―11― ここ3日ほど、涼一は雪也とまともに目も合わせない。それは過去を問い質した涼一に雪也が何も答えられなかったあの日の夜から始まっていた。 「なあ。涼一のこと、許してやれば?」 「え?」 無視されているのは自分の方だ。雪也はそう思っている。 だから夕食後のコーヒーを楽しんでいる康久に突然そう言われた時は、雪也は驚きのあまり目を大きく見開いた。康久はそんな雪也に気づいた風もなく、ミルクをたっぷり入れたトウドウブレンドを楽しんでいる。 雪也はそんな康久をカウンター越しにじっと見つめてから口を開いた。 「それどういう意味…?」 「え? …どういうも何も。何か怒ってるんだろ、涼一のこと」 「俺は…」 むしろ怒っているのは涼一の方だろう。そう思ったが、それは言葉に出ず雪也は口篭った。 あの晩、涼一から風呂に入れと言われその通りにできなかった自分。 過去の事を迫られて「言いたくない」と突っぱねた自分。 それらの事柄に涼一はきっと顔には出さなかったが、腹を立てた。だからここ数日、涼一は自分と口をきかないのだろうと雪也は思っていた。 しかし目の前の康久は全く逆の事を言う。彼はここ最近新しく始めたクレープ屋の仕事が忙しいせいでひどく疲れていて、この頃は夕飯の後もすぐに部屋へ戻ってしまう事が多かった。いつもはこうして雪也と食後のコーヒーを楽しみ、他愛のない会話をして静かな時間を過ごすのだが、涼一が来てからはそんな2人きりの機会もめっきり減っていた。 だからその康久がそんな風に自分たちの事を見ていたとは雪也は思いもしなかった。 「俺的にはさー、ライバルがダメージを食らってるのは、そりゃしめたって気がしないでもないけどさ」 コーヒーを啜りながら康久は何でもない事のように続ける。 「だって今までだってただでさえ創とかうさぎとか…まあ、あとは那智さんやオーナーもそうだけど。皆雪也を狙ってて、それだけでヤキモキしてたのに。涼一みたいな2枚目がきちゃっていよいよ俺の出る幕なくなりそうじゃん。案の定涼一、雪也の事気に入ってくっつきまくるし」 「な、何言ってるんだよ…」 「えーだってそうじゃん! うさぎだってかなりイラついてるだろ? あ、あいつも何か最近外出多いのか? でも、絶対涼一の雪也独り占めには頭きてるはずだって」 「………」 康久の言い分に雪也は何も言えなかった。 そんな雪也から視線を外し、康久は再びカップに口をつけるとコーヒーをごくりと飲んだ。 そして再度口を開く。 「でもさ、それがここ3日ほど、あいつ雪也のこと避けてるじゃん。こりゃー手痛い言葉を浴びせられたか、勝手に暴走して自滅したか。まあ俺は後者だと思ってるんだけど、とにかくあいつ、すげー不機嫌じゃん。雪也と話せなくてさ」 「そんなこと」 「なあ雪也、知ってる?」 雪也に喋らせず康久は早口で言葉を継いだ。 「ここの客って…まあ雪也もそうかもしれないけど。自分は距離を取りたがるくせに、どっかで求めちゃうんだよな。人肌の温もりっていうか何ていうか」 「………」 「で。雪也はそれに最適の相手」 「康久…」 「俺だってこんな馬鹿みたいなテンション維持してっけど、やっぱまだ外に出るとキツイなって思う事あるよ。特に俺は例によって恋ってやつが1番怖い。ホントもう、重症」 「………」 康久が過去に「大」がつくほどの失恋を負ってここにやって来たという事を、雪也は他でもない当人から聞いて知っていた。その詳細は知らないけれど、康久はここへ来た当初「もう恋愛なんかウンザリだ」と言い張り、そしてそのうち「でも雪也とならしてもいい」と言い出すようになっていた。 オーナーはそんな康久に「ふざけた真似はよしな」といつも不機嫌そうな顔をする。 けれど康久はいつも真面目な顔をして雪也に言った。 雪也。確かに俺は男を抱く趣味はないし、最初はオーナーの言う通り優しいお前に逃げてるだけなのかもしれないって思ってた。 でも、やっぱりココロの中の俺は俺自身に「すごく雪也が好きなんだ」って言うんだよ。 「まあ、それで俺は相変わらず雪也が好きなんだけど」 康久がぼうっとしている雪也をちらりと見ながら言った。 「けどさ、涼一の気持ちは、それはそれで分かるんだよな。あいつがどういう経緯でここへ来たとかは知らないし、実際俺みたいな失恋とかの類で来てるんじゃないことは何か直感で分かるんだけど。けど、あいつは、あいつみたいなのには、やっぱり雪也の優しさが必要なんだよな」 「………」 「だから心配なんだよね。お前らが突然こうやって話さなくなると」 「俺は別に話したくないなんて思ってないよ」 やっとの事で雪也がそう言うと、康久はにっと笑ってから手にしていたスプーンをカップの縁に当ててチン、と鳴らした。 「なら、話しかけてやって。あれ、頑固だから絶対自分からいけないんだよ。ほら、あいつが当初ここに来た時みたいに気に掛けてやるだけでいいからさ」 「でも、俺……」 途惑う雪也に康久は「大丈夫大丈夫」と気軽に言い、顎だけで二階への道を指し示した。 「カップは俺が洗っておくから」 康久はにっこりと笑った。雪也はあれ、と思いながら、もしかすると康久がここを出て行くのはもう近いかもしれないと思った。 暫く2号室の前で躊躇していた雪也だけれど、必死に考えて用意した会話のネタを手元で確認した後、思い切ってドアを2度ノックした。 「誰」 ぶっきらぼうな声が部屋の奥から聞こえてきた。雪也は気まずい思いをしながら口を開いた。 「あの…雪也だけど」 「………」 すぐに声は返ってこなかった。どうしようと思って身体を揺らした時、しかし不意にガチャリと音がして部屋の扉が開いた。 「あ……」 「何?」 素っ気無い声で涼一は聞いてきた。夕飯の時はまだ皆がいるから保っていた笑顔も、こと今、雪也だけを前にしてそれはすっかり消え去っている。 雪也は重苦しい気持ちに包まれながら両手で持っている物に目を落とした。 「これ、康久がバイト先の人に貰ったって分けてくれたんだ。多かったから剣にもって」 「いちご?」 「うん」 「いちごってこの季節のものだっけ?」 相手に聞くでもなくそう呟いた涼一は、しかしそれをじっと見つめた後、黙ってそれを雪也の手から受け取った。透明のパックに入ったいちごは丁度良い色合いをしていて美味しそうだ。改めてそれを見やり、雪也はほっと嬉しそうに口元を綻ばせた。 「………なあ」 すると涼一がくぐもった声で言った。 「え?」 「用はそれだけ?」 「え……あ、うん……」 「なら、もう行けよ」 「……う、ん」 胸に広がりかけていた喜びは涼一のその態度であっという間に崩れ落ちた。 やっぱり怒っているのだ。 あの部屋を去った後は確かにそれほど気分を害した風ではなかった。けれど、翌日、またその翌日と、日を追う毎に涼一は雪也に対して不機嫌になっていき、そして遂に今はこんなにも冷たい。 やはりはじめから合わなかったのだろう。自分のような人種は、きっと涼一のようなはっきりとした性格の人間にはどうしたってイラつきの対象にしかならないのだ。 「……おやすみ」 涼一に軽く頭を下げてそう言うと、雪也は背中を向けた。涼一は今夜の風呂をどうするのだろうとちらとだけ思った。最近では康久の部屋のを借りるか、どうしようもない時は下の共同のものを使っているようだけれど。 しかし今は、そんな事を訊けるような状態でもない。 「雪也」 けれど、去ろうとする雪也に涼一が声を掛けた。 「え?」 意表をいつかれて振り返ると、涼一はいたく途惑った顔をしてじっと雪也を見やっていた。雪也が不審な顔をしてその場に留まっていると、涼一はやがて居た堪れなくなったように口を開いた。 「何でそうなんだよ、お前は」 「え……」 「俺が行けって言ったから何も言わないでそのまま行くのかよ。何で聞かないんだよ、怒らないんだよ。俺がこんな無茶苦茶な態度取ってるってのに」 「剣…?」 「フツー何だコイツとかって思わねー? いきなり無視だぜ感じ悪いだろ。何でどうして急にとかって訊かない? それとも、雪也は別に俺となんか係わり合いになりたくない?」 「そんなこと…」 「こんなもん持ってきて、何なんだよお前!」 「こん…な、物って…。でも剣、喜ぶかと思って…」 「俺は物なんかで釣られたりしねーよ!」 涼一は遂に叫んだかと思うと、手にしたパックを片手でぐしゃりと潰しかけた。あ、と雪也が声をあげなければそれはそのまま無残な形となって床に落ちてしまっただろう。 「俺…」 すると涼一は俯いたままぽつりと言った。 「自分でも分かんないんだよ…。すげーイラつく。お前のこと考えてると」 それは抑え付けるような、どことなく苦しさを伴うもので。 「本当むかつく。どうしてくれんだよ」 「ど、どうしてって…」 「………明日、付き合え」 「え?」 突然そう言った涼一に雪也はぽかんとして間の抜けた声で聞き返した。 そんな雪也に涼一は横柄な態度できっぱりと言った。 「外行くんだよ。1日。俺と一緒にいろ」 それは拒絶する事など絶対に許さないというような強い響きを持った声色だった。 |
To be continued… |
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