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雪也が洗濯を終えて部屋に戻ると、ドアの前には涼一が立っていた。
「雪。はい」
「………」
「今日はライラック」
「………」
涼一がそう言って差し出してきた青紫色の花はブルーのギンガムチェックに包まれ、白のリボンで飾りつけがされていた。
「あの…」
「何、雪はこういうの嫌い? 今日はこれがあの店で一番の器量良しだと思ったんだけどな」
「………」
涼一の言葉に雪也は何とも答えられなかった。
ちなみに昨日がマーガレットで、一昨日がハナミズキ。そしていずれも、その花の色にあったセロハンペーパーで洒落たラッピングが施されていた。
「綺麗だろ」
何の反応も示せないでいる雪也に全く構った風もなく、涼一は得意気に笑って言った。
「雪には負けるけど」
しれっとそんな事が言えてしまう涼一は、このところ毎日ように雪也に花を贈っていた。
当初、プレゼントの主流を占めそうだったのはアクセサリーの類だった。指輪だのネックレスだの、それは以前涼一が雪也を連れて行った宝石店で購入している物らしかったが、しかし雪也があまりに高価なそれに尻込みして受け取りたがらないのを見ると、涼一はそれならと今度は花を贈り始めたというわけなのだ。
「トルストイの『復活』だね」
すると丁度部屋から出て来た創がドアの前にいる雪也たちの姿を認め、そんな事を言ってきた。すぐ後ろにはうさぎもいる。どうやらまた外出するところのようだった。
「煩ェなお前は…。さっさと行けよ」
2人きりを邪魔されて露骨に不機嫌な顔をする涼一に、創は堪えた風もなく肩を竦めて見せた。
「はいはい。行くぞ、うさぎ」
「エロ一!」
「煩えよ、このバカうさぎ!」
この台詞を皮切りにいつもの如く「子どもの喧嘩」が開始され、2人は暫くの間互いに睨みあいながら幾つかの罵声を飛ばし合った。
「やれやれ」
そんな2人の言い争いに、先に階段付近まで歩いて行っていた創は苦笑交じりにそう独りごちてから、ふいと雪也に向かって声を掛けた。
「今日も夕飯いらないから」
「あ、うん」
「それと帰りに病院へ寄るんだ。何か伝言ある?」
「あ……」
創のさり気ないその言葉に雪也は一瞬躊躇したようになったが、すぐに気を取り直したようになると、かぶりを振り、笑った。
「ううん、いいよ。ありがとう」
「そう。それじゃあ行ってくる。行くぞ、うさぎ」
「死ね、涼一!」
「このガキ!」
「剣君」
「何だよ!」
涼一から言い逃げするようにだっと自分の所にまで駆け寄ってきたうさぎを見やりながら、創は薄っすらと笑みを浮かべ言った。
「その花、昔は婚約者に贈った場合は婚約解消の意に取られたんだよ」
「なっ…」
「ま、雪也君は君のフィアンセでも何でもないから、関係ないよね」
「………」
「それとその花、普通は4つに分かれてるけど、運良く5つに割れているのがあったら黙って飲み込むと、愛する人が永遠に離れていかないんだよ。知ってた?」
「………」
「あとホイットマンはこの花の葉をハート型に形容していてね…」
「だから煩いってんだよ、お前は! さっさと行け!」
「ふっ…ごめん、お喋りがすぎたよ」
完全にからかっている。
創は心底楽しそうな目を閃かせると、もう一度雪也に「じゃあ」と手を挙げ、軽快な足取りで去って行った。うさぎはそんな創を物珍しそうに眺めていたが、大人しくその後について行った。
雪也と涼一はそんな2人の去っていく姿を見送って暫し黙り込んだ。
「……ちぇ」
最初に口を開いたのはやはり涼一だった。
「うさぎより性質悪ィよ…あいつ」
「………復活って?」
「え?」
雪也がやっと声を出してくれた事が嬉しかったのだろう。涼一はぱっと顔を明るくすると、雪也が訊いてきた言葉を聞き返した。
「ごめん、何だ?」
「あ…。創が、トルストイがどうって…。それ、何?」
「あ、ああ…。どうでもいい話だよ。トルストイの作品の中に『復活』ってのがあって、青年貴族のネフリュードフが薄幸の女中カチューシャをライラックの枝持って追っかけるってシーンがあるんだ」
「そう…なんだ…」
雪也の複雑そうな表情に涼一は途端慌てた声を上げた。
「お、俺! 別にそんなん全然意識してなかったよっ! たまたま花屋で綺麗だったからさ!」
「うん…」
「だ、大体その時のライラックは白だ! 俺のはホラ、紫だろ!?」
「………」
「別に俺、雪のこと女中とか思ってないし!」
「分かってる」
あまりに必死に言う涼一が何だか可笑しくて雪也はくすりと小さく笑った。
……もっとも、その表情によってたちまち真剣な眼差しを向けてきた涼一には、雪也はまた焦って下を向いてしまったのだが。
「……あ、あのさ」
間が持たなくて今度は雪也が声を出した。
「剣って、本とかよく読むんだ?」
そういえばここへ来た当初、涼一は本ばかり読んでいたような気がする。そもそも涼一自身、このホテルへ来たのは1人になってゆっくりとした時間を過ごす為だと言っていたのだ。
そんな事を思い返しながら、雪也はベッド上で黙って本に目を向けていた涼一の姿を思い出していた。
「好きだよ。雪もだろ」
「え?」
ぼうっとしていたところをたたき起こされたようになり、雪也は慌てて顔を上げた。
涼一が言った。
「雪も本好きなの知ってるよ。時々創から借りたりしてるじゃん」
「あ、うん…。ここでは掃除とか終わらせちゃったらそんなにする事もないし」
「なら今度は俺が貸してやるよ! あ! それじゃ明日からプレゼントは本にするか!」
「えっ」
その突然の提案に雪也は驚いて目を見開いた。
そうだ、こんな話をしている場合ではない。雪也は焦った。
自分はもう「こういう事はやめてくれ」と涼一にはっきりと言う必要があるのだ。いや、いつもはっきり言っているつもりなのだが、涼一がてんで言う事を聞いてくれないのだ。終いには「俺が好きでやってるんだから、雪には関係ないだろ」と逆に怒ってくる始末で。
それでも、言わないわけにはいかない。雪也は決死の思いで口を切った。
「剣、困るよ」
「何が」
「も、もう…こういう風に物、もらえないよ」
「お前、毎日言うな」
呆れたように、半ば面白いものでも見るように涼一は慣れた風にあっさり流した。
それで雪也もさすがに少しだけむっとした気持ちになった。
「剣が聞いてくれないからじゃないか…!」
「だって聞く気ないもん」
「なっ…」
全く悪びれずもせずに涼一はそう言って笑った。未だ雪也の手に握られないライラックを握り締めたまま、それに視線を当てながら言う。
「雪に好きだって伝えたいんだ、俺」
「………」
「すごく好きだって」
「き、聞いたよ…」
「全然伝わってねーよ。俺も伝えきれてない。だから、言葉だけじゃもどかしいから、何か買わずにいられない。駄目?」
「だっ…駄目に、決まってる…」
「……ふうん」
頑固に言い張る雪也に涼一は思い切り不満そうな顔を向けたが、それも一瞬で、すぐにニヤリと笑うとまた平然と言い放った。
「なら俺と付き合えよ」
「剣……」
「俺の恋人になって」
「………ごめんって…言った」
「ああ。じゃ、明日は?」
「え…?」
その言葉の意味が分からずに雪也が困惑すると、涼一はいつも以上に優しい表情を浮かべながらいやに落ち着いた声色で言った。
「今日はそうかもしれないけど、明日は俺のこと好きになってるかもしれないだろ。明日が駄目でも明後日には気が変わるかも。可能性はゼロじゃない。今のお前にはゼロでも、明日の雪には1%の可能性があるかも」
「………」
「だから俺、絶対諦めない」
「何で…」
掠れた声で言ったが、涼一にはちゃんと届いたようだった。
「ん? 何?」
「どうして…俺なんか?」
心底不思議な気持ちで雪也が訊くと、涼一はにっと笑って持っていた花束を突き出した。
そして自信たっぷりに言い放った。
「全部好きだから」
「………」
「雪。お前、すごくイイよ」
「………」
ズキリと、不意に雪也の胸は痛んだ。
何か自分がとうの昔に忘れ去ってしまった感情を揺さぶられた思いがした。
それは悲しくてほろ苦くて、けれどとても大切な感情のような気がした。
「雪? 受け取ってくれるか?」
伺い見るようにして涼一が言った。雪也はそんな涼一をちらりと見ると、こくんと頷いた。
「………ありがとう」
花を受け取って雪也はぽつりとそう言い、そしてそっと顔を上げた。
「……!」
そこには心底嬉しそうな顔をした涼一の姿があった。



To be continued…


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