―31― 雪也の告白を聞かされた時、最初涼一は暫し言葉を失っていた。 「雪……」 けれど涼一は自分に触れないでくれと訴える雪也からは離れようとしなかった。 「う…」 身体の上に跨って雪也のことを押さえつけている涼一。雪也にしてみれば、こんな体勢をずっと取られて重くて苦しくて仕方がない。 けれど勿論、零れる涙の理由はそんな事のせいではなかった。 「頼むから…もうどいて…」 どことなく焦点があっていないとはいえ、じっと視線を向けられる事には耐え難いものを感じた。そろそろと震える腕を上げて、雪也は涼一の身体を無理に自分から引き剥がそうとした。 「………」 それでも涼一はそんな雪也から離れない。距離を取らなかった。 そしてやがて。 「お前」 涼一は雪也の唇に自らの指先をもっていき、言った。 「俺と散々…キスしただろ」 「え…」 「散々触られただろ。そりゃ…」 「あっ!」 涼一が手のひらで雪也の晒された素肌を撫でた。 雪也は思わず声を上げた。 「な…ッ」 「こうやって…お前に直接触るのは初めてだけど」 「つ、剣…!」 意図せず唇が震えどもってしまった雪也に涼一は無表情のままだった。 「お前は…俺のことは、嫌じゃないだろ」 「……っ」 「俺には触られても平気だろ」 「駄目…」 「ちゃんと見ろよ」 厳とした口調で言われ、雪也は反射的にそんな涼一の口元を見つめた。まともに視線を合わせる事はどうしてもできなかったから。 「………」 自分と母とのあの忌まわしい過去はどうにかして忘れ去りたい。けれどそれはどうやっても忘れる事の出来ない悲しい出来事であり、そして誰にでも言えるような類の話でもなかった。思い出す度に胸が抉られるように痛むのに、他人に話して軽蔑されたり憐れみの目を向けられたりしたら絶対に耐えられないと思っていた。 ましてや、この涼一に。 自分のことを好きだと言ってくれた涼一に。 「剣……」 けれど涼一は離れないのだ。どうして。雪也はただ涼一の唇が動くのを待った。 言葉を発してくれるのを。 「なあ」 すると涼一は心底怯えた顔をしている雪也に呼びかけ、そっと言い聞かせるような口調で言った。 「泣くなよ…」 涼一の顔が近づいてくる。雪也は咄嗟に目を瞑った。 「……っ」 「怖がるな」 「う……」 「俺が…忘れさせてやるよ」 「ひ…っ」 「平気だから」 「や…!」 そっと降りてきた優しい優しい口付けだったのに、雪也は痙攣を起こしたように背中を逸らせ、涼一の身体を突き飛ばそうとしてしまった。 「…んぅ…ッ…」 「ほら」 けれど涼一はそんな雪也の身体をがっしりと押さえつけるようにして抱きしめ、つっと頬を撫でながら角度を変え深みを加え何度となく唇を重ね合わせてきた。 「ふぅ…んッ…」 「……っ」 口付けに夢中になった涼一は呼吸をするのを忘れていたのか、雪也の唇から距離を取った時にははっと荒く息をつき、どことなく焦ったような顔をしていた。自分自身ですら今の自らの行動に途惑ってしまったような、そんな表情。 動揺しているのは勿論雪也も同じだったけれど。 「……雪」 そして涼一は雪也の上体を促すようにして起こすと、無理に目を合わせてきて言った。 「俺に傍にいて欲しいだろ」 「え……」 「俺にいて欲しいだろ、雪は」 「つ、剣…」 「ずっとこうしていてやるから」 一方的にそれだけを言い、涼一は途惑う雪也の身体を引き寄せ力いっぱい抱きしめた。 「……っ」 雪也はそんな涼一の態度に驚きながらも、その身近に感じる相手の鼓動を近くに感じてほっと息を吐いた。 じっと目を瞑りその胸に抱かれていると、あの恐怖に満ちた恐ろしい影を追いやり、違う優しい熱を感じる事ができるような気がした。 「剣……」 「今度からはさ…。ちゃんと、涼一って呼べよ」 「え…?」 「これからお前の傍にずっといる奴の名前だよ。それくらいしろよ」 「………」 ずっと傍に。 以前、護もそう言ってくれた。それはとても嬉しくて温かくて、そして切ないものだった。 「雪…好きだ…」 けれど今こうして自分を抱きしめ同じ台詞を言ってくれる涼一からは、護の時とはどこか違う風な感じがすると雪也は思った。 「りょ…いち……」 けれどそれは一体何だろうと考えているうちに、雪也はその涼一の腕に抱かれたままいつしか意識を遠くへやってしまった。 次に目が覚めたのは、何かが大きく割れる音が耳にキンと鳴り響いた時だった。 「……!」 びくりとして反射的に起き上がろうとした雪也は、しかしすぐにやってきた大きな手によって、掛けられていた布団ごとまたベッドに舞い戻る事になってしまった。 「あ…」 「静かに寝ていないと。まだ熱があるよ」 「創……」 いつの間にそこにいたのだろう。雪也が横になっているベッド脇には椅子に座った創がおり、ずっと付き添っていてくれたのか、手には暇潰し用の本が握られていた。 雪也は暫く茫然とした後、はっとして辺りを見渡した。 「剣は…?」 「悪いね、お目当ての人が傍にいなくて」 「そ、そんな…」 「彼は下にいるよ。ついでに他の皆もね。剣君が警察に行かなくて済むように、取り押さえている最中じゃないかな」 「え……」 「いいか、お前!! このまま平穏に生きられると思うなよッ!!」 その時、丁度そう言って叫ぶ涼一の声がホテル中に響き渡った。雪也はぎょっとして身体を揺らし、傍の創を見やった。 しかし創の方は相変わらずの冷静さで感情の読み取れない目をしている。 「は、創…」 「さっきからあの調子だよ。君の…いや、君のお母さんの知り合いという人と、ちょっとね」 「えっ…」 はっとして傍の時計に目をやると、もう夕刻に近い時間になっていた。 水嶋はいつ舞い戻ってきていたのだろう。 そして下で涼一とどんな話を。 「何があったのか知らないよ」 創が先取りして言った。 「けど、珍しく君を俺に任せたと思ったら、これまた珍しく皆に言うんだ。『自分があいつを殺しそうになったら、何が何でも止めてくれ』って。…君と一緒にいたいのに、刑務所に入るのは嫌だそうだ」 「あの…」 「ワケも分からないのにいきなりそんな事を言うんだからね。けど、オーナーがとにかく君にとって悪い人間がここに来る事は確かだから、涼一が暴れても止めなくていいなんて逆の事を言うからさ。皆、とにかく臨戦態勢。那智姉さんまで、うさぎが持っていたバット持って下へ行ったんだよ?」 「皆が…」 雪也が下の様子を何とか想像してみようとしていると、創はここでようやく薄い笑みを浮かべた。 「お陰でその招かざる客は散々な目に遭っているようだよ。ここからじゃきちんと確かめようもないけど。でもとにかく、君はここにいる限りは安心だよ」 創は探るような目を向けて言った。 「だからゆっくり休むといいよ」 「ここにいる限りは…」 「うん」 雪也は創の言葉を反芻した後、じっと所在なく自らの手元に視線を落とした。 「………」 皆に護られて、確かにここは安全だった。水嶋も安易な考えで自分の元に来たのだろうが、ここではあそこでまかり通っていたような事はできない、下手に手は出せないと感じ取った事だろう。 「でも…」 けれど雪也は口篭った。 そう、だからと言ってそれで問題が解決したわけではないのだ。水嶋は執念深い男だし、自分の顔を見ずにこのまま引き下がるとはとても思えない。 そして、何より。 「母さんが…ここに来るって、言ってる…」 雪也はそう呟いた後、また無意識に身体を震わせた。 今更何をしに来るというのだろう。何がしたいのだろう。そればかりが頭を巡ったが、雪也は母の送ってきた手紙の文面を思い浮かべ、唇を噛んだ。 『アンタは母親のアタシを捨てる気なの。』 |
To be continued… |
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