―30― 冷蔵庫に背中をつけ座り込んだまま、雪也は暫し弱々しい嗚咽を漏らし続けた。 「何…なんだよ…!」 イラついたような、困惑したような涼一の声が頭の上に降り注ぐ。 「……っ」 余計顔を上げられなくなって雪也はただ力なくかぶりを振った。放っておいて欲しい。何も訊かないで。そう思っているのにそれを伝える事はできなかった。これでは涼一が困るだけだと分かっているのに、何て進歩のない態度だろう。 「ごめ…」 喉の奥に何かが詰まったように声が出にくくなっていたけれど、雪也は何とか歯を食いしばりながら涼一に向かって謝った。それも最後までうまく言葉にはならなかったのだが。 「………」 涼一はただ黙ってそんな雪也の前に立ち尽くしていた。 雪也はその涼一の影が身体全身に降ってくるようで居心地が悪かった。 けれど一方で、安全だとも思った。涼一が水嶋を追い出してくれなければ今頃どうなっていたか分からないから。きっとあの図々しい男はここまで入り込んできて、自分を見つけてこう言っただろう。 俺から逃げられると思っていたのか? 「何してんだい、あんたら」 その時、突然キンとした高い声と共に入口からオーナーの藤堂がやって来た。 「ゆ…雪也、あんた…!?」 「あ…ッ」 藤堂のよく通った高い声に反射的に反応した雪也は、自分の情けない泣き顔を思い切り目の前の2人に晒す事になってしまった。 「!!」 しかしその直後、雪也のぼやけた視界に見えたものは、自分に対し涙の理由を問い詰めてくる藤堂の姿ではなく、その傍の涼一に物凄い勢いで掴みかかっていく猛牛のような姿だった。 「ってー! 何すんだ、このクソジジイ!!」 「煩いよ、このクソガキ!!」 激昂する涼一に負けないくらいの大声で藤堂は唾を飛ばして威嚇し、掴み上げる両手により力を込めた。背丈こそ涼一の方が頭1つ分ほど高いが、がっしりとした体型の藤堂が本気を出せば相当の圧力になるだろう。 「ぐ…!」 首を締め上げられた格好になった涼一は眉を顰め苦しそうにしつつも、怒りの形相をしている相手をぎっと睨みつけた。 「てっめ、何勘違いしてやがんだ…!」 「何をどう勘違いしてるってんだよ! テメエ、雪也に何しようとしたんだ!!」 「何もしてねーよ、このバカ! 離せ!!」 「離すか! このままくびり殺してやるよ!!」 「オーナー!!」 どんどんエスカレートしていく2人の言い争いに雪也がやっと間に声を挟み込んだ。 「やめて下さい! 違いますから!!」 「違うって何が!?」 「剣は何も…!!」 悪くない、と立ち上がりざま言おうとして、しかし雪也は突然の眩暈に身体を背後の冷蔵庫にぶつけてよろけてしまった。 「雪也!?」 「……ッ」 どんと涼一を突き飛ばし、藤堂が倒れ込みそうになった雪也の身体を支えた。雪也はすぐに「大丈夫ですから」と言って体勢を整えたが、起き抜けに感じた熱っぽさがここにきて一気に噴出してきたようだった。 しきりに心配の声をあげる藤堂の背後で、涼一が雪也を冷めた目で見つめていた。 「すみません。本当に大丈夫です」 その涼一の視線が気になって、ただ痛くて、雪也は藤堂から遠慮がちに身体を離すと無理に笑って見せた。それから自然震えてくる身体を必死に抑えこみながら、「すみません」とまたもう一度謝った。 「……あんた、熱があるね」 目敏い藤堂はそう言って顔をしかめ、それからギロリと背後の涼一を睨んで言った。 「またこのバカがあんたに何か言ったせいとかじゃないんだね?」 「違います」 「だから俺は何もしてねーって言ってんだろ」 「お前は黙れ」 「ちっ!」 自分の言い分などまるで聞こうとしない藤堂に涼一はすっかり頭にきたようになり、さっと踵を返すとその場からいなくなってしまった。 「あ…」 一瞬雪也はそんな涼一を引きとめかけて、ぐっとなり口を噤んだ。 仮に彼を引き止めたとして、自分は一体何を言おうというのだろうか。 「………雪也」 そんな雪也の姿をじっと何事か考え込むようにして見ていた藤堂は、やがてゆっくりと腕組をすると低い声色で言った。 「一体どうしたの?」 「………」 雪也は暫し黙りこくった後、「さっきあの男が来て」とだけ言った。 部屋で荷物の整理をしているとノックもせずに涼一が入ってきた。 「おい」 「………」 涼一は当然のように朝食を摂らなかったが、それは雪也も同じ事だった。藤堂からはとにかく横になれと言われて店から追い出され、朝食は那智が二階の部屋まで運んで来てくれたがとても食べる気持ちがしなかった。 それは勿論熱のせいだけではなくて。 「それ、何の真似?」 そんな雪也に涼一は相変わらずの冷えた声で訊いてきた。 ベッドの上には大きめのボストンバッグ。更にその周辺には、そのバッグに詰めるのだろう、着替えやら本やらが散乱していて、涼一は思い切り眉を吊り上げてベッド脇に立つ雪也を見据えていた。 「なあ。お前、何してんの?」 「……ここ、出るから……」 「何処行くの?」 「………」 「言えない?」 「違う。……分からないから、自分でも」 実際その通りだった。 こんな事は藤堂でさえ賛成しかねるだろう。雪也のホテルに来る前の事情を知っている藤堂は、あの「水嶋」がここを尋ねてきても雪也には決して会わせない、匿ってやると言ってくれていた。だからこうして雪也が当てもなく、何の考えもなくホテルを出ようとしていると知れば、きっと驚き怒るだろう。 それでも雪也は何かをせずにはいられなかったのだ。ただベッドの中でうずくまって隠れているなんて、その方が余程恐ろしい。 「逃げるのかよ」 涼一が言った。 雪也の身に何が起きているのか、勿論知りようはずもない。けれど、だからこそ事情の知らない涼一にすれば、それは明らかにただの逃亡だった。 バッグに入れようとしていた物を手にしたまま、雪也は涼一に言われた言葉に何も返せず項垂れた。 「護のとこ?」 「え……」 「行くんなら、そこくらいだろ」 「………そんな」 実際それを考えないわけではなかったけれど、それだけはしてはいけないような気がしていたから敢えて選択肢からは外していた。 護に迷惑を掛ける事だけはしたくなかった。 「言えよ」 涼一が接近してきた。 「何なんだよ、あれは」 「!!」 その声と同時に、ベッドの上のバッグを床に投げ捨てられて雪也は驚いて身体を竦ませた。 涼一は構わない。爛々とした眼を真っ直ぐに向けて、半ば脅すように雪也に更に近づいた。 「何なんだって訊いてんだ。あの男は何だ? イイ関係ってのは何だ? 恋人か? お前がここに来る前の!」 「何言って…!」 言われた事に思いきり嫌悪を示して、雪也は涼一を悲壮な目で見つめ返した。 それでも涼一はまるで揺るがない。雪也の腕をぐっと掴むと無理に自分の方へ引き寄せた。 「あっ…」 「答えろって言ってんだろ」 「離し…」 「それ以外のことは口にすんな!」 「いっ…!」 また怒鳴られ、その瞬間雪也はベッドの上に押し倒された。 「剣、何…!」 逆らおうとしたがすぐさま上に涼一が覆いかぶさってきて、動揺する雪也の服を無理やりに脱がし始めた。 「何す、やめ…!!」 「男がいたくせに脱ぐのが嫌ってどういう事だ? 清純ぶって、お前ちゃっかりやる事やってたんじゃねーかよ!」 「……!!」 シャツのボタンをむしり取られるようにして外されて行く。剥がされていく。雪也は目を見開いたままそんな涼一の鬼気迫った様子をただ凝視した。 瞬間、自分に無理に覆いかぶさってきた男の姿がフラッシュバックする。 可愛いねえ、ユキヤ君? 「や…!!」 「刺青でも入れてんのか? 勿体ぶりやがって、何隠し…」 「やめ…」 口をぱくぱくと動かしながら必死に拒絶の意を伝えたが、涼一は聞いてくれなかった。シャツを完全に開かれ、半身が自分以外の人間の前で露にされた。 雪也の思考は真っ白になった。 「……何だよ。何もな―」 けれどどことなく拍子抜けしたような涼一の声はぼんやりと遠くの方から聞こえたような気がした。 そして、言いかけて止まった後、何か戸惑ったような調子で訊かれた言葉も。 雪也には聞こえた。 「あ…? お前、この脇腹の…傷」 涼一の長く細い指先がその場所に触れられた時、雪也はまたどっと全身から血が引いていくような感覚に囚われ、そうしてぶるりと身体を1つ震わせた。 「……に」 だから後はもうむしろ簡単だった。 「母さんに、刺されたんだ」 機械的に喋り、事実だけを並べて答えれば良かった。その答えはいつでも自分の心の中で反芻してきた事であり、今更頭の中で組み立てなければならないものでもなかったから。 雪也は目の前にいる涼一を涼一だと認識しようと必死に努めながら言った。 「母さんの恋人…水嶋さんに、無理やり…された、から……。だから母さん、怒って……」 「お前、を?」 「うん」 そう、何故俺を? それは雪也自身が常に心の奥底で抱いていた疑問だった。 息子を無理やりに犯したケダモノを罵倒するのではなく、母はそのケダモノに陵辱された我が子の方を責めたのだ。 お前が汚い、お前が悪いと。 「俺、汚いから……」 だから誰にも触られたくない。 「なん……」 涼一は何かを言いかけたがすぐに沈黙してしまった。雪也はそんな涼一をじっと見やりながら、早くどいて欲しいと、まずそれだけを思った。 早くこの腕を解いて。俺のこの汚い身体を見ないで。 俺の身体に触らないで。 「触らないでよ…」 雪也は泣きながら言った。 涼一の熱は今の自分にはあまりにも強過ぎると思ったから。 |
To be continued… |
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