(5)



  友之は2日ほど学校を休んだ。
  熱はそれほど上がらなかったが、下がることもなく、身体のだるさが消えなかった。学校は別段行きたい場所でもなかったから、何も考えずにとりあえずひたすら眠った。その間、光一郎は、バイト以外はずっと家にいて友之の看病をしていた。大学は大丈夫なのだろうかと思ったが、どうしても聞くことができなかったし、光一郎も何も言わなかったからただその好意に甘んじていた。そして裕子も大学の帰りにいちいち寄ってきては、友之の顔を覗きこみ、「大丈夫?」と聞くのだった。

  楽だけれど、窮屈だった。





「 あー! 北川君ッ!!」
  ようやく熱も引いて学校へ向かったのは、木曜日だった。
  教室に入った友之を認めて、一番に声を張り上げたのは副委員の橋本だ。
「 もう身体の方、大丈夫? 熱とか出ていたの?」
  友之が緩慢な動作で鞄を机に置いているところにさっと駆け寄って、橋本はうるさいくらいの声で聞いた。橋本はそれほど「美人」というわけではなかったが、長い髪の毛を綺麗に束ね、目元も涼やかな感じで上品な顔だちだったから、黙っていればそれなりに、いや今以上にモテるはずだった。けれど友之に向かう時の橋本は、どうもいつもガサツな感じがした。周囲のクラスメイトたちもそんな橋本に半ば苦笑しながら、「またやってるよ」とつぶやいて静観している。
「 あのね、私ちゃんとノートとか取っておいたからっ! 全然心配しなくて平気だよ! まあ、もともとそんなに進んでいないしね」
「 真貴ったら、ホント煩いんだものね。『北川君のノートは私が書く! 私が届ける』って、もう誰も邪魔しないよって言うのに」
  橋本と仲の良い女子生徒がそう言いながら友之の席に近づいてきた。橋本は少しだけ決まり悪そうに「もう、余計なこと言わないでよ!」と不平を述べた。
  それから今度は思い出したようになって、怒り口調で言った。
「 そうそう! 本当はね、私ちゃんとお見舞いも行こうと思っていたんだよ? なのに、沢海君がさあ…『友之が迷惑だろ』って止めたんだよ〜! また自分だけ北川君の親友気取りでさあ」
「 俺が何だよ」
「 わっ! いたの!!」
  急に背後から噂の人物が来たことで、橋本は思い切り面食らったようだった。
「 あ、あれ〜? 委員の用とかは〜?」
「 もう終わったよ」
  沢海はあっさりと答えてから、視線をすぐに友之の方に向けた。友之は橋本の総攻撃でいつ席に座ってよいものやらとずっと思案していたから、沢海が来てくれたことでようやく落ち着いて椅子に座ることができた。
「 友之、もう平気なのか?」
  友之が頷くと、沢海は嬉しそうに笑ってから、隣の橋本をちらりと見た。
「 こいつの汚い字が読めなかったら言えよ? こいつのノートって、この顔そのまんまだからさ」
「 ちょっと…それはどういう意味なのかしら?」
「 あははっ、沢海君、きつーい!!」
  橋本の友人は沢海の辛らつな冗談に面白そうに笑っていたが、当の橋本の方は口の端を少し上げて、やや引きつった顔をしていた。友之はそんな2人の姿を見ながら、沢海がこういった事を平気で言えるのは、この橋本だけだなとふっと思った。
  沢海という人物は、いわゆる模範的な「いい人」という感じで、友之にはもちろん、他の人たちにもいつも優しくて気を遣っている。しかしそれは裏を返せば、ただ「表面的に」うまくやっているだけなのではないかと見えないこともなかった。
  友之がまた1人、ぼんやりとそんな事を考えている間に、予鈴が鳴った。
  橋本とその友人がまず自分たちの席へ向かい、その後を沢海がついた…のだったが。 しかし沢海はふっと再び友之に振り返ると、躊躇いながらもそっと言った。
「 あのさ友之…。今日、放課後ちょっといいか? ……話、あるから」
  友之が頷く前に、沢海はそれだけを言うと、さっさと自分の席へと戻って行ってしまった。友之はそんな同級生の背中を黙って見つめた。



  別段、背伸びをして入った学校というわけでもなかったから、たかが2日の欠席で勉強の遅れを感じることは、友之にはなかった。ただ、教師が「これは昨日も言った通り―」などという言葉を出すと、少しだけ意識が削がれた。
  学校での友之には、休み時間も昼食も。ほとんどと言って良い程、橋本と沢海がくっついていた。
  だから一人になることがなかった。特に、休み明けの今日はひどいものだった。橋本も沢海もクラスの中では発言力の強い人間だからそれをどうこう言う者はいないのだが、明らかに苦笑している反応と。
  そしてそれをあまり良く思っていない人間が何人か非難の目で見ているのを、友之とて感じないわけではなかった。ただ、敢えて知らないフリをし続けた。
  そんな日の、放課後。
「 友之」
  友之のところに沢海はすぐにやってきた。けれど、朝方話があると言ったその当人は少しだけ困ったような顔で、「ちょっとだけ待っていてくれるか」とまず言った。
「 ごめんな、ちょっと職員室に用があるんだ。すぐ戻るから」
  そしてまた友之が返事をしないうちに、沢海は足早に教室を出て行ってしまった。
  そして、そんな友之のところに、次にやってきたのは橋本。
「 北川君ッ! 一緒に帰ろう!!」
  教科書等を慌てて詰め込んだのだろう、不自然に膨らんだ鞄を抱えながら、橋本はにこりと笑った。
「 ねっ! 帰ろう帰ろう!」
「 ちょっと真貴。あんた部活はどうするのよ?」
  同じクラブのクラスメイトが遠巻きにその様子を見ながら、呆れたように言ってきた。橋本の方はまるで堪えていない顔で「今日はいいじゃん」などと適当な事を言った。
「 あのね、北川君! 今日は駅前のケーキ屋さんね、一律半額セールなんだよ! すごくない!? あ、北川君、ケーキ好き!?」
「 ………」
「 私は大好きなんだけど! えへへ…だから、一緒に行かない?」
「 あんたねえ…」
  遂に同じクラブの友人が近くにまで寄ってきて、多少説教くさい感じで言葉を出してきた。
「 そんな理由で部活サボったら、あんた美加先輩に殺されるよ? 大体、アタシだってそれ行きたいって思ってたんだから」
「 え? うそ! じゃ、一緒にサボろうよ」
「 バカ」
  頭を抱えるようにして、友人は黙って首を左右に振ると、橋本の襟首を掴んだ。
「 ちょ、ちょっと本当に今日は勘弁してよ!」
「 勘弁してよはこっち。北川君だって勘弁って思ってんじゃないの」
「 う、嘘…そんな事、ないよね?」
  多少自信なげに橋本は友之の顔色を伺った。友之が口を開きかけると、そのクラスメイトは出鼻をくじくように声を大にした。
「 積極的なのはいいけどねえ。ちょっとは相手の様子とか見ながら話しなさいよね。ごめんね、北川君」
「 別に……」
「 えー、もう本当に部活―?」
  橋本はぶうぶう言いながらも、仕方なく諦めたようだった。友之に何度も「じゃあね」と言ってから、半ば引きずられるようにして、教室を出て行ってしまった。
  明るい橋本がクラスから消えると、一気に教室に沈黙が訪れたような気がした。友之はしばらく橋本が去って行った教室の入口を眺めていたが、やがて視線を窓の外へとやった。
  その時、複数の声が聞こえてきた。
「 別に、だってよ」
「 すっげえ偉そう」
  低く笑う声も聞こえたが、友之はそちらに視線を向けなかった。だからだろうか、声はよりこちらに向かってきたような気がした。
「 何か勘違いしてんじゃねえの、あいつ」
  一人が毒のこもった声で言った。クラスメイトの声ではなかった。
「 調子乗ってんじゃねえぞ」
  今度は直接脅すような、棘のある声がした。こちらもだ。同じクラスの人間ではない。クラスメイトもその中に混じってはいるようだが、どうやら友之に悪意のある発言をしているのは、違うクラスの生徒らしかった。
  別の声も言った。
「 沢海も真貴も珍しい生き物だからって、ちょっと気まぐれに相手しているだけだろ。大体、真貴の奴、何考えてんだ? 趣味悪すぎねえ?」
「 へへっ、お前真貴のこと気に入っているから、面白くないんだろ?」
  からかうような声と下品な笑い声が響いた。クラスメイトがあわせるように笑っている声も聞こえた。
  既に教室には、友之とこの会話をしている数人しかいないようだった。
  友之は尚も視線を窓の外へとやっていた。

  橋本に気があることを指摘された男子生徒が、我を張るように言葉を切った。
「 ばーか、違ぇよ。ただ、あいつモテる割に彼氏いねぇじゃん。あれ、絶対処女だぞ。一回ヤッてみたくねえ? 案外ころっといっちゃいそう」
「 結局振り向かせたいわけね」
  そう言ったのはクラスメイトの男子生徒のようだった。しかし、後は入り乱れていて、誰が何を言ったのか、友之には全く分からなかった。
「 でも沢海は? あいつと怪しくないか?」
「 あ、それ俺も思った。あいつも女いねえじゃん」
「 むかつくー。選り取りみどりのくせによ」
「 だから、真貴が本命なんだろ」
「 で、橋本も? ま、妥当な線だね」
「 え、じゃあ、あそこの奴は?」
  誰かが友之の方へまた声を投げかけた。ただこちらを見て喋ったからそう感じただけなのかもしれないが。
「 カモフラージュだろ」
  ふざけたような言い方を誰かがした。一瞬、沈黙の後。
「 ひでー!!」
  そしてゲラゲラと大勢の笑い声が響いた。
  何がおかしいのか、友之にはさっぱり判らなかった。意識が、現実から遊離しそうになっていたからかもしれない。
「 おい、聞いてんじゃねえよ!!」
  その時不意に、また声が友之の方へと向けられた。
「 おい、お前だよ、お前! 何シカトしてんだよ!」
  声だけでなく、そう言った人物が近づいてくるのが分かった。
  友之はようやく顔をそちらに向けた。知らない奴だった。こちらは何もしていないというのに、これでもかという程の目つきで睨みつけ、威嚇するような仕草をする。友之はぼんやりとそんな相手を見やった。
「 てめえ、なめてんのかよ。さっきから俺らの話無断で聞いてたんだろうが。あ?」
「 ………」
  相手が自分にどんな言葉を望んでいるのか分からなかったので、友之は黙っていた。するとその刹那、思い切り胸倉を掴まれて無理やり立たされた。相手はがたいがあり、力も強そうだった。
「 沢海の奴に守られてるからって調子乗ってんじゃねえのか…?」
「 おい、そこらでやめとけって」
  苦笑しながら友之のクラスメイトが言った。面倒なことは嫌だという感じだった。それでも手を出した事に友之があまりにも無反応なため、相手はより一層引けなくなって、更に怒りを露にして友之を脅しにかかった。
「 おい! てめえ、口きけねえのかよ! びびってんじゃねえぞ!!」
「 坂本、やめとけって」
  この人は坂本というのか、と友之は何となく思った。
  その時だった。
「 おい、何してるんだ!?」
  沢海だった。
  教室の入口からその声は凛として辺りに響いた。威厳のある強い声で、それは決して大きなそれではなかったのに、そこにいた全員がはっとして動きを止めた。
「 友之から離れろ」
  そうしてつかつかと教室に入ってきた沢海は、坂本と呼ばれた男の、友之を掴む手首を思い切り掴んだ。それによって友之は束縛から解放された。
「 何だ、てめえ!」
「 それはこっちの台詞だ。出て行け」
  いやに陰のこもった声で沢海は言った。それを言われた坂本よりも、その場にいたクラスメイトたちの方が驚いているようだった。沢海は温和でいつも優しく笑んでいるような奴だったから、ひどく怒っているその様子に面食らったのだろう。
「 やんのか、優等生? 面白ェ、やって―」
  言いかけて、坂本という生徒は黙った。掴まれた手首を強く締め付けられて、声が出なくなってしまったのだ。
「 て、離…っ!」
「 今後、友之には近づくな。いいな」
「 離せ、この…っ!」
「 いいな」
「 い、痛ぇっ!!」
  相手の方が幾らか背が高い。見た目も強そうだというのに、ただ腕をひねられただけで、力の面では格下だと見くびっていた沢海にすっかり萎縮してしまっている。そしてその男子生徒は、あっという間に降伏することになってしまった。
  すっかり白けたムードの中、教室にいた男子たちがぞろぞろと出て行く。沢海はその中の、自分たちと同じクラスの者だけを名指しして呼び止めると、「お前らも分かってるんだろうな」と半ば脅しのように言った。同級生たちは素直に頷いたが、去り際、一人が振り返ってきて思い切ったように言った。
「 拡。確かに俺も坂本はやりすぎだと思うよ。思うけど、やられる北川の方にだって責任はあると思うぜ。こいつ見ているとイラつくって奴、俺たちだけじゃな―」
「 もうお前とは無関係だ。明日から話しかけるな」
  最後まで喋らせないで沢海はそう言った。びくっとしたようになって、クラスメイトはすごすごと去って行った。
  2人だけになって、一気に教室は静まり返った。
  掴まれた制服の乱れを直していると、沢海はぱっと向き直っていつもの声を出した。
「 友之、大丈夫だったか!? 俺が来るまで、何かされなかったか!? どこか怪我とかしてないか!?」
  矢継ぎ早だった。どう答えていいか分からなくて、友之はただ首を横に振った。沢海はそれでも友之の反応にほっとしたようになって、次にひどく苦痛な顔をしてみせた。
「 …ごめんな。俺が待っていてくれなんて言ったから、お前に嫌な思いさせた。本当、ごめん」
「 話って…?」
「 え…あ、ああ……」
  もう今更どうでもいいかのような顔を、沢海はしていた。今の出来事に、友之よりも余程ショックを受けているようだった。
  中学の時もそうだった。彼はこうやって友之がいじめられているのを見ると、なりふり構わずかばってきては、クラスメイトだろうが教師だろうが、非があると思った人間を全て敵に回して、友之のことを守ろうとした。沢海が「強い」位置にいる人間だということは同級生の誰もが認めていたから、そういうことをしたからと言って、今度は彼が友之に代わっていじめられる、ということには成り得なかったが、陰で密かに疎まれるようになったのは間違いがなかった。何でも持っていて真っ直ぐな沢海拡という人間が煩わしいと思う者は、彼に好意を抱く者より、もしかして多かったかもしれない。
  友之は途中で学校へ行かなくなったから、その後あのクラスがどうなったのかは分からなかったが、沢海が誰もが認める優等生なのに、教師に疎まれてレベルの高い公立を受験することができなかったのは、どう考えても自分のせいだと友之は思っていた。
  ただ私立でも、何故沢海のような人間が自分と同程度の高校に入学してきたのかは、友之には分からなかったが。彼は「ここより上は全部落ちたんだ」などと、別段悔しそうでもない顔で言っていたが。

「 あ、あのさ…」
  沢海が何か言おうとしている。友之は真っ直ぐに相手の顔を見た。本当はお礼が言いたかったのに、もう完全にそれを言うタイミングは失っていた。だから代わりにしっかりと意識を向けた。
「 俺……俺、友之のことさ……」


「 あー、やっと見つけたよ」


  しかしその時、沢海の言葉と見事に被って、いかにも能天気な声が聞こえてきた。
  よく通る声。不敵な声。

「 ちょっと、一体何してたわけ? このボクをずっと待たせるなんて君も随分出世したもんだね。校門の所でバカみたいに突っ立っていたら、ハンパなく逆ナンされちゃったんだけど。この学校のオンナノコたちは積極的だね」
  教室の入口に目をやった。別に確認などしなくても、誰かなどその声を聞けばすぐに分かるのだが。沢海も戸惑ったようになって、いきなり現れた見知らぬ高校生を黙って見つめた。
「 まあ、もっともボクのこの制服が『イケメン高校生がいる学校ベスト3』のうちの堂々1位に輝いているからってのもあると思うけど。ははっ、イケメンなんて言葉笑っちゃうけど、使ってみた。この前雑誌に載っていたから」
  確かに、この辺りでも彼の通う高校は有名進学校として名を馳せている学校だった。毎年約8割が有名一流大学に進学していると、この目の前の当人が何度も自慢していた。
「 あ、でも勘違いしないように。いくら偏差値高いガッコに行っていたって、顔が良くなきゃ女の子だって寄ってこないでしょ? ボクの場合、その両方を兼ね備えているからね、苦労しちゃうよ」
  そして、その「イケメン」高校生は、そこの人もさ、といきなり沢海を見て言った。
「 結構イイ線いっているけど、この学校じゃね。ちょっと惜しかったね」
「 …な、何なんだ?」
  当然の質問だった。免疫がない人間には、このテンションはキツイ。
  この、無敵の高校生・香坂数馬の相手をするのは。
  数馬は沢海の質問に指で顔をかきながらうーんなどと考える素振りだけしてから、軽く言った。
「 何って。まあ、そこのお姫様を迎えに来たんだけど?」
  そして彼は友之のことを見て、にやりと笑った。



To be continued・・・



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