―3―



雪也がノックをすると、すぐに「何」という不機嫌そうな声がドアの向こうからした。
「食事…運んできたんですけど」
「……開いてる」
一拍、どうしようか悩んだような間があった後、部屋の住人・剣涼一は雪也にそう返してきた。
「………」
恐る恐る部屋の中に入ると、涼一はホテルに来た時と同じ格好のまま、ベッドに仰向けの状態で寝ていた。片腕を額に押し当てているせいで表情は読み取れないが、やはり疲れているらしい。
「……ここに置きますね」
雪也はそんな涼一の姿をちらりと見た後、部屋の中央にある丸テーブルの上に食事の乗ったトレイを置いた。ただ、長い間2号室は空室だったから仕方がないところもあるが、そのテーブルの汚れがどうにも気になった。そこで雪也はズボンのポケットに突っ込んでいた自分のハンカチを窓枠に置いていた水甕に浸して少し濡らし、埃に塗れたそこを丁寧に拭いた。
「………何してんの」
食事を置いてもなかなか部屋を立ち去らない雪也に気づき、涼一が自らの顔を隠していた腕を解いた。
「あ…ここ、ちょっと汚れていたから」
雪也はハンカチを慌ててポケットに戻し、それからすぐに礼をした。あまり長居をしては悪いと思ったのだ。
「すみません。お邪魔しました」
「待てよ」
けれど涼一は慌てて出て行こうとする雪也を引き止めると、むくりと起き上がって乱れた前髪をぐしゃりとかき回し、ため息をついた。
それから俯いたままの状態で言う。
「あんた…ここで働いてるの」
「え…?」
「下、随分賑やかだったけど。皆、ここの客?」
「そうですけど…」
「あんたも?」
「俺も…ですけど、俺はここのオーナーの好意で、皆の身の回りの世話をする代わりにここに置いてもらってるので…」
「客だけど使用人ってこと…」
「はあ…」
確かに自分の立場は非常に曖昧だ。雪也は自分自身戸惑って首をかしげた。
雪也が寝泊りしている0号室はれっきとしたホテル「淦」の宿泊者用の部屋である。長期滞在型ホテルだからトイレ・風呂は勿論、一通りの家具まで揃っているから普通の生活には困らない。そう、少々高い宿泊料金さえ払えれば、ここはとても居心地の良い場所なのだ。
けれど雪也はここの宿泊料金を稼ぐ為に外へ働きに行くという事ができなかった。
だからオーナーの優しさに甘え、ここのホテルの従業員の真似事をしている。否、させてもらっている。
「それ、何?」
涼一の問いかけに雪也ははっとして顔を上げた。
「え…? すみません、何ですか」
「その夕飯。何が乗ってるの?」
テーブルに近寄ろうとせずに涼一は言った。もう両足はベッドから出ているが、立ち上がる気力はまだないようだ。雪也はそんな涼一をじっと見やった後、トレイに乗った食事に目をやった。
「あの…パンと…野菜と豆のスープに、あとは肉とサラダ…」
「あんたが作ったの?」
「あ、はい」
「そんな事までするんだ」

金、ないの?

雪也の方を見ないままに涼一はそう呟くように言い、それから相手の返答など望んでいないかのようにかぶりを振った。
「まあいい…。俺には関係ない事だな。ところで食事だけど、明日からは俺に構わないでいい」
「え…?」
「嫌いなもんばっかりだよ、それ」
「………」
よく見もせずに涼一は吐き捨てるように口を切り、それからふいと視線を逸らし「もう行っていい」とばかりに黙りこくった。
雪也はどうしようかという顔を見せながら、「明日からは」と言っているのだからこれはとりあえず置いていっていいんだよなと心の中だけで葛藤した。何処から来たのかは知らないが、長旅で疲れているようだし、余程空腹になればパンくらいは食べるだろう。
そしてそこまで思うと、雪也はよせばいいのに余計な一言を添えてしまった。
「下で…皆に果物を剥いてたんですけど、それなら食べますか」
「………」
「りんごとオレンジなんですけど」
「なあ」
すると涼一は不意に声を大にして言った。
「ここって、誰にも邪魔されずに眠れるホテルなんじゃねーの? 噂を聞いてはるばるやってきたんだ、好きに過ごさせろよ」
「あ……」
「あんた、煩いんだよ。いちいち」
「ご…ごめんなさい…」
雪也は今度こそ礼をすると、逃げるようにその場を去った。
何を考えていたのだろう。誰もが自分と同じような目的で、想いでこのホテルに来るわけではない。
彼が寂しいかもしれないなどと、それは自分の勝手な憶測に過ぎない。


『雪也。あんたがここに来た時ね。あんた、顔でこう言ってた。【誰も俺に近づくな。でも、何処にも行かないでくれ】ってね』


ホテルのオーナーである藤堂はそう言って慈愛に満ちた顔を雪也に向けた。
このホテルは曰くつきの過去を持つ人間の集まり。
人を嫌い、そして恋しいと想う人間たちの集まり。
けれど。
「馬鹿だな、俺……」
雪也は自嘲の笑みをもらし、そっと2号室を振り返った。
そう、誰もが自分と同じわけではない。余計な行動は控えなければならないのだ。



To be continued…