(9)



  沢海が友之に最初に声をかけてきたのは、いつくらいだったろうか。
「 せっかく同じクラスになれたのにさ。あんまり喋ったことないよな」
  そう言って彼が初めて近づいてきたのは、中学3年になったばかりの昼休み、友之が図書室にいた時だった。喧騒とした雰囲気の教室が嫌いで、友之はよく静かなその場所を唯一の逃げ場所にしていた。そこにいれば、口を閉じていても何も言われない。誰にも干渉されない。だから、気に入っていた。別に本が好きだったわけではなかった。
「 北川って、本好きなんだ?」
  隣に腰掛けられて沢海にそう訊かれた時、だから友之は何と答えてよいか分からずに沈黙してしまった。実際、クラスの、いや学年の中心的人物が何故自分のような人間に声をかけてくるのかが分からなかった。
「 俺も結構読むけどさ。どういうのが好き?」
「 ……別に」
  特に好きじゃない、というつもりだったが、声が掠れた。
「 どんなのでも読むってこと? へえ、すごいじゃん」
「 ………」
  こうなるともう何も言えなかった。かといってどんな顔をしていいのかも分からなかったから、無表情のまま相手のことを見つめた。
  すると、容姿端麗の優等生は困ったような顔をして友之から目を逸らした。
「 あ、ごめん。うるさかったよな。ごめんな、邪魔して……」
  沢海はそう言ってから、けれどもぐっと思い切ったように顔を上げると、いやに真っ直ぐな視線で友之を見据えてきた。
「 でも、俺さ……どうしても北川と喋ってみたくて」
  好奇心だろうか。
  何となくそんな考えが頭に浮かんで、友之はそう思った自分が嫌になった。
  傍から見るこの沢海拡は、どこをとってみても非のうちどころのない、素晴らしい人間のようだった。優秀だからとかスポーツ万能だからとか、そういう面だけでなく、誰にでも優しくて、明るくて、面倒見が良くて。身近に兄のような存在がいたから、友之も今更「天は二物を与えず」などという諺を真に受けるほど愚かではなかったが、それにしても沢海の不機嫌な顔とか怒った顔とかいった、いわゆる「負」の面を見た事は1度もなかった。だから友之はある意味、沢海のことを兄よりも「人間っぽくない」人間だと思っているところがあった。
「 俺、北川と同じクラスになれてすごく嬉しかったんだ。俺、前からお前のこと知っていたし……」
  沢海がそう言った言葉を、友之は何となく耳に入れた。



  今にして思うと、何故沢海が以前から自分のことを知っているのか、友之は本人に確かめようともしなかった。不登校だった中学3年次はもちろんのこと、それ以前の1、2年の記憶にしても、派手な事柄など一切ない。目立たない何も持たない友之を、何故沢海が同じクラスになる前から知っていたのか。考えてみると不思議な話だと思った。
「 どうした、友之? また何か考えこんじゃってさ」
  沢海が隣の席から小さな声でそう話しかけてきた。
  4時限目の地理の授業だった。いつもは板書ばかりの担当教諭が、今日は何を思ったのか「どこか違う場所で自学自習にでもするか」と言い出し、全員、図書室へと移動したのだ。
  友之たちの高校の図書室は、比較的広く、設備の整った所だった。そこでの思いもかけない「自由時間」に、まともに本を読んでいる者も何人かはいたが、大体の者は窓際の大テーブル沿いの席でくつろいだり、本棚の周囲をうろうろして雑談したりと、好き勝手なことをしていた。
  友之は適当に持ってきた外国の写真集を傍に置いて、クラスメイトとは少し離れた位置の端の席に座った。その席の唯一の隣は橋本がさっさとやってきて「じゃあ、私ここに座ろう」などと言っていたのだが、彼女が本を探しに行くと言って消えた隙に、沢海がすっとその席にやってきたのだった。
  そして、先の台詞を投げかけてきたのだ。
「 な、友之。お前、やっぱり昨日何かあったのか…?」
  沢海はどうしても気になるらしく、友之にそう訊いてきた。
「 ごめんな。お前が色々訊かれるの嫌いなの知っているけど…。けど俺、自分が気になったことって、どうしても訊かずにはおれなくてさ」
「 ……別にないよ」
「 …そうか」
  自分の横に座る沢海の顔は、どことなく落ち込んでいるような感じだった。友之はまじまじとそんな友人の顔を見やり、ふっとあの時初めて自分に話しかけてきた気さくな沢海の顔を思い浮かべた。
「 友之」
  友之が自分を見ていることにも気づかずに、沢海が呼んだ。
「 ……今日、放課後、用あるか?」
「 え……」
「 もしお前さえ良かったら―」
「 ちょっと、沢海君!」
  その時橋本が戻ってきて、思い切りむっとしたような顔をして声を荒げてきた。司書教諭がじろりと見やってきたので慌てて口を抑えたものの、すぐに不機嫌な顔に戻して小声で沢海に抗議する。
「 そこ、私が取った席! はい、どいて!」
「 席なんか別に決まってないだろ」
  珍しく気分を害したように沢海が言った。しかし橋本は全く動じない。
「 だめ! そこは私の! ほら、ノートだって置いてあるでしょ!」
「 うるさいなあ、お前は」
  沢海は迷惑そうな顔をしてから、それでも仕方なさそうに席を譲った。立ち上がって、すぐ目の前にある小さな本棚に寄りかかって腕を組む。閲覧用の大きいテーブルはこの本棚によって仕切られており、その向こう側は、あまり本を読みたくない生徒で占められているのか、割とざわついていた。沢海はそちらに背を向けたまま、「お前はあっちに行けば?」などと暗に反対側のテーブルを指し示した。
  しかしそれに対し、橋本も憮然とする。

「 冗談でしょ。私は北川君とこっちで真面目に本を読むの。ほら、里美だって上田君だって、真面目タイプはみんなこっち側にいるでしょ。沢海君もね、仮にも委員長なんだったら、北川君構ってないで、本でも探してきなさいよ」
「 分かったよ」
  沢海は軽くため息をついたまま、諦めたように友之たちの場所から離れて行った。背の高い本棚が幾つも並んでいる書庫の方へと消えていく。その後ろ姿を友之が黙って眺めていると、橋本がぼそりと言ってきた。
「 ね、北川君。あいつ、昔からあんななの?」
「 あんなって…?」
  橋本の質問の意味がよく分からなくて、友之は訊き返した。
「 えっと。何ていうか、北川君にべったりというか。猫かわいがりしているというか。あっ、何かこの言い方、北川君は嫌だよね! でもね、うちのクラスの女子とか、あいつのこと好きな違うクラスの子とかも結構言うんだよね」
「 何て」
「 え、それはまあそのう……」
  橋本は途端に言いにくそうになってから、何を思ったのか突然ノートを開き、そのページの隅にこそこそと小さな文字を書いた。そして、やや逡巡した後、そのノートをこっそりと友之の方に差し出した。
  そこには、かなり乱雑な字でこう殴り書きがされていた。

  沢海君って北川君のこと好きなんじゃないかって。

「 ………」
  友之が黙りこんでその文字を見やっていると、橋本はひどく慌てたようになりながらも、辺りをはばかるようにしながら小声で囁いた。
「 それって、友人としての好きとかじゃなくて……」
「 ………」
  それでも友之が黙っていると、橋本はより一層あたふたとし始め、それからノートに書いた文字も急いで消してしまった。それから、またがりがりと急いで文字を書き連ね、それを友之に見せた。

  ごめんね!!気にさわった!?みんなって言っても、ホントに一部だから!だからあんまり気にしないでね!!そんなわけないよね!!

「 本当、気にしなくていいから!」
  橋本は声を出してもそう言って、それから友之から逃げるようにまた席を立ってしまった。
  友之はどういう反応を取っていいのか分からなくて、ただただ困惑してしまった。その思いが表情に出ることはなかったのだけれど。


  授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、皆が皆一様に図書室を出て行く中、友之はのろのろとした動作でクラスメイトが去った後、出した本を片付けに立ち上がって本棚に向かった。
「 友之」
  すると、それを待っていたかのように、沢海が声をかけてきた。
  振り向くと、大きな本棚に囲まれた狭い通路に、沢海は立ち尽くしていて、同じくその場に立っている友之をじっと見据えてきていた。
  もう周囲には誰もいない。昼食を取り終わった頃、またこの場所も結構な人で賑わうのだろうが、今は誰もいない。友之は急にこの空間にいることが怖くなってきた。沢海がいつもの笑顔もなく、ただ真面目な顔をしてそこにいたせいもあるだろう。
「 さっき言いかけたことなんだけど」
  そんな友之の心根も知らずに、沢海はすっと近づいて互いの距離を縮めると声だけは普段の柔らかい調子で言った。
「 放課後、どこか遊びに行かないか」
「 どこか…?」
「 別にどこってあてがあるわけでもないんだけど。友之が行きたい所あるなら、そこでもいいし」
「 ………」
「 友之、休日は野球あるし、普段は俺が部活とかあるからあんまり一緒にいなかったろ。たまにはさ」
「 ……今日、ちょっと」
「 …………用ある?」
  頷くと、沢海は一瞬ひどく陰鬱な顔をしたが、すぐにそれだけは消して、友之のことをじっと見やって言った。
「 あいつと約束してるの」
「 あいつ……?」
「 香坂って奴」
「 違うよ」
  友之はすぐに否定したが、沢海は急に怒ったように言った。
「 あいつ、お前のこと好きなの」
「 ………」
  何だろう。友之は何だか胸のあたりがざわついて、その場にいるのが妙に息苦しくなってしまった。いつも沢海と一緒にいてそんな気持ちになったことはなかった。多分、橋本のあの言葉が。らしくもなく気になっているのだろうと思った。
「 あんなの、やめとけよ。あんな……頭おかしそうな奴」
  冷たい声だった。
「 変だろ。他校のくせに堂々と人の学校入ってきてさ。お前のことも、何かすごくバカにしたみたいな態度で。感じ悪いよ」
「 ……どうしたの」
「 何が」
「 何で…そんな言い方」
  沢海には似合わないと思った。いつも優しくて人当たりが良くて。怒っているところなど、あまり見ない。
  ああ、ただ昨日は怒ってくれたんだ。友之はふっと思った。自分のために、あの坂本という生徒や、同じクラスの友人まで敵に回して、沢海は怒っていた。

 『 沢海君って北川君のこと好きなんじゃないかって』

「 俺……もともと、こういう奴だし」
  突然、沢海は吐き捨てるようにそう言った。俯いて、どことなく苦しそうだった。
「 いつもの俺なんか、俺じゃないよ。友之は…知らないだけだよ」
「 ………」
「 友之が…そういうの嫌いなんじゃないかって思っていたから、いい奴っぽくしていただけだよ」
「 拡………?」
  恐る恐る名前を呼んだ。めったに呼んだりしないのだが、呼ぶ時はこうやって名前を呼んでいた。数馬の時と同じ。名前を呼んでくれと言われたからだった。
  久しぶりに名前を呼ばれたという感覚が沢海の方にもあったのだろう。急に冷静になったのか、はっとしたようになって、困ったように友之を見た。
「 ………ごめん」
  そして、いつもの口調になって謝ってきた。
「 急にこんな言い方したらびっくりするよな。ごめんな。ただ、俺―」
  そう言って、沢海は友之に近づいた。そうして肩に触れようとした時。
「 ええー! うっそ、本当にー!?」
「 もうマジ! びっくらしたよ〜。でも面白いでしょ!」
「 最高! で、続きは〜!?」
  入口の方で女子生徒数人の声が聞こえた。
「………っ!」
  弾かれたようにそちらの方へ視線をやった沢海は、途端に友之から離れると、踵を返した。そうして、後はもう友之の顔も見ず、さっさとその場から立ち去ってしまった。
  友之はしばしその場に突っ立ったまま、沢海が去って行った方向をただ眺めた。


『 トモちゃんのことを本気で好きになる人なんかいないよ』


  いつか言われた言葉。あれは一体いつのことだっただろう。もう、思い出すつもりもなかった。ただ、時々夢に出てくるからあの声は消えないだけで。


『 コウ君だって、お父さんだってお母さんだって―』


  そんな事を言われている自分の方が余程悲しいはずなのに、言っている相手の方が泣いていた。だから友之は責めることができなかった。
  ただ、その場に立ち尽くして。





  何だか教室に戻るのが嫌で、友之は1階へ下りて昇降口近くの電話に向かった。元々昼休みになったら電話をかけようと思っていたというのもあった。
  修司は、出るだろうか。
  何度目かのコールの後、電話は意外にもあっさりと取られた。
『 ………はい…?…』
  くぐもった声だった。寝ぼけているような、やや不機嫌な声。
「 ………」
  それだけでは修司かどうか分からなかった。しばらく迷って、何とか声を出そうと口を開いたが、どうもうまくいかなかった。
『 トモ〜?』
  すると、ふやけたような修司の声が聞こえた。途端にほっとする自分がいた。
『 この雰囲気はトモだな。トモだろう?』
「 うん」
『 どうした? 今学校だろ?』
「 ……修兄」
『 ……ああ、トモだ。ホントにトモだなあ。』
  修司はようやく目が覚めてきたようになって、はっきりとした声を出した。それから起き上がったのだろうか、体勢を変えたような声が聞こえて、今度こそ明るいいつもの口調になった。
『 この間、急に電話切れて悪かったな。何か電波入りづらい所にいてさ。もう1回かけようかとも思ったけど、またコウ君の不機嫌な声、聞きたくなかったし』
「 いいよ」
『 それより、本当にどうした? 何かあったのか』
「 ………ううん」
  そう否定はしたものの、修司の優しい声を聞いていたら、友之は今すぐ学校から去りたい気持ちになった。今すぐ修司に会いたいと思った。もう一体どのくらい顔を見ていないのだろう。
『 嘘つくなよ。トモが元気ないのは、お兄ちゃんにはすぐに分かるんだぞ?』
  修司はそう言ってから、低い声でくくっと笑った。
『 で、今何処にいるんだ? 学校?』
「 うん。修兄は寝てた?」
『 ああ、ちょっとな。朝方まで出てたしな。けど、可愛いトモの声聞いたら、完全目が覚めたよ』
  あははと今度は軽い声が受話器から聞こえた。
「 今、どこにいるの」
『 知り合いの所だけど。おい、言っておくけどな、女の家とかじゃないからな。裕子、何かお前に訊いてくるか?』
「 何にも」
『 うおっ。相変わらず、冷たい女だぜ。ちょっとくらい妬いてみても罰は当たらないってのにな』
  そんな事を望んでなどいないくせに、修司はそう言ってまた笑った。
「 友達の家ってどこ?」
『 おいおい、どうしたんだよトモ。会いたいのか? お前が言うなら、行ってやってもいいけど。学校、迎えに行ってやろうか』
「 修兄のこと、探している人がいるんだけど」
『 は?』
「 進藤由真って人」
『 ……お前のところに行ったわけ? どうやって?』
  珍しく驚いたような声が聞こえた。
「 駅の改札で会ったんだ。顔と名前、向こう知っていて」
『 ははは』
  急に修司は軽快に笑ってから、「悪い悪い」と言って友之に謝った。
『 ほら、俺さ。愛しいトモの写真は常に持ち歩いてるからさ。つい自慢しちゃったんだよな。これ俺の弟〜ってさ。しかしあいつすげえな。それだけでお前の顔インプットして駅で待ち伏せしてたわけ? まあ、トモみたいな美人はそんじょそこらにはいないから、脳裏に焼きついたのかな』
「 そんな事どうでもいいけど…会いたいって」
『 由真が?』
「 うん。だから電話してあげるって約束したんだ」
『 トモが? あいつと? へえ、驚き』
  修司は何事か感心したようにそううめくと、しばらく楽しそうに「そうか」などとひとしきり頷いてから、「でもな」と言った。
『 悪いけど、パスだな』
  いやにはっきりと修司は言った。あまりあからさまに人のことを拒絶する人間ではなかった。心でどう思っていようとも、修司は自分勝手に動く分、人当たりはいい方だった。
  もっとも裕子に言わせれば修司は適当な人付き合いがうまいだけなのだという事だったが。

『 トモ、変に誤解するなよ。別にあいつのこと避けているわけじゃないぜ? いい子だと思うしさ。話していて面白かったから、俺も結構相手したし。けど、俺にはああいうの重いんだよな』
「 ああいうのって」
『 好きになられちゃ困るんだよ』
  修司は言ってから、今度は本当に参ったというように苦笑したようだった。
『 トモはなあ、こういうの嫌いだよな』
  どこかで聞いたような台詞。
  ああ、そうか。先日裕子にも言われたのだと友之は咄嗟に思った。
『 でも、これは俺とあの子の問題なわけだし、今度俺からもはっきり言っておくから、トモはこれ以上関わらないでくれよな。あいつに言っておいて。電話するから、町内を歩き回ったり、電話帳見てかけまくったりするのだけはやめろってな』
「 ………」
『 OK? トモ君〜?』
「 分かった」
『 よし! じゃあな、またな。昼飯、ちゃんと食えよ』
  修司はそう言ってから、電話を切った。友之ははっとため息をついてから、由真の顔を思い浮かべた。
  けれど、長い回想はできなかった。
「 友之」
  沢海がすぐ横に立っていたから。
「 帰らないか」
  そして、いきなりそう言っていた。
  午後の授業が始まる20分前のことだった。



To be continued…



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