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翌日、起きると身体がひどく熱っぽかった。
「どうしようもないな…」
ベッドに横になったままの状態で雪也は自分自身に悪態をついた。ちらと枕元の時計に目をやると、いつもの起床時間を20分程過ぎていた。起き上がらなければ朝食の支度に間に合わない。
「いっ…つ…!」
しかし無理に上体を起こした瞬間、背中がキリリと軋むように痛んだ。微かに眉を寄せ、どうしてこうすぐに弱ってしまうのだろうと、内から湧き上がる情けなさでどうしようもなくなった。
たかが母親からの手紙1つで動揺し、苦しむなんてどうかしているのだ。普通ならあり得ない。
「バカみたいだ…」
わざと声に出し、雪也は勢いつけて今度はベッドから抜け出した。背中の痛みと身体全身を襲う倦怠感はそれで余計にひどくなったけれど、気づかないフリをして部屋を出た。
通路は静かだ。まだ皆寝ているようだった。



「あ…」
けれど店内であり、宿泊客たちの食事場であるフロアのカウンター席には既に涼一の姿があった。
「お、おはよう…」
驚きながらも雪也は入口前で立ちすくんだ格好になりながら涼一に小さいながらも挨拶をした。
「………」
けれど涼一は応えなかった。雪也に視線すら合わせず、自分で勝手に淹れたコーヒーを啜りながら新聞に目をやっている。
本当に嫌われたんだ。
「……何か、食べたい物ある?」
試しにそんな事を訊いてみたが、やはり反応はなかった。雪也は諦めて店の奥にあるキッチンへ入り、冷蔵庫を開けた。何を作ろうかと、熱でまとまらない思考を必死に奮い立たせながら、それでも雪也は背後にいるだろう涼一のことがただ気になって仕方なかった。
気だるさはいよいよひどくなっていた。
「まだ準備中だよ」
その時、店の方で涼一が誰かにそう言う声が聞こえた。
ドアを開ける時の鈴の音が聞こえなかったのでおやと思ったが、どうやら誰かが店内に入って来たらしい。カウンター席の涼一がその誰かに立て続けに言っている。
「ここ、開店確か遅いんだ。悪いけど出直して」
「君はここの店の人?」
「!!」
その声に雪也は一瞬で凍りついた。
「いや。俺も客。毎朝ここで朝飯食ってる」
「それなら俺もいいだろう? ずっと飛行機に乗りっぱなしで疲れていてね。腹も空いたし、ここで食べられるなら丁度いい」
「駄目だって。ここ、朝はここのホテルの宿泊客専用なの。他所の人は入れられない」
「そうなの? うーん、参ったなあ」
「何が参ったんだよ。後で出直してこいって」
冷蔵庫を開けたまま、雪也はただ淡々と続けられるその会話にただ全神経を集中させていた。どくんどくんと徐々に激しくなる鼓動を抑えられない。この音が今涼一と一緒にいるあの相手に聞こえてしまったらどうしようと、それがひどく気になった。
息をするのも怖い。自分がここにいると知られたくない。

「実はね、俺、ここにいる人を訪ねて来たんだよ」

その人物はカウンター席にいるだろう涼一にそう言った。明るく屈託のない口調。
間違いない、あの男だ。
「ここの宿泊客だと思うんだなあー。ここへはその人を頼りに来たから、とりあえず時間を潰す場所も何も知らなくてね。できればここでその人を待たせてもらいたいんだけど」
「そんな事俺に言われても困るよ」
涼一は不機嫌だった。
恐らく、この人好きのする声の主に対し含むところは何もないだろう。涼一のこの態度の悪さは偏に雪也と気まずい状態にあるが故だ。
しかし突然の来訪者は当然の事ながらそんな事情は知らない。余程自分が疎まれていると思ったのだろう、恐らくは肩を竦め苦笑気味に言った。
「ここのオーナーは? 他の従業員でもいいけど。俺が探している人が本当にここにいるか、それだけでも確かめたい」
「従業員ならこの奥にいるよ。メシ作ってる」
「!!」
涼一が自分を指した事に雪也は気づいた。ひっと声にならない声で悲鳴をあげ、雪也はその場に座り込んでしまった。気づかないうちに膝ががくがくと震え、唇も恐怖で戦慄いている。
嫌だ。
来て欲しくない。
来るな。
「けど、入るなよ」
しかし涼一はその人物にきっぱりと言ってからガタリと音を立てた。椅子から降り立ったのだろう。
「俺はただの宿泊客だけど、だからこそここのルールは知ってる。とにかく、ここのオーナーの許可なく指定時間外に他所の人間が入り込むのはタブーなんだ。オーナーはまだ起きてきてないし、いいから一旦は出てってくれ。店が開いたらまた来ればいい」
「そう言われても、何処に行っていいか」
「あんた、いい年して時間の潰し方も知らないのかよ? 外へ行けばここと同じような店がいっぱいあるだろ? とにかく早く出てってくれ」
「……分かったよ」
涼一の頑とした言い様にさすがに相手も辟易したようだ。
ガランと、今度は確実にドアの開く音がして、男が去って行くのが分かった。
けれどその間際。
「俺は水嶋と言うんだ。君も宿泊客なら知っていると思うが、ここに桐野雪也という青年がいると思うから、彼が起きてきたら俺が来たと伝えてくれ」
男―水嶋はやや笑みを含んだ声でそう言った。
雪也の心臓はそれだけで止まってしまいそうになった。
「……あんた、そいつとどういう関係なの?」
涼一のより一層翳った声がその後に続く。
「見たところ父親じゃないよな?」
「酷いな。まだそんな年じゃないつもりなんだが。……まあ、半分当たっていて半分外れているよ」
「何だよそれ…」
「君には関係ないよ。でも、ま…そうだなぁ、あの子とは、イイ関係とでも言っておくかな?」
「……何だと」
最後のくぐもった涼一の呟きは水嶋には聞こえなかったらしい。嬉々とした様子のままそれだけ言うと、水嶋は今度こそ店を出て行った。ガシャンとやや乱暴に扉の閉じる音がして、再び辺りに静寂が返ってくる。
「………」
雪也はただ茫然とし、依然その場に座り込んで動けずにいた。
「何してんだよ…」
するといつの間に中へ入って来たのか、涼一がそんな雪也をやや驚いたような目で見下ろしていた。
「………」
「何してんだって訊いてんだよ」
「………」
ただ顔をあげ沈黙したままの雪也に、涼一は眉を吊り上げると更に追い詰めるような口調を放った。
「誰だよあのにやけた男は」
「………」
「あんなバカくせえ奴と知り合いなのかよ、お前」
涼一の冷えきった声がグサリと雪也の胸を抉った。
「……っ」
「お…おい…」
「う……」
今はいない。あの男は、今はいない。
だから今は大丈夫、今は。
「うっ……」
「ゆ…き…?」
涼一の掠れたような戸惑いの色を含んだ問いかけに雪也は応えられなかった。また涼一を怒らせてしまう、そう思ったけれど喉の奥が何かでつかえてしまってどうしようもできなかった。
意図せず零れ続ける涙も鬱陶しくて仕方がない。
「ひっ…ぅ…ッ」
それでも雪也は自らに襲い掛かってきた恐怖と動揺を抑え付ける事ができなかった。



To be continued…


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