―32― 「雪、康久がこれも頼むってさ」 「あ、うん」 軽快に回る洗濯機をただ眺めていた雪也に、涼一が更に追加のTシャツを何枚か持ってきた。 今日は天気も良く、洗濯をするには持ってこいだ。だから雪也も淦の住人たちが出してくる洗濯物だけでなく、今まで溜めていた枕カバーやベッドシーツなども大量に機嫌良く働いている洗濯機の中へ放り込んでいた。 「俺も干すの手伝うな」 「うん。ありがとう」 しかしそんな日和、気分良く動いているのは何も洗濯機だけではなかった。 ベッドから起き上がれるようになった雪也が自分に柔らかい微笑を向けてくる事が嬉しくて仕方ないというせいもあるだろう。この日の涼一はとにかく上機嫌で、朝食の支度からこの洗濯、はては部屋の掃除に至るまで、何かというと雪也の傍にべったりだった。そうしてそんなあからさまな態度に周りがどんなに呆れても苦笑しても、涼一は全く意に介さずてきぱきと従順な働きぶりを見せた。 そして涼一は、雪也にとても優しかった。 だから雪也もそんな涼一には努めて明るくしていたいと思った。 「何かもうカップルみたいだよなあ」 朝、バイトに行く前の康久がややからかう風にそんな事を言ったが、それを全力で否定したのはオーナーの藤堂だけだった。当の2人が何も言わず、むしろ涼一などは「そうなんだよ」と言わんばかりの顔をしていたので、その場にいたうさぎも那智もそして創も、ただ黙って傍に立つ雪也を眺めるのみだった。 その雪也はただ困惑しながらその場にいるだけで。 いつものようにどう返して良いか分からなくて俯く事しかできなかった。 水嶋を追い払ってくれた涼一が嬉しかった。あんな告白をしたのに変わらず自分に好意を抱き続け、そして「ずっと一緒にいる」と言ってくれた涼一が嬉しかった。 力強く抱きしめてくれたその温度にほっとした。 涼一の事をどう思っているのか、正直それは雪也自身まだ分かりかねるところがあったのだが、それでもオーナーとは違い「カップル」という言葉に嫌悪を抱いていない事だけは確かだった。 「それでな、雪。あそこのパン屋が出した新商品ってやつがすっげー不味くってさぁ。ある意味感動」 そんな涼一は相変わらず雪也の傍でただ楽しい話を続けている。 水嶋を警戒し、まだ外出のできない雪也の為に買い出しに出た先での出来事。そこで自分が思った事など。 「もういいってのに無理やりもっと味見してくれって言うんだよ。で、ハッキリ『マズイ!』って言ってやったら『そんなハズはない!』って更にデカイのを食わせようとすんの。拷問だろ?」 「うん」 雪也は相槌をうちながら自然表情を和らげた。 ただ涼一の声に耳を傾けるだけで、余計な事を考えずに済む自分。心が安らぐ自分がいた。 水嶋が今目の前にいなくとも、彼が必ず自分に会おうと画策してくるだろうこと。 もうすぐ母親がここへ来るだろうこと。 それらの事が身体全身を絶えず確かに苛んでいるはずなのに、ただこの時だけは、雪也は自分を苦しめずに時を送る事ができた。 「あのな、雪。もし雪が良かったら明日はどこか行くか?」 「え……」 その日の夜。 いつものように涼一が雪也の部屋の浴室を使った後の2人の時間に、涼一は何気ない口調でそう言ってきた。 「どこかって…?」 不安そうに問うと、涼一はベッドにいる雪也の方はなるべく見ないようにしているのか、窓際に立って髪を拭きながら応えた。 「どこでもいいよ。この町から少し離れて汽車に乗ってもいいし、勿論近場でも。雪、ここ数日ずっとホテルの中だけだし、そろそろ外の空気吸いたいかと思ってさ」 「………」 「どう?」 何も発しない雪也に涼一は今度は振り返って訊いてきた。 「あー…」 しかしすぐにその相手の表情で察したのか、涼一はやんわりと笑んでからかぶりを振った。 「別に強制じゃないよ。雪が嫌ならまた今度でもいい。ただ言ってみただけだから」 「………」 気を遣わせて悪いという気持ちがあったが、雪也はやはり何も言えなかった。 母親が近いうちに来るという話は既に涼一にも、そしてオーナーをはじめとする淦の住人にもしてあったが、如何せん彼女という人間を知っているのは雪也だけだ。いつ来るとも知れぬ彼女を待つ為にあまり遠出はできないなどと雪也が言ったとして、そんな言い分は誰も信じないだろう。彼らは水嶋に会いたくない為に雪也が外出を拒んでいるのだと、そう感じるだろう。 実際雪也がホテルを出たくない理由はその事も関係はしているが。 「……ごめん」 けれど雪也がどうしても外に出られない、出たくない理由はやはり母親にあった。自分がいない間にここへやってきた彼女が息子の不在を知ってどれほど怒り狂うか、それを考えただけで身体が震えてしまうから。 「そんな謝るなって」 それを知らない涼一はすぐにそう言って雪也に近づくと、自分も隣に座ってその肩を優しく抱いた。 そうしてまるで気にしていないという風に軽く笑い茶化した風に言う。 「俺は別にいいって。俺だって実際どこかへ行って雪を他の人間に見せるより、ここで2人でいた方が楽しいしさ」 「……涼一」 「はは…。最近ずっとそうやって呼んでくれるな。…それだけで俺がどんだけ浮かれてるか、雪は分かってるか?」 涼一はそう言った後、おもむろに雪也の唇にキスをした。 「……」 雪也もおとなしくそれに従うと、涼一はまた嬉しそうに1つ笑った。 そして続けざま、もう一回、もう二回と涼一は雪也へのキスの回数を増やしていった。 「りょ…っ」 「ん…?」 段々と激しくなるそれに雪也が遂に不安そうに肩を揺らすと、涼一はそこでようやく唇を離した。けれど唇同士が再度くっつきそうなその距離が、なかなか遠くならない。涼一は雪也に近づいたまま、互いの呼吸を意識しあえる状態のまま、離れようとはしなかった。 「りょ、涼一…?」 「何」 「な、何って…」 どこを向いて良いのかも分からず、雪也は涼一に身体を押さえつけられたままカッと顔を熱くした。 それでも涼一は離れない。 「あの…」 そして雪也がもう一度何かを言おうとした瞬間、その口づけはやってきた。 「ふっ…ん…」 「なぁ…雪…」 すると涼一は自分の口付けにただ翻弄されている雪也に不意の呼びかけをし、真面目な顔で言った。 「駄目か…?」 「え…?」 「駄目かな…」 「な…」 何をと言おうとして、けれど雪也は自らの手を涼一の身体に触れさせられ息を呑んだ。途端、どくんどくんと激しく心臓の音が鳴り響き、それと共に何か凄まじい警鈴が頭の上で鳴ったような気がした。 「シャワーとか…使ってきたいなら待つけど」 「あ……」 「どうする」 「………」 入らないと言ったらどうなるのだろう。すぐにここで始まるのだろうか。 咄嗟に様々な事が脳裏に浮かび、雪也は途端顔を青くし、思い切り心細そうな目をして涼一を見た。涼一もそれで一瞬は躊躇したような顔を見せたが、それでも言った言葉を取り消す気はもうないのか、ただ静かな眼で雪也のことを見返すのみだった。 「あの…」 けれどその重苦しい沈黙を先に破ったのは雪也だった。 「待ってて…」 「え?」 突然そう言われた事に驚いたのか、涼一はらしくもなくぎくりとした顔を見せた。 「身体…洗ってくる、から…」 「えっ…。ホント?」 自分で言っておいて雪也が頷くと涼一はいよいよ心底仰天したように目を丸くした。けれどその涼一の拙い態度は却って雪也の気を楽にさせた。 雪也は小さく笑って見せた。 「行って、くる…」 「あ、ああ…」 涼一がいる前では、否、他人がいる前では決して裸になれない自分。それなのに我ながら何と大胆な事を言っているのだろうと、雪也は自分自身の言動に理解が及ばなかった。 けれど涼一に誘いの言葉をかけられた時、確かに嫌だと思わなかったのだ。 雪也は涼一から離れると部屋と隣接している浴室の扉を開き、振り返りざまベッドの所にいるその人をもう一度ちらりと見やった。 涼一はひどく気まずそうに視線をよそへやっていた。 「………」 雪也はそんな涼一の姿を見た後、黙って浴室の中へ入った。 少しずつでも変わっていけたらと思っていたのかもしれない。 |
To be continued… |
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