―27― 「あ…っ!」 その日、雪也は久しぶりの悪夢に侵され飛び起きた。 「ゆ…め…」 明るい日の光が頬を照らす。 荒く息を継ぎながら雪也はゆっくりと今いる自分の場所を確認し、ほっと肩をなでおろした。 ただ、膝の上の手のひらは汗でぐっしょりと濡れていた。 ここ最近、ずっと平気だったのに。 「手紙…」 雪也は呟きながらベッドの上からデスクに置きっ放しになっている封筒を見やった。 まだ封は開けていない。昨日の夜にオーナーから渡されたが、受け取るだけでもやっとだった。 「……嫌だな」 ぽつりとそう吐き出してから、雪也は機械的にベッドから足を出した。 朝食を作らなければと思った。 「いって…。くそ、あのバカうさぎ…」 「自業自得だよ」 雪也が店に入ると、カウンター席には既に涼一とオーナーの藤堂がいた。向かいあわせに何やら喋っているようだったが、雪也の姿を見つけると2人して同時に「おはよう!」と挨拶してきた。 それで雪也も何とか笑みを返して「おはようございます」と言った。 夢は夢だ。余計な事を考えるのはやめようと思った。 「雪也、見てみなよ。涼一の腕についてるこの歯型」 「え?」 言われた意味が分からずに雪也が首をかしげると、涼一がむっとした顔で左腕を掲げて見せた。 「これだよこれ。うさぎの奴に噛まれた」 「また?」 「またってのは何だよ。まあ…そういや、もうあちこち噛まれてるな」 「そのうち穴が開くかもね」 「やめろよ」 藤堂の嫌味な言い方に涼一は更に不機嫌な顔になり、そっぽを向いた。…もっとも雪也が近づいてその痛々しい腕に触れてくると、涼一はもうふにゃりと嬉しそうな顔になっていたのだが。 「これ…思い切り噛まれてるね。手当てする?」 「雪がしてくれんならする」 「かーっ」 「んだよ!」 唾でも吐きそうな勢いでげんなりした声を出した藤堂に涼一もすかさず声をあげる。雪也はそんな2人を交互に見た後、きょろきょろと他に誰もいない店内を見渡した。 「創やうさぎは?」 「今日はもういないよ。出掛けてる。康久もバイト、那智はまだ寝てるんじゃないのかね」 「……今日はそんなに早く」 康久はともかく、創たちはそんなに毎日一体何処へ行っているのだろうか。 雪也が考え込んだ風に黙りこんでいると、涼一が覗きこむような格好をしてから言ってきた。 「な、雪も気になるだろ。あいつらが毎日何処で何してんのか」 「え…? それは…うん」 「だろっ!? だから俺はその疑問をそのまま奴にぶつけただけなんだよ。なのに思いっきり噛んできやがって…」 「どうせズケズケとしたいつもの態度で訊いたんでしょ。あんたにはデリカシーってもんがないから」 「デリカシー? は、何言ってんだ。そんなものと一番縁遠いような顔した奴が」 「何ですって〜!!」 「ふ、2人共、朝から喧嘩しないで…っ」 雪也が慌てて2人の間に立ちふさがるようにすると、涼一は不服そうながらも開いた口をぐっと閉じた。 それから慰めのように傍の雪也を引き寄せてその手を掴む。藤堂がすかさずカッと目を見開いて面白くなさそうな顔をしたが、涼一はまるで知らぬフリだ。雪也は1人で焦ってしまった。 それでも涼一からの拘束を振り解く事もできず、雪也はそれを誤魔化すようにして口を切った。 「それで…結局創たちが行っている所は分かったの?」 「ん? ああ、創が『噛まれ損なのもカワイソウだから』とか何とか恩着せがましく言ってさ。その後聞いたよ。何かうさぎの母親が病気らしいぜ。家に見舞いに行ってるって言ってた」 「え……」 驚いている雪也に構わず涼一は続けた。 「でも死ぬような病気じゃないって言ってたからそんな心配はいらないんじゃないの。…けど『家に見舞いに行く』ってのもヘンな言い方だよな。何があったのか知らないけど、そんな毎日帰るくらいだったら暫く家に戻ってても良さそうなもんなのに」 「涼一」 しかし不思議そうな涼一に藤堂がすぱっと口を切った。 涼一が言葉を止めて自分を見るや否やすかさず言う。 「余計な事は言いなさんな」 「何で」 「何でもだよ。誰もがあんたん家みたいに平穏ってわけじゃないんだから」 「はあ…? 一体俺ん家の何を知ってて平穏なんて言っ……まあいいけど。分かったよ、他人に干渉しないのがこのホテルのルールだったな」 「そうだよ」 「まあ別にいいよ。俺、生意気うさぎの家の事情なんか別に知りたくないから」 「……涼一、あんたって本当性格悪いわね」 「俺ほどいい奴ってあんまいないと思うけど」 「もういいわ。…雪也、悪いけどコーヒー淹れてくれる?」 「あ、すみません、すぐ…」 「雪、俺も!」 藤堂に続いて涼一も明るくそう言い、雪也を掴んでいた手をぱっと離した。 それで雪也は慌ててダイニングへ向かった。 うさぎの顔がふっと浮かんだ。 家。 母親。 「……辛いだろうな」 うさぎの事情を雪也は何も知らなかった。うさぎも言わなかったし、雪也も訊こうとしなかったから。 けれどこの時雪也には何となくうさぎの苦しさが分かった。家には帰れない、けれど病気の母親が心配で家に戻らずにいられないその心境。 考えるだけで雪也の胸はツキンと痛んだ。 朝食の支度をした後、雪也は涼一の為に救急箱を取ってくると言って再び2階の自室へ戻った。入れ替わりのように那智と階段の所ですれ違ったが、今日の彼女はどことなく血色もよく、元気そうだった。 那智の背中を見送った後、雪也は部屋に入って消毒薬を入れた箱を戸棚の引き出しから探し当てた。 そしてそれを取ろうとして、ふと雪也は涼一がこのホテルに来たばかりの頃のことを思った。 一体どこで作ってきたのか、あの時手に傷を負っていた涼一は雪也に手当てをされる事を嫌がった。ひどくぶっきらぼうな態度で、近寄られるのを億劫がって。 それから先刻顔をあわせた那智。彼女は涼一が来た当初は自分の部屋から出る事ができなかった。見知らぬ人間と食事する事を異様に恐れて。 けれど今、あの2人は明らかに変わっている。それもとても良い方に。 涼一たちだけではない。康久はすっかり元気になってホテルを出て行くという。 創とうさぎも頻繁に外へ出て行く。辛くとも、家族と向き合おうとしているうさぎは強いと思う。 それでは、自分はどうなのだろう。 「………」 薬の箱を見つめたまま、雪也は思わずため息をついた。 康久は「雪也は変わった」と言ってくれたけれど、護も「もう大丈夫」と言ってくれたけれど、自分ではやはり自信がないと雪也は思う。 何も変われていない。強くなれない。 現に自分はあの机の上にある封筒を開けることすらできないのだから。 「雪」 「……っ!」 その時、突然かけられた声にびくっとして、雪也は肩を震わせて声のした方へ強張った顔を向けた。 「な…んだよ、そんなびっくりした顔して」 そんな雪也の態度に部屋に入ってきた涼一は思い切り苦笑して首をかしげた。それから「雪が全然戻ってこないからどうしたのかと思って」と付け足した。 「あ、ごめん。薬の箱探してたから…」 「な、雪」 すると涼一はすかさず雪也の傍に寄ると、伺い見るような視線と共に言った。 「具合でも悪いのか?」 「え…」 「顔色悪いしさ。何か元気ない感じだから」 「そ…そんな事ないよ」 「そうか? でも、うさぎの話したあたりから様子おかしかったし」 「………」 「何か悩みあるなら言えよ」 「……平気だから」 何とか声を出したが、涼一は納得しかねるように黙ったまま傍に立ち尽くしていた。 こういう時の涼一は困る。雪也は居た堪れなくなり、その場の空気を振り払うようにして引き出しから箱を取り出すとそのまま先に部屋を出ようとした。 今、この部屋にいるのはマズイ気がした。 「雪」 けれど涼一はそれを許してはくれなかった。 「なあ…。あそこにある手紙って」 「!!」 ぎくりとして振り返ると涼一はひどく真面目な顔をして言った。 「誰からのだ?」 「あ……」 「俺、知りたいんだけど」 そのストレートな質問に、雪也は固まったままただそう言った涼一の顔を見つめた。 |
To be continued… |
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