―20― 頬を叩かれた痛みはそれ程ではなかったが、涼一に浴びせられた侮蔑の言葉は雪也にとってやはり辛いものだった。 「………」 どうして良いか、またどんな顔をして良いか雪也には分からなかった。涼一に叩かれた頬を片手で押さえ、じっと俯き沈黙する。涼一は未だ目の前に立ち尽くしたまま何も発しようとしない。部屋から出て行こうともしない。雪也にはそれが堪らず、銅像のように微動だにしなくなった涼一の足元を見つめたまま、ただこの時が過ぎ去ってくれるのをひたすらに待った。 「雪也…」 すると涼一がようやっと、掠れたような声で呼んだ。 「あ…?」 けれど雪也が黙って顔を上げた瞬間、いきなり物凄い力が両肩を襲った。 「なっ…」 「ち…っくしょ……!」 ギシリと軋むベッドの音と同時に、雪也は涼一によって抑えつけられその場に押し倒された。 「つ、剣…?」 驚きで目を見開く雪也に上から覆いかぶさり、涼一は雪也の両手をベッドに縫いつけんようにして押さえ込んできた。 そしてまたぴたりとそれきり動かなくなった。 「………」 それは実際それほど長い時間でもなかっただろう。 けれどただじっと見下ろされるその態勢に雪也は徐々に戸惑い、そして苦しくなった。 「剣…離して…?」 「………」 両の手首をそれぞれ涼一によって掴まれ、上に圧し掛かられた格好だ。その圧迫感は相当なもので、雪也はけほりと遠慮がちに咳き込んだ後、また悲痛な目を向け涼一に懇願した。 「剣…お願…」 「ちッ…!」 「痛…!」 けれど雪也が声を出した途端、涼一は厳しくしていた表情をより一層険しくし、眉をひそめるとそのまま拘束の力を強めた。雪也がそれに微かな悲鳴を上げると、涼一は唾を飛ばすように投げ捨てるような声を発した。 「お前が悪いんだ…!」 「剣、痛いよ…!」 「お前が…!」 「離し…痛いっ!」 「煩い!」 「ぐっ」 そして涼一は突然にゅっと片手を突き出すと雪也の両頬を掴み、そのまま口を塞いで雪也の言葉を封じ込んだ。 「ん、ぐ……」 「お前が…おかしいんだ…」 涼一は念じるような低い声で囁くとそのまま上体を下げ、雪也に顔を近づけてきた。雪也が呼吸の困難さに眉をひそめて首を振っても涼一は口を塞いでいる手を離してはくれない。 「………静かにしてろ」 「……っ」 そうして涼一は雪也に何度か言い聞かせるようにそう言った後、そっと片手を外して鋭い目で見つめてきた。 「…はぁっ…。つ、剣…?」 「………ゆき」 「え…?」 「あいつにそう呼ばれて…嬉しそうにしてただろ…」 「剣…?」 見つめているのに、どこか違うところを見ているようなそんな朧気な眼。 雪也はそれにひどく不安そうな瞳を向けたが、当の涼一はそれを無視した。そしてそのまま親指の腹で雪也の唇をつっとなぞった。 「ん…」 それで雪也がくぐもった音を喉の奥で鳴らすと、その直後に涼一もごくりと唾を飲み込んだ。 そして。 「雪……」 「え…あ…っ」 「黙ってろ」 「………!」 涼一の降りてきた唇をそのまま受け入れさせられて、雪也は目を見開いたまま身体を硬直させた。 それでも涼一は構わない。最初こそ驚いたように一瞬その唇を離したものの、すぐにまた思い直したように唇を重ね、そうして吸いつくように徐々にそれを深めていった。 「んんっ…」 突然のそれに最初こそ固まっていた雪也も、どんどんと激しくなっていくそれには恐ろしくなった。雪也は精一杯の力で相手を跳ね除けようと、空いている片手だけで涼一の背中を引っ張った…が、当の涼一はそんなものでは全くびくともしなかった。 「ふ…っ、ん、ふぅ…」 舌を絡め取られた後、またぎゅっとそこを吸われる。横になっているのにも関わらず、雪也はぼおっとしてしまい、眩暈を感じた。涼一の口付けはどこか切なく、そしてひどく傲慢に雪也の口腔内を蹂躙していった。 征服される思いと悲しさと苦しさと。 そして疑問と。 「………」 やがて唇をそっと離された時は、だから雪也はもうすっかり訳が分からなくなっていた。色々な感情がごちゃまぜに頭の中を行き来し、身体も言う事を利かない状態で、ただこちらを見据える涼一を見つめ返す事しかできなかった。 「雪……」 「剣……」 呼ばれて呼び返した時、ふと涼一の頬が思い切り上気しているのに雪也は気づいた。珍しいものを見るようにぼーっとそれを眺めていると、涼一は気まずそうに唇を尖らし、そしてぶすくれた声を出した。 「何…見てんだよ…!」 「え……」 「呆けた面してんじゃねえよ…! 何されたか分かってんだろっ!」 「………」 「分かってないのかよ…!?」 「あっ」 怒ったような涼一の声と同時に雪也はまた強引なキスをされた。けれど今度はただ押し潰してくるだけのような粗末なそれで、雪也はそれでやっと夢から覚めたような気持ちになった。 「や…っ。やだよ、剣…!」 「煩い。遅いんだよ今さら…!」 逆らう所作を示した雪也に涼一は更にむっとしたようになり、自棄になったように何度も何度も雪也にキスを繰り返した。ちゅっちゅと音のするものから、唾液が絡みあう濃厚なものまで。 「んっ…んんッ…」 「雪…雪…ッ」 「んぅっ!」 一体どれくらいしていたのだろうか。バカみたいに涼一は繰り返し繰り返し、ただ雪也に口づけをし続けた。 そして雪也も足をばたつかせ抵抗をしていたのは最初だけで、やがて時が経つともうすっかり諦めたように静かになってしまった。 「………」 そうして大分経ってようやく気の済んだらしい涼一が雪也を解放してきた時。 「あ…」 ゆっくりと上体を起こした雪也は、それからふと窓から差し込んでくる夕暮れの光に声を漏らした。今日は寝てばかりだったというのに、もう一日が終わろうとしている。その驚くべき時間の早さに、雪也はこんな時だというのにどこか呆けたように茫然としてしまった。 「おい」 するとすぐ傍に向かい合って座っていた涼一が無理にそんな雪也の顔を自分の方へ向かせ言った。 「よそ向いてんじゃねえよ」 「あ……」 思わずごめんと謝りそうになり、けれどどうして自分がと思いとどまって雪也は口をつぐんだ。 それから雪也はやっと自由になった唇にそっと触れてみた。濡れたそれに急に羞恥心が湧き、雪也は頬を紅く染めた。 「………なあ」 するとそんな雪也を見ていた涼一が声を出した。 「護ともしたのかよ」 「え…」 驚いて顔を上げると、そこにはひどく真面目な顔をしている涼一の姿があった。 「もうするなよ」 「剣……んっ」 そして応えようとした途端、また唇を塞がれた。背中を壁に押し当てられた状態で、また涼一の口付けを受けた雪也は無意識のうちに涼一の腕にその手を添えた。 「……雪」 唇を離すと涼一はまたそう呼んだ。 まだどこか戸惑いを含んだ翳った表情ではある。けれどその感情は、雪也に向けられたものではなく、涼一自身に向けられているもののようだった。 「もうするなよ。あいつとは」 「何を……」 「なあ」 それから涼一は自分が叩いてしまった雪也の頬をしきりに撫で、そうして何度も「ごめん」と言った。 |
To be continued… |
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