえ、トモ君…。 トモ君はさ…。光一郎と修司じゃ、どっちが好きなの?」
  友之はその言葉には敏感に反応した。そして先刻よりも不機嫌な、加えて明らかに困惑した表情を見せてきた。その瞳に裕子はどきんとした。
  慌てて自らの言葉をかき消す。
「 うそうそ、こんな事聞いちゃったら、私、また光一郎に怒られちゃうものね、今のはなしね!」
  その訂正で、友之はふっと息を吐いたようだった。
  裕子はそんな友之の顔をじっと見つめた。



To be continued・・・



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