―26― 「涼一は?」 最近の康久は雪也が1人でいると必ずそう訊いてくる。その時雪也は相変わらず帰りの遅い創とうさぎの為に夜食の用意をしていたのだが、カウンター席の康久はとにかく自分の話し相手をしてくれと言わんばかりの態度でせがむ様に言葉を切った。 「なあなあ俺もそれ食いたいなあ、駄目? 見てたら何か美味そうなんだもん。あ、別に今日の夕飯が足りなかったってわけじゃないんだけど、今日はめいっぱい動いたから小腹が空いちゃってさ。あそこの店長、人を馬車馬のようにこき使うんだぜ。嫌になるよ全く」 「でも康久、今のところ凄く長く続いてるね」 「今回はねー」 雪也の反応に康久はぱっと嬉しそうな顔をすると子どものように両足をばたつかせた。 足の高いカウンター席の椅子はどうしても足が浮く形になる。それが鬱陶しいと感じる者はソファ席に行く事が多いが、雪也と話したい康久やうさぎなどはこの席をよく好んだ。 もっともこの頃は涼一にそのポジションを取られがちで、康久がこうしてカウンター席から雪也に声を掛けるのは久しぶりだったのだが。 「どんなに辛くても頑張りますよ。金、すげー貯めてるから、今」 「え?」 康久にミルクたっぷりのコーヒーと創たちに作っていたサンドウィッチを出しながら、雪也は友人のその思いもかけない言葉に驚いたような声を出した。 そんな雪也に康久は飄々として応える。 「そろそろここ出て行こうかなって思ってるから」 「そう…なんだ」 「何だよー。『康久行かないで!』って止めてくれないの?」 「あ…」 「ははは、嘘うそ」 慌てる雪也にすぐに首を振り、康久は「サンキュ」と言ってからハムサンドをひょいとつまんだ。 もりもりと勢いよく食べてから後を続ける。 「まーこの間からオーナーにもいい加減せっつかれてたってのもあるけどさ。今、部屋満室状態だろ? 後がつかえてんだってさ。それでまあ…そろそろ出てもいいのは俺だろうと」 「本当は…出て行きたくないの?」 「まあ。ここ楽だから」 けど金のかかるホテル暮らしはそれはそれで痛いかなと、康久はまた軽い調子で言った。 コーヒーをスプーンでがちゃがちゃとかき混ぜるその顔にはどことなく苦い笑みが含まれている。 「俺さ、外は外でいいもんかもって最近ようやく思えてきた。恋愛に関してはまだ冗談じゃねーって感じだけど。あっ、勿論雪也となら恋愛したいけど! その気持ちはバリバリあるけど!」 冗談なのか本気なのか分からないような言い方で康久はそう言い、それから大袈裟にため息をついてみせた。しかしそれは憂鬱とは違う、むしろどこか楽しみを秘めたものに見えた。 「けどまぁ、あの我がまま大王が来ちゃったから。雪也に関して俺の出る幕はもうないんだよな」 「え…?」 「だから。涼一サマのことだよ。雪也にぞっこんの我がまま大王。大魔王か?」 皮肉交じりにそう言って康久は笑い、それから再度「涼一は?」と階段の方を見やりながら訊いた。 「今、風呂使ってるよ」 「雪也の部屋の?」 「あ、う、うん…」 「涼一の部屋の、直ったの知ってる?」 「えっ!? な、直ってるの?」 雪也が驚いたように声をあげると、康久は可笑しそうに目を細めて「やっぱり知らなかったんだ」と笑った。 「オーナーがいつまでも雪也の所のを使わせたくないって言って、あれだけごねてたのに業者呼んだんだよ。…けどやっぱそんなの意味なかったな」 まったく凄いよと、康久は心底感心したように言い、何やら訳知り顔で頷いたりもした。 「涼一のあのパワーを見てるとさ、何か呆れるは呆れるんだけど、ちょっとは尊敬できるとこもあると思うわけだよ、俺は。だってあんな護さんみたいな強敵がいるのにまるで物怖じしないでさ、雪也を本気にさせようとしてるわけじゃん。……俺にはそこまでの気概はないな」 雪也が困ったように言い淀んでいるのに構わず康久は言った。 「あいつは強引で無茶な奴だけど、でも雪也にはそういう風に無理に引っ張ってくれる奴が案外といいのかもしれないよ。だって雪也変わったもん、涼一が来てから」 「俺…?」 「うん」 嬉しそうに笑ってから、康久は再びサンドウィッチにかぶりついた。そんな康久の姿を見つめながら、雪也は康久も変わったなと思った。 いつも明るく笑っているけれど、康久は本気の恋愛をするのは怖いといつか雪也に言っていた。それは雪也自身、身に染みて共感できることであり、だから康久と一緒にいる事は楽だと思った。きっと康久もそうだったに違いない。一緒に話したり、ご飯を食べたり、屋上に上がって星を眺めたり。 けれどそれは「恋愛」というものではなくて、互いに傷つけず傷つかずの状態を維持しているだけの進展のない関係でもあった。 涼一はそれを望んでいない。それが康久との決定的な差だった。 「まー、あいつむかつくんだけど」 康久が言った。 「でもあれでいいところもあるじゃん? 雪也もさ、だから頑張って」 俺も頑張るから。 康久はそう言ってから、「明日も頑張って働くかー!」と大きく伸びをした。 夜食の用意をし終えてから雪也が自室の0号室に戻ると、涼一は丁度浴室から出て来た所のようだった。窓の傍で上半身裸のまま、濡れた髪の毛を大きめのバスタオルでごしごしと拭いている。 「雪も入れよ」 「うん…」 いつもの台詞。それに雪也が頷きつつ、ベッドに座って動かないのもいつもの事だ。相変わらず涼一がいる時に服を脱ぐ気持ちにはなれないからだった。 ただ涼一もそんな雪也に対して最近ではそれほど煩くは言ってこない。 偉そうな態度は変わらないが。 「雪、俺の部屋の風呂直ってんだよ」 涼一は何でもない事のように突然そう言った。それから驚かない雪也に自分こそが驚いてしまったような顔をして目をぱちくりさせた。 「……あれ。何で驚かないんだ?」 「今さっき康久に聞いたんだ」 「何だよあいつ、下で雪と喋ってたの? ったく、俺がいない時を見計らって…」 涼一はむっとしたようにぶつぶつと文句を言ったが、すぐに立ち直ると言った。 「でさ、俺あっちの使う気ないから」 「え?」 「風呂。これからもここの使う。もう慣れちゃったし」 「………」 「雪は嫌かよ?」 「え…別にいいけど」 「けど、ってのが引っかかるな」 一方的に頼んでいる立場のくせに、雪也の曖昧な返答が気に障ったのか涼一は不満顔だった。 「まあ…」 それでもベッドに座る雪也に近づくと自分もその隣に座り、涼一は変わらない自信に満ちた笑みで言った。 「でも、とりあえずいいならここにいるよ。雪には俺って存在にどんどん慣れてもらいたいし」 「…毎日顔見てるんだから」 「慣れた? …そうならいいけど」 「あ、ちょっ…」 「遅い」 涼一はぴしゃりと言うと、顔を背けようとした雪也を素早く捕まえて唇へのキスをした。 「…ぅ…っ」 「……なあ」 そして涼一は雪也の背中を宥めるように撫でながら、耳元で囁いた。目元を潤ませている雪也の唇を指の腹でなぞりながら。 「俺とのキスにも早く慣れろよ」 「………」 「嫌じゃないだろ」 「剣……」 「でも返事はまだいいぜ? 俺、待てるから」 「あっ…」 そうこうしている間にまた涼一からの口づけはやってきた。 温かい温もり。そして抱擁。 「剣…っ」 「雪…本当可愛いな、お前って」 「………」 恋人同士ではないはずだ。一度は断ってもいるはずだ。 それなのに。 なのに2人は毎晩こんなキスをしていた。そして涼一は雪也の唇に触れ、頬に触れ、衣ごしにではあるが雪也の身体にも折に触れ触れてきた。 そして雪也はそれに逆らわない。 「あ…っ」 涼一の指先が内股を這うように撫でてきて、雪也は思わず声を漏らした。カッと顔が熱くなった。 どうしてしまったのだろうと思う。それでも、それを疑問に思っても、雪也は涼一に逆らえなかった。 「剣…やめ…」 「ん…そうだな。じゃな、雪」 「………」 そして涼一は涼一で雪也が何とか出した控えめな拒絶の言葉を聞くと、あとは何でもなかった事のような態度でそのまま部屋を出て行くのだった。 そんな事を、2人はもう何日もの間続けていた。 |
To be continued… |
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