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那智が他の宿泊客たちと下のフロアで再び食事を摂るようになったのは、涼一が那智の部屋を訪れてから三日後の事だった。
「とりあえずは慣れてくれたって事かな」
夕食後、カウンター内の流しで食器を洗っている雪也に向かい、涼一はにやりと笑ってそう言った。
涼一が座る席には雪也が食後にと淹れたコーヒーがある。その香りを楽しみつつ、涼一は雪也の後片付けをじっと眺めている。
この頃の涼一はいつもこうだった。夕食が終わってもすぐに部屋へ戻らない。当初はいつもここに残る康久と話したいが為に居るのだろうと思っていたが、どうもそうでもないらしい。最近、アルバイト三昧の康久が早々に休んでしまっても、涼一だけは雪也の片付けが終わるまではここに留まっている。特に何を話しているというわけでもないのだが、雪也としては何か気の利いた話題でも持ち出さなければならないのだろうかと気を遣ってしまう。実際大した話ができるわけでもないのだが。
「そういえば。今日、あの2人組はまた外出?」
雪也が洗い物を終え蛇口から流れる水を止めた時、ふと涼一が思い出したように訊いた。
「うん」
「あいつらって何? 兄弟?」
「そんなようなものって言ってたけど」
「じゃあ違うって事か。あの創はともかく、ガキの方は学校にも行かないでこんなカビ臭いホテルに篭って何やってんだろな」
「カビ臭くて悪かったね」
「あ…」
いつからそこにいたのか、康久同様とうに部屋へ行ったと思われたオーナーの藤堂が店の入口付近でわざとらしい厳面をしていた。少々太めの身体にゆったりサイズのガウンを纏った藤堂の手には、長細い咥えパイプもあった。
そんな藤堂はカウンター内に入ると喉元を押さえながら渋い顔をして見せた。
「まったく、喉がイガイガして仕方ないよ。雪也、お水を貰えるかい」
「はい」
「何、オーナー。風邪?」
涼一が訊くとオーナーは更に苦々しい顔をすると頷いた。
「世話の焼ける客が多いからねえ。気苦労が絶えないんだよ」
「とか言って。あんた何もしてないじゃん。ここの事ってみんな雪也任せだし」
馬鹿にしたような涼一のその言いように藤堂はフンと鼻を鳴らした。
「だったら炊事洗濯風呂掃除。全部自分でやるかい」
「冗談じゃねーよ。ここ、ホテルだろ? そういや俺の部屋の風呂はいつ直るわけ?」
2号室にある年代物の風呂桶が壊れたのは、涼一という新しい宿泊客を迎え入れたわずか5日後の事だ。
現在、涼一は雪也の部屋にある風呂を使っている。
階下にも共同のシャワー室があるのだが、涼一が「そんな所は使いたくない」と言い張った為、何となくの成り行きでそうなってしまった。
「いつまでも雪也ンとこの借りてたら、好きな時に入れねーじゃん。最悪」
雪也から水を受け取る藤堂に向かって涼一はそう口を尖らせた。
「好きな時に使ってるだろ。どうなんだい、雪也?」
「あ…いや…」
「夜中とかはさすがに部屋行ったりしねーよ」
「当たり前だよ。あんた、客とはいえ、もし雪也のプライバシーを侵したらただじゃおかないよ」
「煩ェなあ…。だからいつ直してくれんだっての」
「……修理屋が御用伺いに来たらね」
「おいおい。それっていつの話だよ?」
「さあて、今度こそじっくり寝ようかね」
コップの水を一気に飲み干した後、藤堂は涼一の質問は完全に無視して再び自室へと戻って行った。涼一はそんなオーナーの後ろ姿を呆れたように見やりながら、1つ大きなため息をついた。
「すげーいい加減な奴だな。ヘンだし」
「ヘン?」
雪也が訊くと涼一はとぼけたような顔をしてから両肩を軽く上下させた。
「あれがまともに見えるわけ、雪也は。演技なのか地なのかは知らないけどさ。ま、こんなおかしなホテルのオーナーやるくらいだから、まっとうな神経のわけはないけど」
「………」
オーナーの藤堂は雪也がここへ来た理由を知っている唯一の人物だ。
彼(女)は相手の深いところまでは立ち入らない。けれど、決して見捨てる事もない。
雪也は藤堂が好きだった。彼は雪也に安心できる場所を提供してくれた恩人なのだ。
「……何だよ、もしかして気を悪くしたのか」
「え…?」
すると黙りこんだ雪也を涼一が探るような目をしてそう訊いてきた。
「どう…して?」
「どうして? そういう顔してたから。オーナーを悪く言うのはやめてくれって面。けど俺、別に悪口言ってるつもりはないんだけど」
「俺も別にそんな…」
言い淀みつつも否定しようとする雪也に涼一はかぶりを振ると言った。
「そうか? ならいいけど。お前ってさ。今イチよく分からないんだよな、何考えてるか」
「………」
思った事をストレートに言うのがこの涼一だ。最近ではそのくらいの事は分かるようになっていた。
けれど、それを知っているからと言ってこの胸の痛みが消えるわけではない。
「雪也」
すると今度は涼一が困ったような顔をして無理な笑顔を向けてきた。
「お前、マジで怒ってんの。それとも、俺みたいなタイプとは付き合ってらんない?」
「……そんなこと」
「ない? そうは見えない。俺みたいなのといると疲れるだろ。無理して喋んなきゃとか、合わせなきゃとか。色々考えてんじゃない? あの那智さんみたいにさ」
「………」
「でもあの人の方がまだマシかも? さーっと逃げてくれるから俺も試しに喋ってみようとか思わなくて済むし」
「……試し?」
雪也が聞き咎めると、涼一は途端、ひどく意地の悪い顔になった。
「お前がいつまで俺みたいなの相手して辛抱してられるか…試したいって気になるんだよ」
「……!」
驚きに目を見開くと、涼一はそんな雪也を楽し見るようにして再び笑んだ。
「もうちょっと我がまま言ってお前がキレるとことかも見てみたいかも」
「なん…」
「お前おかしいもん。あのオーナーよりおかしいよ。こんな所で黙々と他人に奉仕してさ。自己主張ゼロで? どういう人間なの。何考えて生きてるの」
「そんなこと…剣に関係ないよ…」
突然どうしたのだろう。雪也はさっと身体の血が引いていくのを感じた。このところ特に絡んでくるとは思っていたが、これほど悪意のある言葉を吐かれたりする事はなかったというのに。
屋上で、部屋で、そしてこの店内で。
涼一は雪也に実によく語りかけるが、こんな風に何かを仕掛けてくるという事はなかった。
やめてほしい。
入ってこないでほしい。
「あ、ちょっと怒ってる?」
「……別に」
「怒ってても風呂は貸してな。じゃ、行こ、雪也」
「………」
ガタリと立ち上がって涼一は言った。何事もないかのような顔だ。雪也にひどい事を言ったという自覚がないのだろうか。
「うそうそ」
すると突然涼一は言った。
「今の忘れて。ごめんな、雪也」
言葉を返さない雪也に、涼一は心底参ったという顔をして両手を挙げた。
「………」
嘘ではない。あれは彼の本心だろう。
涼一のことを見つめながら、雪也は暗くなる気持ちを抱えつつキッチンの明りを消した。



To be continued…


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