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雪也が屋上でぼうっと澄んだ夜の星空を見上げていると、ガタンと鉄の扉の開く音と共に涼一が中からやってきた。先刻まで散々にオーナーの藤堂と口喧嘩をしていたせいだろう、喉が渇いているのか手にはミネラルウオーターの入ったボトルが握られていた。
「………」
涼一は特に何も言わず、ツカツカと雪也の傍に寄るとその場に立ったままそのボトルに口をつけた。雪也はいつも洗濯物を干している所のコンクリート面に直接腰を下ろしていたが、膝を抱えた格好のまま涼一の方は見ないようにしていた。
正直、あまり話す気分になれなかった。涼一だからではない。誰とも話す気持ちになれなかったのだ。
「……まだ怒ってんのかよ」
すると涼一がぶすくれた口調で声を落としてきた。雪也が反応を返す前にさっさと後の言葉も継ぐ。
「下じゃまた俺が悪者だぜ。今日は創とうさぎの奴がいないからあのジジイと康久だけだったけど。今も俺がここにいるって分かったら、きっと奴ら飛んでくるぜ」
「………」
「何か言えよ」
黙って何となく涼一の声に耳を傾けていた雪也に、涼一はより一層不機嫌な声で言った。
それで雪也はようやく顔を上げた。びくりと涼一の身体が揺れるのが見えた。
動揺しているような顔も。
「…俺、怒ってないよ」
「嘘つけ!」
すぐに涼一がそう言うので、雪也はやんわりと笑んでかぶりを振った。
「怒ってないって」
「……俺、雪のあいつとの時間、邪魔したんだぜ」
「うん」
「……っ。ほら、怒ってんじゃねーか!」
「違う…」
雪也は苦く笑ってもう一度首を横に振ると、自らの鬱屈とした気持ちを隠すようにして顔を天へ向けた。突き抜けるような真っ青な空だ。夜の空なのに青いと感じたのは何だか不思議だったが、今のこの気持ちとは裏腹に、煌く星たちを包み込んでいる色はやはり青というのが適当な気がした。
明日もこんな天気だったら洗濯物をたくさん干そう。
「雪。何だよ、何か言えよ」
黙っていると涼一が我慢できなくなったようにまた声を掛けてきた。
それで雪也ははっとして再び傍の涼一を見やり、それから情けないように目元を緩めるとため息をついた。
「俺、あの人に言う勇気なかった」
涼一が何も言わないので雪也は続けた。
「分かってるんだ…。剣の言う通りで、護先生は俺に恋愛感情なんて…持ってないんだよ。…でも俺はそれでいいって思ってたんだ。ずっと…それでいいって……」
ごくりと唾を飲み込んで雪也は言った。
「……だって先生は俺にとても優しいし、必要な時はいつでも傍にいてくれるって言ってくれた。本当嬉しくて…すごく…贅沢で。俺には十分過ぎるくらいだって…」
「それが?」
涼一の厳しい口調に一瞬雪也は言い淀んだが、下を向いた後、再び続けた。
「なのに、今日は凄く訊いてみたくなってたんだ。俺が好きって言ったら、恋愛感情持ってるって言ったら…どうしますかって」
「………」
「でも怖くて訊けなかった」
「何で」
「何でって…」
俺は涼一じゃないから。
真っ先にそんな言葉が出そうになって、雪也はそんな自分自身に驚いて口を噤んだ。
そうだ。そもそも護に対して恋愛感情うんぬんなどという事が気になったのは、この涼一に告白されたからではないのだろうか? 真っ直ぐに自分の事が好きだと、一緒にいたいと言ってきた涼一と面と向かったから、こんな感情を抱き、こんな事をしてみたいと思ったのではないか。
こんな行為、即ち。
好意を口にするということ。
「………雪は馬鹿だ」
涼一が吐き捨てるように言った。
「お前だけじゃない、護もそうだけど。相手を好きだから好きって言う事の何を躊躇う必要があるんだ? しかもどう見たってお互い好き同士だろ。特別に想ってるだろ。男だから? ケッコンできないから? もしそんなくだらない事で二の足踏んでるんだとしたら、マジお前ら軽蔑するね」
「剣…」
「だってそうだろ? 護、大体何だよあいつ。『雪が俺を必要とする時はいつでも、何をおいても雪の所へ行くからな』だ? それが愛の告白でなくて何なの? それが恋愛感情持ってない? 俺が訊いた時あいつは何だかびっくりした顔してたけど。持ってるに決まってんだろ、むしろそれ以上だろ、馬鹿みてえ」
「な…何言ってんの?」
護が言った言葉を一言一句真似した涼一は一見冷静な風だったが、その実ひどく憤っているのは間違いなかった。その証拠に段々と早くなっていったその口調には、ところどころに鋭い棘が含まれていて、それで雪也は思い切り狼狽した。
「あの…剣…」
「だから…お前らイラつくんだよ!」
そして涼一は雪也のその怯えたような呼びかけによって。
「くそっ!」
「……!」
怒りが一気に噴出してきたようになって、涼一は持っていたボトルを思い切り足元に向けて叩きつけた。雪也がびくんと身体を揺らした時には、衝撃で外れた蓋と一緒に中から透明な水が四方八方に飛散した。
「………」
そうして雪也はじくじくとコンクリート面を濡らしていく水を黙って眺めた。ボトルはごろごろと転がり、遠くへ行ってしまった。
涼一が言った。
「何でそんなに怖いんだよ」
「………」
「何で好きなものを好きって言えないんだよ。何が怖いんだよ」
「………」
「好きなんだろ?」
「……好きだよ」
雪也が素直に答えると、涼一は一瞬黙りこんだものの、すぐに馬鹿にしたような声色で言った。
「はっ…。だったら何を迷ってんだよ」
「………」
口を開きかけた時、また「あの声」が聞こえた気がした。


お前なんか大嫌いなんだよ。


「……っ」
「……雪?」
「あ…あの時…」
「あの時?」
やや息を荒く継いで声を押し出した雪也に涼一は怪訝な顔で問い返した。
雪也はそんな涼一を見る事はできず、膝をぎゅっと抱えたまま呻くように言った。
「護先生を…母さんの、代わりにした…」
「……は?」
涼一の呆けた声に雪也はズキリと胸を痛めたが、今更止める事もできなかった。この人は自分にいつでも素直に正直にぶつかってきてくれるから、なら自分も返さなければならないと思ったのだ。
こんなにも強く背中を押してくれるから。
「人に…縋った、り…。好きだって言うのが怖かったんだ…。また突き放されるのが怖かったから。母さんに突き放されるのが怖くて、それで、逃げて…」
「……それ、お前がここに来る前の話か?」
一気に改まった声になった涼一を意識しながら雪也は頷いた。
「護先生は優しくて…温かくて…。否定しなかった。俺は悪くないって、大好きだって何回も言ってくれたんだ…。安全で…安心で…」
だから好きだと思ったのだ。
あの腕にずっと守られたなら、一体どれだけ幸せで満たされた気持ちになれるだろうと。
「でもまた…母さんみたいに拒絶されたら…」
「……それで言えなかった?」
黙って頷くと、涼一は暫く考えた風になって沈黙した。
いきなりしんとした事で、雪也は夜の冷えた空気が一気に肌に突き刺さってきたような気がして、ぶるりと肩を震わせた。
こんな事、やはり言うべきでなかっただろうか。
けれど、好きと言えない自分に好きと言ってくれた涼一だから。
「雪」
するとその涼一はすっと隣にしゃがみこむと、未だ憮然とした顔つきのまま、じっと雪也のことを見据えてきた。
「……?」
戸惑いの色でその目を見つめ返すと、やがて涼一は躊躇いがちになりつつも、そっと腕を回して雪也の肩を抱いた。
「剣…?」
「昔、お前に何があったのか知らねーよ。それに俺は護と違って大人のフリなんかできないからな。お前の親代わりになるのなんかも真っ平だ」
「そ……」
そんなの当たり前だと言おうとした唇を指先で封じられ、雪也は自分に向かってくる涼一をただ見つめるしかなかった。
「けど俺はお前が好きだ。……お前が俺のこと嫌いでも」
「………」
「分かったらキスくらいさせろ」
「え…。…ん…っ」
言うや否や塞がれた唇。
雪也は涼一のその強引な所作に面食らいながらも、それでもそのキスを受け入れてしまった。多少抵抗を試みるように相手の胸元においた手も、ぎゅっと握られてそのまま拘束された。
「ふっ…」
「……好きなんだよ。お前が誰を見ていようと、何を抱えていようと。どんどん好きになってんだよ」


お前のせいなんだぜ?


涼一のその言葉は夜の外気に浮かび上がり、そして消えた。
「剣……」
けれどそれはコンクリート面に染み渡った水のように、雪也の心の中にもどくどくと広がっていった。



To be continued…


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