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涼一が部屋にいる時、雪也は風呂を使わない。着替えもしない。
「いつも俺が先に入ってない?」
上半身裸のまま、濡れた髪の毛を拭きつつ浴室から出てきた涼一は机に向かっている雪也にそう声をかけた。
「お湯、抜いてまた入れておいたから。早く入れよ?」
「あ…うん」
振り向きざま雪也は曖昧に返事をし、それからまた机に向き直った。涼一が覗いてくる恐れがあったので書いていたものはすぐに本の下に隠したが。
「何やってたの」
しかし案の上というかで涼一は自室に戻らず、雪也に近づくと背後から机の上に乗っている物に視線をやってきた。そうして本の下からはみ出ている便箋に目敏く気づき、興味深そうな瞳をちらつかせる。
「手紙? 誰に書いてたの?」
「………」
「別に見せろとまでは言わないよ。そこまで図々しくない」
「……母さん、に」
「母さん? ……へえ、親いたんだ」
「え?」
心底意外そうに言う涼一に今度は雪也が意表をつかれた顔をした。
涼一は途惑う風もなくあっさりと返す。
「何かさ、雪也って時々物凄い悲壮感漂ってる時あるだろ。手紙まで書いて近況知らせるような親がいるとは思えなかったっていうか」
「何それ…」
「何となくだよ。お前、人の世話はよく焼くけど、逆に世話焼いてくれる人はいない感じがする。親がいるって思わなかった」
「………」
「お袋さんってどういう人?」
机の右隣にあるベッドに腰掛け、首に掛けていたタオルで改めて髪の毛を拭く涼一。
何ともなしに訊いてきている。悪気がないのが分かる。
それでも雪也は涼一に母親の話をしたくなかった。
自分の事を話したくなかった。
「雪也のお袋さんなんだから、綺麗な人かな」
「え…?」
どういう意味なのだろうと眉をひそめた雪也に、しかし涼一は答えなかった。そ知らぬ顔で先を続ける。
「繊細で細身な感じ? 色白でさ。性格はおっとり系のお嬢様タイプとか」
「……ちがうよ」
「そう? 顔似てないの?」
「似てない」
「ふうん。息子は母親の方に似るってよく言うけどな?」
すっかり俯いてしまっている雪也の様子に気づかないわけはないだろうに、涼一は相変わらず淡々とした態度でそう言った。それからベッドに置いていた自分のシャツを羽織り、前のボタンを留めていく。
その間だけ、部屋の中は沈黙で包まれた。
「なあ雪也」
しかしその静寂もすぐに破られた。涼一はベッドに座ったまま再び口を開いた。
「雪也」
「……え」
強めに呼ばれて雪也がようやく顔を上げると、涼一がじっと視線を向けてきていた。
涼一は言った。
「風呂。早く入って来いよ」
「うん……」
「早く」
「うん…」
涼一が部屋を出て行ったら。
喉のところまでその言葉が出掛かっていたが、さすがにそれは言えなかった。
「ふ…」
しかしそんな雪也の思いはとうに見透かされていたのだろう。涼一は呆れたような、どことなく嘲るような笑みを漏らすと肩を竦めた。
「俺、まだ行かないよ?」
「え……」
驚いてその目を見つめ返すと、涼一は今度はいやに優しげな顔になって目を細めた。
「まだ部屋には戻らないって事。ここ、居心地いいから」
「………」
「俺がいると風呂入れないの」
「……剣」
「人前じゃ裸になれないってわけ? それとも、俺の前だと脱げない?」
「……そういうわけじゃないよ」
実際そういうわけだった。雪也は意図せずにため息を吐いてしまった。
「俺、鬱陶しい?」
涼一はどんどんと雪也を追い詰める。雪也にはそれが堪らなかった。それが彼という人なのだと頭では理解していても、だからといって全く憤りを感じないわけでもなかった。
涼一とて放っておいてくれと言ったではないか。ここへ初めてきた時に。
「雪也」
その時、涼一が今までのからかうような明るい調子を引っ込め、突然真面目な声で言った。
「そんな態度取ってると余計苛められるぜ」
「………」
「外の世界じゃ、色んな奴に利用されまくってただろ。お前…外でどんな生活送ってたんだ?」
「そんなの…」
「『剣には関係ない』か? 関係ないなら話してみろよ。どうせ他人の話なんて3日で忘れる」
「話したくない…」
「何で」
「何でも…」
「俺だから?」
「そうじゃない…。誰にも…話したくないんだ。考えたくないんだ」
「逃げてるんだ?」
涼一のその一言は雪也の胸に鋭いナイフとなって深く突き刺さった。きゅっと唇を噛むと、外れた視界の隅で涼一が立ち上がったのが見えた。
こっちに来るんだろうか。嫌だ、近づいて欲しくないのに。
「なあ。雪也」
「ど…どう思われても、いいんだ…。でも、今は考えたくないから」
必死に下を向いて搾り出すようにそう答えた。しかしそんな雪也を涼一はまだ逃がしてくれなかった。
「いつまでここにいるつもりなんだ?」
「わ、分からない…」
「帰る所ってあるんだよな。その親の所とか」
「………」
「元は何処に住んでるんだ? 何でここに来たんだ?」
「……っ」
どうしてそんな事まで答えなくてはならないのか。先刻言った通り、しつこくして自分が怒るところを見たいと思っているのだろうか。だからわざとこんな意地悪をしているのだろうか。
ぐるぐると回る思考の中で雪也は必死に目の前の涼一から逃れる方法を考えていた。
けれど。
「無視?」
簡素な単語が降って来て、雪也がびくりと顔を上げると。
「あ…」
そこには可笑しくて仕方ないという風な顔をした涼一がいた。
「お前って本当馬鹿がつく正直者だな。言いたくなくてはぐらかす時はさ。逆に聞き返してやりゃーいいんだよ。誤魔化すなんて簡単だろ」
「………」
「本当不器用な奴。……ま、お前のそういうのは嫌いじゃないけど」
「………」
「おやすみ」
何も返さない雪也にこれ以上留まるのも無駄だと思ったのか、涼一はそれだけ言うと部屋から出て行った。バタンとドアの閉まる音が聞こえ、雪也はハアと大きく息を吐いた。
怖かった。
今でも多分、怖いのだ。那智と何ら変わらないと思う。
人が怖い。誰でもというわけではない。自分に近づいてこようとする人間だけ、反射的に避けたい気持ちが強くなる。誤魔化したくとも焦って唇が乾いて動けないのだ。
怯えているところを涼一に悟られてしまっただろうかと、雪也は不安な気持ちを胸の奥にずっしりと抱いた。



To be continued…


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