―17―



護は雪也たちを自分の診察室へ連れて行くと、にこにこしながらコーヒーを淹れ始めた。
「あの、護先生、診察は…?」
「ん、見ての通り俺の診察時間はもう終了。実際こんな小さな個人病院はそんなに繁盛しないって」
「そんな…」
「今だって入院してる患者さんたちと世間話してただけだしな。そしたら窓から雪の姿が見えただろう。思わず叫んじゃって、寝ている患者さんも起こしちゃったよ」
「えっ…あの…」
「ああ、大丈夫大丈夫。雪が来たって言ったら皆『早く行ってこい』って言ってくれたから」
嬉々としてそう言う護に雪也はただ面喰らい赤面して、満足に言葉を出す事ができなかった。鼻歌でも飛び出しそうな様子で護がコーヒーを淹れる後ろ姿をじっと見つめるだけで胸がいっぱいになってしまっている。
だから依然として隣でむっとしている涼一には全く気づかなかった。
「それで、雪。彼は?」
「あ…」
ようやくはっとしたのは、そう護に指摘されてからだ。護は人好きのする笑顔で涼一にコーヒーを淹れたカップを差し出したのだが、相手が仏頂面のままそれを取ろうとしないのでさすがに困っているようだった。
雪也は慌てた。
「あの…この間ホテルに来た…」
「剣涼一」
雪也の視線を得られた事で涼一はようやく口を開いた。そうして護から無造作にカップを受け取り、つまらなそうな顔をする。
「雪也。この人が雪也の神サマ?」
「は?」
「つ、剣…っ」
護の目の前でそんな風に言われ、雪也は思い切り焦って声を上げた。護はそんな雪也の態度にこそ驚いたようだったが、苦笑しつつ涼一の事を見つめる。
「神様? 俺が?」
「創はそう言ってた。あんたは雪也にとって神様だって」
「剣!」
そんな話はやめて欲しいと雪也が暗に呼んでみても涼一は知らぬフリだ。何が面白くないのか、唇を尖らせて護に突っかかるようにして続ける。
「俺、ここに来てから雪也とは結構一緒にいたけど、あんたの事って何も聞いた事なかったから。先生なんだよな、この病院の?」
「そうだよ」
自らの椅子に腰を下ろしながら護は素直に頷いて応えた。先刻は途惑いの表情をしていた護だが、今は自分に食ってかかってくるような涼一のことを面白そうに見つめている。
「雪也、ここに入院してたってさっき聞いたけど、何の病気だったの」
「雪が君に言ってないなら言えないよ」
「雪也、何で入院してたの」
「え」
護の答えを予測していたのだろう、涼一はすぐさま雪也を見つめた。
突然振られた雪也の方はそれですっかり困惑して、そう言ってきた涼一をただ見つめ返した。それから護を見やり、焦ったようになり下を向く。
護の視線と交錯すると、雪也はどうしても慌ててしまう。
それによって涼一は再度面白くなさそうに不機嫌な様子を露にして言った。
「何だよ、俺には言えないわけ」
「そう…じゃないけど」
「なら言えよ。病気して、それをこの人に治してもらって、それで恩を感じてる? けど、それだけじゃない感じがするんだよ。俺はそれを知りたい」
「どうして」
すかさずそう訊いてきたのは護だった。
相変わらず害のない笑顔を閃かせているが、雪也が困っているのを見るに見かねたのかもしれない。護は手にしていたカップをテーブルに置くと、改まった様子で涼一の事を見据えてきた。
「涼一君こそ、どうしてそんなに雪と俺の事を気にするんだ?」
「………」
「かなりムキになっているみたいだけど、君こそ雪の何」
「……何って。そんな事あんたに関係ある?」
「ああ、あるね」
護の即答に雪也はどきりとして顔を上げた。護は雪也のことをとうに見つめていた。再び顔が赤くなるのを感じたが、この時は雪也も目を逸らす事はできなかった。


雪也っていい名前だな。でも君のことはユキって呼んでもいいかな?


あれ以来、ずっと嫌いだった自分の名前を雪也は好きだと思えるようになった。
雪也にとって護という存在は、自己を否定し苦しんできた自分を救ってくれた、やはり神様だったのかもしれない。
その護が。
「雪は俺にとってただの患者じゃないよ。俺には弟みたいに大事な存在だから」
「………弟?」
「そうだよ」
護はそう言ってにっこりと微笑んできた。
雪也はそんな護に笑い返そうとして見事に失敗してしまった。





病院を去った後、何度も「またおいで」と言って子どものように頭を撫でてきた護を思い出しながら、雪也はそっとため息をついた。
久しぶりに会えた護の周りは、やはり温かくてとても落ち着く。
そうして同時に胸がぎゅっと痛くなる。
「なあ」
建物を出るまで一言も話しかけてこなかった涼一がぽつりとそんな雪也の背中に声を投げた。
「お前さ…。あの医者の事が好きなわけ」
「………」
どう答えて良いか分からずに沈黙していると、涼一はここでようやく鼻で笑い、素っ気無く言った。
「お前って分かりやすすぎ。あの人がお前を見る度に真っ赤になってさ。こっちが恥ずかしくなるっての」
「うん…」
何となく頷いてから雪也ははっとして振り返った。
「………」
そこには、その雪也の反応にこそ驚いたような涼一の顔があった。
「けどさ」
しかしすぐに我に返ったようになり、涼一は一瞬言いよどんだ後、実に意地悪い口調で言った。
「あの先生はお前の事、弟くらいにしか思ってないんだぜ」
その涼一の言葉は雪也の胸につきんと突き刺さり、忘れようとしていた痛みを思い出させた。
もうとうに知っていた事のはずなのに、その痛みはひどく鮮烈でじんじんと全身に響いた。



To be continued…


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