(7) ゲームは案の定、2回の表に突入していた。 「ああ、何だ。案外客入っていないんだね」 三塁ベース寄りの前から30列ほどの席に腰かけると、数馬は遠方のスコアボードを眺めてつぶやくように言った。 「最近、視聴率も悪いらしいからね。あ、トモ君はセリーグだとどこのファンだっけ?」 「……カープ」 「あ、そうだっけ? じゃあ僕とは敵同士だね」 数馬は言ってから、「何か買ってくるからさ」と言ってすぐに売店の方へ行ってしまった。 一人、席に残されて、友之はぼんやりとグラウンドを見やった。 野球場が好きだった。 周りの雑然とした空気も好きだ。友之は本来、人が大勢いるような所は苦手だけれど、球場は違った。皆、一心にグラウンドへ視線を向け、そうして白球の動き一つ一つに一喜一憂している。そんな雰囲気の中に自身を埋没させるとホッとした。 元々、兄の光一郎や中原らが小さい時分からグローブとバットを持って、近くの空き地などで毎日のように遊んでいたから、友之の野球好きもそういった環境に影響を受けている部分は大きかっただろう。あまり仲間には入れてもらえなかったが、それでも、彼らがプレイしているところを見ているだけでも、友之には嬉しいことだったような気がする。 『私は、野球なんか大っ嫌い』 ただ、姉の夕実は違った。 友之が野球をやりたがったから時々は仕方なく「仲間に入れてくれ」というような事も言ってくれたとは思うが、本当のところの彼女は彼らと大勢で遊ぶよりも、友之や裕子と3人だけで遊ぶ方を好んでいたようだった。また、日曜日などに光一郎たちのチームが試合をするので応援に行こうと母などが言っても、夕実は家にいたがり、友之の手をぎゅっと握っていつも同じように言った。 『私たちは行かないよ。お母さんたちだけで行けば』 そうして家の中で2人だけになると、夕実は友之を抱きしめるようにしてから、決まって泣きそうな声を出した。 『お母さんたちはコウ君だけが可愛いんだよ。私たちを置いて行くじゃない』 夕実が自分から家にいると言ったくせにおかしな話だと、そう友之が思うようになったのはごく最近になってからだ。 友之は、夕実のこういった言動をほとんど忘れていた。 徐々に思い出すようになってきたのは、夕実が家を出てから間もなくの事だった。パズルのピースを一つ一つはめ込んでいくように、友之は過去の姉との出来事を反芻していった。それは明瞭に思い出せることもあれば、ぼんやりと微かに脳裏に浮かぶだけのものもあった。 「あ、また違う世界にタイムトリップ」 その声に友之がふと顔を上げると、横に数馬が立っていて、探るような眼でこちらを見ているのが視界に映った。手にしていた2つの紙袋のうち1つをぽんと友之に差し出してから、数馬は隣の席に腰を下ろした。 「何がいいか分からなかったからさ。適当に選んだんだけど。嫌だったら自分で何か買ってきなよ」 ホットドッグとナゲット、それにコーラだった。 「お金は…」 「ああいいよ、それくらい。セットだから安いし」 数馬は友之の方を見ないでそう言った。だから友之は数馬のことを正視することができた。 「払う」 珍しくそうはっきりと言えた友之に、数馬はふっと鼻で笑ってから、ようやく視線を向けてきた。 「何? 君はボクには借りを作りたくないわけだ」 そうして視線を再びゲームの方に向け、「いいから、気にするなよ」と低い声で言った。何だか脅しみたいだと友之は思った。 これ以上何を言っても事態は悪くなるだけのような気がしたから、友之は黙って紙袋を見つめた後、コーラを取り出して一口飲んだ。数馬はそれを横目でちらと見てから薄く笑った。 回が進むにつれ、人の入りは徐々に増してきたが、それも5回くらいまで行くとさすがになくなり、場内はやや落ち着いた空気に包まれた。 幸い、友之たちの両隣に客はいなかった。数馬は背も大きいせいか、窮屈そうにしていたが、それなりにゲームに夢中になっている様子ではあった。 そんな数馬が再び友之に意識を向けてきたのは、球場整備の時間が入り、チアガールたちが一斉にグラウンドに入ってきた時だ。 「ボクね、投手戦が好きなんだ」 数馬の言葉を意外な思いで聞いた友之は、不思議そうな顔を向けて相手の次の言葉を待った。 「そりゃ、派手な打撃戦も楽しいけど。ゲームが締まるでしょ、ピッチャーがいいと。空気がこう、ピンと張り詰めた感じになってさ。そうなると自然に守っている方も打つ方もみんな集中力が高まるから、より一層空気が澄んでいくじゃん。その点では、今日の試合は…まあまあかな」 「………」 「これって野球に限らないけど。ギリギリの緊張っていいよ。この線を越えたら駄目だ、だから息も吸わないでぐっとこらえている、みたいなラインのところにいるの。そういうのって、退屈しなくていいでしょ」 「………」 「トモ君には分からないか、こんな話しても」 数馬は自重したようにそう言ってから、「あ、でもさ」と急に口調を変えて言った。 「光一郎さんがピッチャーをやっちゃうとさ、緊張も何もあったもんじゃないよね。安心しきっちゃって退屈」 数馬はそう言って面白そうに笑った。 「だから中原先輩、光一郎さんにはあんまり投げさせないんでしょう? でもあの人元々ピッチャーやっていたって聞いたことあるよ」 「………」 友之は光一郎の本来のポジションなど分からなかったから、何とも答えられなかった。元々光一郎は中原のチームに入っているとは言っても殆ど助っ人的立場で、練習にも全く出てこない。学業とアルバイトと家のことと。光一郎はやらねばならないことを幾つも抱えていたから。 数馬は続けた。 「天才ってあの人みたいな人間のことを言うんだろうね」 そういう台詞は他の人間からも聞いたことがあるから、友之は慣れたようにその言葉を耳に入れていた。みんな、そうやって光一郎のことを感心したり尊敬したり嫉妬したりするのだ。 「でも、あの人って何も持ってないよね」 「………え?」 思わずどきっとして、友之は数馬のことを見やった。数馬は相変わらずの薄い微笑のまま、友之のことを見据えていた。 「頭はいいし、顔はいいし、スタイル良いし? あ、ここまではボクと同じじゃん。でもさ、あの人は人から性格もいいって言われるでしょう? それはボクと違うなあ。優しいとか。気が利くとか。礼儀正しいとか。これでもかってほど誉められているじゃない、あの人」 でもさ、と数馬は言ってから毒のこもった言い方で締めくくった。 「でも、あの人は何も持ってない」 「どういう…意味?」 「さあね」 数馬はそう言ってとぼけてから、ようやく再開されたゲームに目を向け始めた。 けれど、友之はそこで話を終わらせたくなかった。 「どういう意味?」 しつこく聞いた。数馬は答えない。友之はしばし逡巡した後、相手を呼んだ。 「数馬」 数馬は友之を見た。 無機的な、何をも捉えさせないといった表情だった。数馬は自分を呼んだ友之をしばし見つめた後、静かに聞いた。 「聞くけどさ、実際友之はあの人のことどう思ってんの?」 「あの人…?」 「馬鹿、光一郎さんのことだよ」 数馬は心底呆れたというように言い捨ててから、やや上体を揺らし、組んでいた足を逆に組替えた。 「ああいう人が近くにいてうっとおしくないの? 何でもできる兄貴、お説教くさい兄貴。非の打ち所がなくて、完璧な人。多分あの人がやることは全部正しくて、もし君があの人の意に添わないようなことをしたのなら、それは君の方が間違っているって世間からは見なされる。……僕だったら耐えられないね、あんな人と2人で暮らすなんて」 数馬は堰を切ったようにそう話し出し、友之の返答を待たずに続けた。 「光一郎さんは随分君のこと気にしているようだけど、それだって完璧な兄貴を演じるためにやっているだけでしょ?」 友之がずっと思っていたことを、数馬は簡単に口にした。 数馬は友之の表情の変化には気づかずに先を続けた。 「君だってそう感じていたから、あの人にああ素っ気ないわけでしょ? いや、ついこの間まで、ボクは君があの人のこと嫌っているって思っていたんだけど」 思っていたというのは何だろう。今はどうなんだろうと友之はぼんやりと思う。数馬はすぐにその疑問の答えをくれた。 「でもさ、それは違うって中原先輩が言うから」 「え……」 友之の掠れたような声に反応して、数馬は冷たい眼で言った。 「この間さ。『アラキ』にまで来たでしょう、光一郎さん。自分はバイトで試合には来られなかったのに、それでも迎えにだけは来たじゃん。わざわざ君のためだけに来るか、フツー? ボクは君があの人のこと嫌っているって思っていたから、半ば君への同情もこめて、『あんなことしたら君がうっとおしいんじゃないか』って言ったんだよ。そしたら、中原先輩に怒られてさ」 「何で…?」 「そんなのこっちが聞きたいよ。でも先輩が言うには、君は光一郎さんのことがすごく好きで、だからああいう態度なんだって」 「……そんなの」 「違うって言えるの? どうなの、本当のところ? あの人のこと、好きなの嫌いなの?」 やや責めるように聞く数馬に、友之はただ戸惑った顔を見せた。実際何と言ってよいのか分からなかった。数馬はそんな友之を察したのだろうか、急に静かになると声も沈めた。 「……ああ、何かボクにとってはどうでもいいことなのに、ごめんね、色々聞いて。でもさ、不自然な兄弟だと思ってね」 「………」 「昔っからそうなの? あの人、小さい頃から君にああ過保護だったの?」 「……違う」 光一郎と共有した過去など、友之には殆ど持ち得ない。 いつもいつも、友之には夕実がいた。 「でもさ、実際実家が近くにあるっていうのに、何でわざわざ2人で暮らす必要があるわけ? 兄弟が2人だと、そういう風に絆が強くなるものなの?」 「……2人じゃない」 友之は言った。数馬は意表をつかれたようだった。 「は? 何、2人じゃないの? 他にも兄弟いたの? 知らなかった」 実際のところ、数馬はどこまで知っているのだろうと思いながら、友之は鋭い同級生と目を合わせたくなくて、下を向いた。もうゲームの行方など訳が分からなくなっていた。 「チームに入ってないってことは女なんだろうね。お姉さん? 妹?」 「……姉さん」 「あ、そう。へえ、ホント。それは知らなかった」 数馬は何故だか明るい声を出して言った。 「あ、言っておくけどね、中原先輩ってちゃらんぽらんな人だけど、相手が話してほしくないって思っていることは絶対言わないよ。だからね、ボクは君の家の事情なんか全然知らないんだよね。ライさんとかマスターも教えてくれないしさ。安心した?」 「別に…」 「別に話しても構わないことなら、そうやって話せばいいんだよ。だんまりしていると何かあるのかって思っちゃうよ?」 「何かって…?」 弾かれたように顔を上げた友之に、数馬は怪訝な顔をしつつも言った。 「何かは何かだよ。だって傍から見ていると変だからさ。お母さんが病気で死んじゃったことがショックだったとしても、いきなりトウコウキョヒしている引き篭もりの少年に、やたらと過保護な完璧お兄さん。それが2人でくらーく一緒に暮らしているなんて、何かあるのかと思っちゃうじゃん」 「………ないよ、何も」 「じゃあ、君が根暗なのは地なんだね」 数馬はあっさりと切って捨ててから、あははと笑った。 「それでお姉さんって今どこにいるの? 実家にいるの? それとも結婚しちゃったとか? 全然姿を見ないね」 「知らない」 「は? 知らないの? ……ふーん。まあ、全然話さない姉弟とかいても珍しくないしね。じゃあ、お姉さんの方は光一郎兄さんと逆で、君に対しては放任主義だったんだね」 「………」 『いいよね、友ちゃん。私とずっと一緒にいよ』 夕実はそうやっていつも友之と一緒にいたがった。 『私だけだよ。友ちゃんの味方は』 何度も何度もそう言って自分を抱きしめてきた。息苦しいほどだった。 そして友之の味方は自分だけだと繰り返した。 『でも、友ちゃんってさあ……』 「友君、どうかした?」 数馬が不思議そうに聞いてきた。 はっと我に返ると、横には数馬がいて。辺りは相変わらずの騒々しさで。 「………っ」 はあと息をつくと、数馬はそんな友之を見て途端に真面目な顔になった。 「……気分でも悪いの? 真っ青だけど」 「大、丈夫……」 「そうは見えない」 数馬は言って友之の額に手を当てようとした。反射的に友之はその手を払って立ち上がった。 「友之…?」 驚いて聞き返す数馬に、友之はもう背中を向けていた。 「帰る……」 「……は?」 数馬の聞き返す声が聞こえたけれど、友之はただもう足を前へと動かしていた。急に冷たい汗が出て来た。動悸も激しく、目眩もする。ぐらりと視界が揺らぐのが分かった。 「友之!」 すると足元が定まらない友之を後ろから支えるようにして、数馬が背後から身体を抑えてきた。 「は、離…っ!」 「馬鹿、何かしようってわけじゃないだろ」 厳しく数馬は言って、それからきつく友之の手首を掴むと今度は前を歩き始めた。 「送っていってやるって言ってんだよ。帰りに倒れられでもしたら、俺が殺されるっていうの」 有無を言わせぬその態度に、友之は何も言えなかった。 数馬は友之を握る手の力を緩めようとはしなかった。 アパートの前まで来て、数馬はとんと友之の背中を押した。 「じゃあね。ボクはここで帰るから」 まさか中へ入れろなんて言わないよ、と数馬は明るく笑って言った。 「もう平気? 気持ち悪いの、直った?」 珍しく優しくそう聞いてきた数馬に、友之も素直に頷いた。電車の中でも気を遣ってくれているような数馬の態度に、さすがに感謝する気持ちがあった。 「あの……」 「何?」 だから、去ろうとしている数馬を呼び止めて、友之はやや戸惑いながらも必死に声を出した。 「今日、ありがと…」 「………」 友之のお礼が珍しかったのか、意表をつかれたような数馬は、しばし振り返った姿勢のまま動きを止めていた。それから、ふんと笑ってから友之に近づくと言った。 「君、ちゃんと話せるじゃない」 それから、何の前触れもなくいきなり友之の腕をぐいと引っ張ると、数馬は自らの顔を友之のそれに近づけて。 「そういうのは好きだよ」 そう言って、キスをしてきた。 「………っ!」 唇同士がほんの僅かに触れただけだったが、友之は驚いて身体を後退させた。数馬は相変わらず涼しい顔をしており、強張る友之には構わずに踵を返した。 そうしてしばらく進んだ後、ちらと振り返ってから、いつもの毒のある笑みで言った。 「バイバイ、トモ君。またデートしようね」 触れられた唇を手で拭って、友之は同級生の後ろ姿をただ見送った。 電気も点けずに部屋に入ると、友之はテーブルの前でへたりと座りこみ、しばしその場で放心した。 しばらくして、ふと暗闇に浮かぶ白いメモ用紙に気がつき、友之は何かに誘われるようにそれを掴み、明かりを求めてテレビのリモコンに手を伸ばした。スイッチを押すと、途端に部屋は騒がしくなった。同時にほのかに照らされた光の中で、友之は兄の筆跡を目にとめた。 友之が夕食を摂っていなかった時に備えて、何か作っていってくれたらしい。恐らく、指示があるレンジの中には、友之の好きな物が用意されているに違いなかった。 「………」 光一郎はバイトだから、帰りはまだ先だ。 友之はメモを握りしめると、そのまま膝を抱えて項垂れた。 「………コウ」 そっと呼んでみた。本人の前で呼ぶことはあまりない。呼んで振り返る人ではないと、夕実は言っていた。だから今まで自分から求めたことはなかった。 いつもいつも。呼ぶのは、光一郎の方だった。 「………コウ」 また呼んでみた。呼んだら、あの人は帰ってきてくれるのだろうか。ぼんやりとそんな事を思いながら、やはり同時に夕実の顔が浮かんだ。 ひどく心細い気持ちがした。 |
To be continued… |