―21― 「いってぇー!」 夜の淦。 宿泊客たち皆が集まる店内のカウンター付近では、涼一がとんでもない声を張り上げ苦痛に呻いていた。 「こ、このくそガキ…!」 左の手首をもう片方の手でさすりながら涼一は恨めしそうな目を傍に立ち尽くすうさぎにやった。 涼一はキッチンに向かった雪也に「コーヒー」と言った直後、ソファ席にいたうさぎにおもむろに近づかれ、そして手首を噛まれたのである。 そう、思い切り。 「あっ、くそ…歯型がついてんじゃねえか…!」 しかし手首にくっきりとついたうさぎの前歯の痕を涼一が怒りの声で愚痴ったのとほぼ同時、康久とオーナーの藤堂が非難轟々の言葉を上げた。 「うさぎっ、そんなんじゃ手ぬるいぜ! もっと噛んじゃえよ!」 「そうだよっ。こんなエロガキはねっ、噛んで噛んで噛みまくって、そんでもってふんじばって夜の港にでも捨ててきちまえばいいんだっ」 「なっ…!」 「ついでに海の底に沈めてきちゃえばいいんだよな!」 「沈める!」 うさぎも2人に呼応するように大声を上げた。 「………!」 3人の凄まじい殺気にさすがの涼一も意表をつかれたのだろう、驚きに目を見開いたまま口をぱくぱくさせるだけで、なかなか反撃の言葉を出そうとしない。 ソファ席では創と那智がその様子を静観している。創はただ眉をひそめた状態で、そして那智はオロオロとして何故か泣きそうな表情で。 「エロ一!」 そうこうしているうちに、またうさぎが今度は涼一の脛を思い切り蹴り上げてきた。 「いっ…いって! てめ、マジでやめろ!」 「やめるな、うさぎ!」 「そうよそうよ、やめちゃ駄目ようさぎ!!」 「お、お前らなーッ!」 ぎゃーぎゃーと騒ぐ皆を雪也は店内奥のキッチンの影から困惑したように見つめるしかなかった。 涼一に連れられて階下に下りてきた雪也を皆は一様に心配して出迎えてくれた。特にバイト先から帰ってきて事の次第を聞いた康久は必死に雪也を気遣い、そして傍にいた涼一に責めの言葉を吐いた。 しかし、その涼一はそんな康久や他の皆がいる前で堂々と言ったのだ。 「さっき俺たちキスしたから」 その爆弾発言は周りの空気を一瞬で凍結させるには十分過ぎる威力を発揮した。 暫し全員の動きが止まった中、最初に立ち直って行動を起こしたのが、がぶりと涼一に噛み付いたうさぎだったというわけである。 「あんた! 一体どういうつもりなんだい!」 キッチンにいる雪也をちらと見た後、オーナーの藤堂はやや上気した顔で平然としている涼一を睨みつけた。 「本当に永久追放されたいようだね!」 「されたくねえよ」 「ナニ、そのふてぶてしい態度はっ!?」 「そうだ、お前! 今日散々雪也のことからかったんだろ! よく知らねーけど…まあ大体想像はつくよっ。雪也の事傷つけて、その上、キ、キ、キキキ…!」 「キス」 創が康久の代わりとばかりにしらっと言う。康久はそんな創をちらと振り返ってから、カーッと顔を赤くして物凄い勢いで頷いた。 「そそそそうだ、それだ…ッ。お、お前は俺だって我慢してやってなかった事を…そんなあっさりと…!」 「康久、あんたは黙っといで!」 話が違う方向へ行きそうなのを押さえ込んで、藤堂は狼狽しまくっている若者をぴしゃりと黙らせた。 それから努めて冷静な、それでいて低い声色で囁くように言う。 「言い訳を聞こうか…。事と次第によっちゃ、本気で今すぐにでも出てってもらうからね」 「言い訳? 言い訳する事なんか何もねーよ。雪とキスした。したいからした。それだけ」 「ここここの…! ししししたいからした…だとお!?」 「康久、ホント煩いよ」 藤堂が言う前に、今度は創が苦笑して制した。 そして冷静さを欠いている皆を代表して目の前の涼一に声を投げる。 「念の為訊くけど、どういう風の吹き回しだい。君、雪也君のことを散々酷く罵ったよな?」 「ああ。だから雪には謝った」 「雪、ねえ…」 いつの間にか呼び方の変わっている涼一に、創は皮肉な笑みを浮かべて黙りこんだ。 「……ふん」 そんな創に涼一は面白くなさそうな顔をちらと向けたものの、すぐに向き直ると誰のことも見ずにきっぱりと言った。 「確かに俺には男の趣味なんかねえよ。けど雪は別。雪とはしたいと思ったんだ。だからした。そしたら最高良かったから、これからもする」 「な……」 あまりの発言に藤堂はじめ当の雪也自身絶句していると、涼一はそんな雪也の事を真っ直ぐに捕らえながらはっきりと言った。 「俺、雪のこと好きだ」 「……っ」 驚きで何も言えない雪也に涼一は尚も言った。 「雪といると楽しいし、雪といるとほっとする。それに、雪にはずっと触ってたい。雪と付き合いたい」 全員がぽかーんとしている中、涼一は尚も続けた。 「俺、これからずっと雪と一緒にいたい」 「……本当に急だね、君」 やっと創が声を出すと、涼一は背中を向けたままふっと肩で息を吐いた。 「そうかもな。俺って一旦こうと思うと割とすぐに突っ走るから」 「雪也君の気持ちは無視で?」 鋭く言った創のその言葉に、涼一ははじめて詰まったように沈黙した。無理やりのキスなどという事はとっくに全員にバレている。さすがに引け目を感じたようだった。 「……雪にはこれから振り向いてもらうから」 バツの悪そうなその声と共に、涼一はちらと上目遣いに雪也を追った。雪也はすっかり困ってあちこちに視線をやり、しまいにはやはり俯いてしまった。 涼一に促されるまま、手を引かれるようにして階下に降りてきたのは、皆に心配を掛けた事を謝るためだ。うさぎたちなどはわざわざ新鮮な果物まで買ってきて自分を元気づけようとしてくれた。だからお礼も言いたかった。 それなのに、涼一の思わぬ告白でそれどころではなくなってしまった。 「雪也」 その時、オーナーが深いため息と共に雪也を呼んだ。 「あ……」 びくりとしながら反応を返した雪也に、藤堂は横目でちろと眺めると疲れたような声で言ってきた。 「このバカにはっきりと引導渡してやんな…。お前みたいなエロガキに興味ない、自分が好きなのは大人な優しーいハンサム男だってね」 「顔なら俺の方がいいだろ」 「いい加減にしないとぶっ殺すよ!」 「オ、オーナー過激な…!」 那智がびくうっと震えたようになって、悲鳴のような声を上げた。うさぎはイライラした小動物のように、フロアの周りを行ったり来たりしている。 康久はほぼ半死状態である。よほどショックらしい。 「雪也」 何も発しない雪也にオーナーが再度呼んできた。 雪也がはっとして顔を上げる。皆がこちらを見ているような気がした。 雪也は思い切り赤面した。 「あの…」 「言っちまいな。興味ないって。それだけでいいよ」 「うるせえクソジジイ!」 「なっ…!」 涼一のぎっとした暴言に藤堂が絶句する。創はやれやれという風にコーヒーに口をつけていた。 雪也はそんな光景をぼうっと見つめた後、ようやく思い切ったように口を切った。 「つ、剣……」 「えっ…」 藤堂と言い争いそうになっていた涼一がはっとして動きを止めた。 皆も一斉に雪也を見つめる。 雪也は気まずい思いをしながらも顔を赤くしたまま言った。 「気持ちは嬉しい、けど……ご、ごめん……」 「…………」 涼一の愕然とした顔に雪也は慌てて下を向いた。 すると瞬時、先刻キスの後で涼一がさんざ謝り、そして囁いた言葉が雪也の脳裏にさっと浮かび上がった。 「雪、俺こんな気持ち初めてなんだよ。……お前って本当優しくて綺麗だな」 |
To be continued… |
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