―19―



雪也が部屋でぼんやりしていると、ドアをノックする音と共に外から創の声がした。
「雪也君。いいかな?」
「あ、うん」
ベッドの上に座っていた雪也は慌てて立ち上がり、ドアの方へ歩み寄ってその扉を開けた。そこには創がやや苦笑交じりの顔で立っており、「コーヒー淹れてきたんだ」と手にした2つのカップを少しだけ掲げて見せた。
「あ、ありがとう…」
ドアを大きく開いて創を迎え入れると、途端、階下の方で藤堂と涼一が激しく言い争いをしている声が耳に飛び込んできた。
「あ…?」
「気にしなくて良いよ。煩いから閉めよう」
創はそう言うと雪也を再び部屋の中へ押し込むようにして自分も入ると、塞がっている両手の代わりに後ろ足でバタンとドアを閉めた。
「あの人たちの喧嘩はいつもの事だろ? あれで結構仲いいんだよ」
「で、でも…」
テーブルにカップを置いて椅子に腰掛ける創を後ろ手に見やりながら、雪也は未だ閉じられた扉の方を気にした風に見やった。
あの2人が争っている理由は恐らく、いや間違いなく自分。
「……剣は悪くないよ」
ぽつりと言うと、創はカップに口をつける寸前、「そうかなぁ?」ととぼけた声を出した。
「え?」
雪也がそんな創の態度に驚いた顔を向けると、創はすました調子で素っ気無く続けた。
「いや、君がそう言うならそうなんだろうと言いたいところだけど。でも、君が倒れて熱を出したのは剣君が君に言った言葉のせいだって、当の剣君自身が言っていたよ」
「………」
「何を言ったのかって事は、彼も教えてくれないけどね」
「………」
「それを現在オーナーが問い詰めているわけだけど…俺も気にならないって言ったら嘘になるかな」
「それを訊く為にここへ?」
「いや。ただ単に君と2人きりになれるチャンスだったから。君にべったりの剣君はオーナーに拘束されているし、俺も久々にうさぎのお守りから解放されているんでね。あいつ、那智姉さんと一緒に君が喜ぶだろうって果物を買いに行っているんだ。……あいつもあれでなかなか可愛いところがあるだろう」
「……ごめん」
「どうしてそこで謝るのかな」
創は薄っすらと笑んで再びカップに口をつけた。冷めては悪いと、それで雪也も大人しくカップを受け取り、再び元いたベッドの上に腰かける。
甘い香りが鼻先をくすぐる。
創が淹れてくれたコーヒーにはミルクと砂糖がたくさん入っていた。一口飲むと、創の優しさも一緒になって身体の奥に染み渡ってくるようだった。



どうやって自分の部屋に戻ったのか、雪也はあまりはっきりと覚えていない。
ただ涼一の言葉によって引き起こされた過去の忌まわしい記憶が自らの身体を鋭く抉り、どうしようもない痛みが全身を襲った。実際は創が言うように発熱したわけでもないのだが、だるくて部屋に戻ると起き上がれなくなってしまった。
途惑い、後を追いかけてきた涼一と、何の騒ぎだと駆けつけてきた藤堂以下、淦の客たちを巻き込んで、一時部屋の中は騒然とした。
それから半日。
雪也はただじっと部屋の中でぼーっとしていたのだ。当然、洗濯もしていない。



「迷惑かけてごめん」
「迷惑? 俺は何も迷惑になんか思っていないよ」
創は自分の背後にいる雪也にわざと視線を向けないようにして、椅子に座った姿勢のままそう答えた。
「君が来てからここでの暮らしは一層快適になった。うさぎもそうだし、那智姉さんもそうだ。もともとここは何らかの理由で篭っている奴らがいる場所だろ。そんな所に君みたいな人が来たら……そりゃあ、誰だって少しはおかしくなったりもするさ。……俺や康久は癒された方だけどね」
「どういう…意味…?」
訳が分からず雪也が眉をひそめると、創はふっと鼻で笑って茶化すような言い方をした。
「剣君がおかしくなるのも仕方ないってこと」
「わ、分からないよ…」
「雪也君は健気で可愛いってことさ」
創はあっさりとそう言い切ると初めてちらと振り返り、目だけで笑ってみせた。
「雪也君」
そして創は言った。
「君、剣君に好かれてるよ」
「え? そりゃ…俺も友達だって思っているけど…」
「はは…そうじゃなくて」
雪也が思い切り勘違いしているのを察して創は愉快そうに肩を揺らした。
「好きっていうのはそういう意味じゃなくて、君が護さんを想っているのと同じ意味」
「え……」
「いや、きっとそれよりずっと性質の悪いものだろう。とにかくね、彼は君に惚れてるんだよ」
「………」
半ばぽかんとして雪也は創のその言葉を聞いていた。手にしたカップの温度も忘れてしまうくらいに、雪也はただ穴が開くほどにそう言った創の後ろ姿を眺めた。
その時間はほんの数秒の事だったのだけれど。
「ふざけるな!!」
「!!」
不意に張り裂けんくらいの絶叫とドアがを激しく押し開く音が聞こえたと思うや否や、涼一がずかずかとした足取りで雪也たちがいる部屋の中央に押し入ってきた。先ほどまで階下でオーナーの藤堂とさんざ言い争いをしていたはずだというのに、いつの間に二階に上がってきていたのだろう。
そしていつの間に雪也たちの会話を盗み聞いていたのだろうか。
「創! テ、テメエ、ふざけた事言いやがって…!!」
その涼一は自分がドアの外で聞き耳を立てていたなどと言う事には微塵の罪悪感もないような態度で目の前の創を睨みつけて言った。創は飄々とした態度のままコーヒーを啜っていたが、横でふつふつと怒りを煮え立たせている涼一を無視する気はないようだった。
「何がふざけた事なんだい」
創が静かに問い返すと涼一はベッドに腰かける雪也を指差して怒鳴った。
「何で俺がゆ―…! こ、こんな奴に惚れてなきゃなんねーんだよ!!」
「違うのかい」
「当たり前だろ! な、何で…っ!」
まくしたてるように言いかけて、しかし涼一はその瞬間雪也を気まずそうに一度だけちらと見やってきた。雪也はそんな涼一と目を合わせていられずに慌てて下を向いた。先刻、みっともなく取り乱してしまったところを見られているし、問い詰められて叫んでしまった気まずさも心の内に鮮明に残っていた。
「く…っ」
しかし涼一は雪也のその避けるような仕草を違う風に受け取ったのだろうか、みるみる不機嫌な様子になっていき、再び唾を飛ばさんほどの声を上げて創に向かって言い放った。
「俺はこいつと違ってホモなんかじゃねーんだからなっ。気色悪い事言うな!」
「……それくらいにしておかないと、後で取り返しがつかないよ?」
涼一の行き過ぎた発言に創が呆れた風に言った。ちらと背後で固まっている雪也を見やり、眉をひそめる。
「君、自分が何でそこまでムキになってるか分かってる?」
「し、知るかよ…! 煩いんだよ、お前! いちいち!」
「煩いのは君だよ」
創はぴしゃりと言った後、自分こそが不快になったと言いたげな顔をすると冷たい声を発した。
「俺の勘違いだったなら謝るよ。けど、君も雪也君に対する暴言をきっちり謝れよな」
「な、何で俺が…」
「君、今日これで何回彼を傷つけてるんだい。俺の言葉が発端になったのなら俺も申し訳ないと思うけど、そもそもこっちの会話を外で盗み聞きしている君がいけないんだよな。どうなんだい」
「ち…!」
「俺はただ客観的に見て感じた事を言っただけさ。剣君は雪也君に惹かれてる。どうしようもなく惹かれてる。それなのに彼がちっとも自分を見てくれないんで、不貞腐れてる。そうなんだろ」
「な……」
「まるで子どもの我がままだ。康久だってそんな厚かましい事はしない」
「………」
「うさぎも」
「創っ」
雪也が堪らず声を出した。
「創…」
雪也自身、声が出るか不安だったが、創がこちらを見たところを見るとどうやらうまく発音できたらしい。
すぐ傍にいる涼一をなるべく視界に入れないようにしながら、雪也は無理に笑って見せた。
「俺…別に平気だから」
創が何も言わないのを見て雪也は焦った風に言葉を継いだ。
「剣も、ごめん。俺、もうお前に関わらないようにするから…」
「ゆ…」
「ごめん。剣がそんな風に思ってたのに、俺お節介に食事運んだりして…。すごい、不愉快だったんだよな。ごめん…」
謝っているうちに段々と惨めな気持ちになってきて雪也は顔を真っ赤にさせて再度俯いた。
泣きたい気持ちになったが、2人の手前そうもいかなかった。
「ごめん」
すると今度は創が言った。
「ムキになっていたのは俺の方みたいだ。雪也君。俺のせいで君に嫌な気持ちをさせて本当にごめん」
「そ、そんな」
「出るよ」
驚き否定しようとする雪也に構わず、創は涼一の横をすっと通り過ぎるとそのまま何も言わずに部屋を出て行ってしまった。
唖然とする涼一と雪也だけを取り残して。
「………」
バタンとドアの閉まる音がして、しんと辺りが静まり返った。
雪也が居心地悪くただ涼一が去るのを待っていると、その視界に見えた影がゆらりと揺れた。
「……っ」
びくりとして顔を上げると、すぐ傍に涼一の視線があった。見下ろすようにして目の前に立っている涼一はどこか憔悴していて、そして何だか苦しそうだった。
「剣…?」
恐る恐る声を掛けると、その怯えたような雪也の声に涼一こそがびくっとしたようになって後退した。しかしすぐに立ち直ると、涼一は居た堪れなくなったように声を荒げた。
「そんな顔すんなよ…っ」
「え…」
「イライラすんだよ…! 何で俺が…!」
「ごめ…」
「だから謝るな!!」
「ひっ…」
不意に飛んできたその平手打ちに雪也は小さく悲鳴を漏らした。
「……っ」
はじめはあまりに突然なそれに何が起きたのか分からなかった。ただ鋭い痛みが頬を襲っただけで。
「剣…」
けれど涼一に殴られたのだと認識した途端、雪也は促されるようにゆっくりと顔を上げた。その、自分の頬を張った怒りに満ちているであろう相手の顔を見ようと。
「あ…?」
「………」
けれど涼一の顔はただ動揺と困惑の色に満ちていた。
自身の犯したその過ちに、宙に浮かしたままの片手をみっともなく小刻みに震えさせて。



To be continued…


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