―33― 少し熱めの温度に設定して、雪也はじっと目を瞑ったままシャワーから流れる湯を頭から浴びた。 「………」 断続的に落ちてくる湯滴の音に耳を澄ます。余計な事を考えてしまうとただでさえ火照っている身体がどうにかなりそうだったから、努めて肌に当たるその湯の感触だけに意識を集中させた。 ザーザーと激しいその音は、先刻からしきりと激しく鳴っている心臓の鼓動と一体どちらが大きいのだろうか。 雪也はとりとめもなくそんな事を考えながら、身体を洗い終わった後も暫くはずっとその熱い湯に身を委ね続けていた。 「雪」 「!?」 けれど不意に耳元でその声が聞こえて、雪也は驚き弾かれたように顔を上げた。 「あっ…」 「ごめん、俺…」 いつの間に浴室の扉を開けていたのか。びくりと肩を揺らして身体を後退させた雪也をなるべく見ないようにしながら、涼一は弾いてくる湯滴に服を濡らしたまま決まり悪そうな声で言った。 「何度か呼んだんだけど、聞こえてなかったみたいだから」 「ご…めん…」 半ば茫然とその台詞を口にして、雪也はただその場で固まっていた。 涼一はいつから自分を呼んでいたのだろう。外に気を向けていなかったからまるで聞こえなかった。 驚愕と困惑とで雪也は涼一の前に肌を晒している事を気にする余裕がなかった。 そして涼一も雪也がその事に気づく前に再度言葉を出した。 「ホント悪い…。けど雪、なかなか出てこないから…。どうかしちゃったのかと思ってさ…」 「え……」 「何でもないならいいんだ」 その声とほぼ同時、ピシャリと勢いよく扉を閉めた涼一はそのままその場から姿を消した。 「………」 雪也はそれでもまだ固まった状態から脱せないまま、暫しその場で未だ流れ落ちるシャワーの音を耳にしていた。 浴室を出ると、部屋は真っ暗だった。 「涼一…?」 ろくに身体も拭かずにいつも眠る時のラフな格好―Tシャツとスェットパンツ―で部屋に戻った雪也は、そこに涼一のいる気配を感じずに眉をひそめた。 ぽたぽたと髪の毛から滴り落ちる水滴にも構わず、バスタオルを手にしたままの状態でベッドに近づく。薄暗い室内だが、カーテンの閉められた窓際から微かに差し込む月の光で足元だけは定かだ。そろそろとそこまで行き、雪也はいよいよそこに涼一がいない事を確信してもう一度視線を周囲にやった。 「涼一…」 再度呼んでみる。けれど返事はない。 部屋の時計に目をやると、浴室に入ってから祐に一時間を過ぎていた。 「………」 呆れられても仕方がない。怒りを買うのも当然だ。 思わせぶりな発言をしておいて、こんなに出るのが遅かったら嫌がられていると思われるに決まっている。そう、実際雪也は怖かったのかもしれない。水嶋以外の男に抱かれた事はなかったし、あの男の執拗な痛みを伴うだけのセックスは、雪也にとってただ酷い記憶しか残さなかったから。だから仮に今、自分の事を必要としてくれる涼一と身体を重ねたとして、あの男の残像が脳裏に過ぎらないとは言い切れない。 だから迷いがあったのだ、きっと。 「ごめん…」 酷い事をしてしまった。ぽつりと謝罪の言葉を口にすると、胸の痛みがじわじわと広がって行くのが分かった。 そして、そう思うともう堪らなかった。 「……っ」 雪也は濡れた髪の毛もそのままに、バスタオルを握り締めたまま殆ど衝動で部屋を飛び出した。そして迷わず涼一の部屋まで走って行き、躊躇する間もなくそのドアをノックした。相手が応える前にそのノブに手を掛ける事すらした。 「はっ…」 そのドアはいとも簡単に押し開いた。 「涼一…!」 「ゆ、雪!?」 部屋には案の定涼一がいたが、部屋に戻ったばかりだったのか室内の中央に突っ立った格好で、突然現れた雪也にぎょっとした顔を見せた。 「雪…お前…」 「お、遅くなって…」 「え…?」 「ご、ごめんっ…」 「あ、ああ…」 「……っ」 顔全部に戸惑いの色を乗せる涼一を雪也は荒く息を継ぎながらただ見つめた。自分の大胆な行動に今頃顔が熱くなるのを感じたが、それでも今更止める事はできなかったし、止める気もなかった。 雪也はごくりと唾を飲み込むと改めて言った。 「あの、涼一…。本当にごめん」 もっと言わなければならない事もあるはずだったが、また口をついて出た言葉は先程のものとほぼ同じものだった。 「ごめん…」 バカの1つ覚えのように。 涼一が何も言わないのを不安に感じながら、雪也は手にしたバスタオルをぎゅっと握った。 「こ、怖かったんだ…。でも、涼一を嫌じゃないのは…本当で…」 「………」 「だから、だからもし怒ったのなら…。ごめ…」 涼一はまだ応えない。焦る気持ちはより一層強くなり、半ば自棄気味に雪也は続けた。 「もう…嫌…?」 「何が…」 やっと声が返ってきた。 ひどく茫然としたような、掠れたらしくない声色。 雪也はもう涼一をまともに見られなかったけれど、勇気を出して口を継いだ。 「お、俺と…やるの…」 「………」 「涼一に…抱いて欲しいんだ…」 言ってしまった。 「……っ」 雪也ははっと息を吐いた後、恐る恐る顔を上げた。 「あっ」 するともうすぐ傍には涼一の顔があり、出し抜け唇を奪われた。 「んっ」 「雪」 すぐに離れたその唇から涼一の切羽詰まったような声が漏れた。 「違うんだよ…」 「え…?」 「逃げたのは…怒ったからじゃない…」 「りょ…」 再び呼ぼうとする雪也を目だけで制し、涼一は悲痛な声を漏らした。 「怖かったのは俺の方だ…。お前の事好き過ぎて…急に…猛烈にあの男が許せなくなった…」 「……っ」 突然出て来たその台詞に雪也の顔はさっと青褪めた。 「あの男」とは勿論水嶋の事だろう。思えば涼一は水嶋との事を告白した後も、そしてホテルにやって来た奴を追い払った後も、雪也の前でその憎むべき相手の名を口にする事はなかった。敢えて雪也の為にそうしてくれているのは当の雪也自身にも分かっていたし、またそれがとても嬉しかったのだけれど、いつも激しい涼一がその事について沈黙すればするほど、涼一が自らの感情を無理に抑え込んでいるのではという不安も強かった。 身体を強張らせる雪也の肩口を強く掴み、涼一は言った。 「カッときちまったんだ…。待っている間もだけど…さっき雪の裸、見た、時…」 「………」 声の出ない雪也に涼一はますます苦しそうな表情を見せたが、もう我慢できなくなったのか続けざま一斉に言葉を吐き出した。 「それで俺、ホントどうしようもなくなって…。このままじゃお前に酷い事しそうだって思ったから部屋出てきたんだ…。悪い」 「涼…一……」 やっと名前を呼ぶと、それに呼応するように涼一は顔を上げた。 そして。 「今、今だって、すごく…」 凄くどうにかなってしまいそうなんだ。 その言葉は口の端には上らなかったが、雪也には確かにそう聞こえたような気がした。 涼一は雪也の顎を強く掴み強引に自分の方へ向かせると、噛み付かんばかりの口づけを再度仕掛けてきた。 「んっ…!」 「お前をあんな奴に…!」 「いっ」 小さく悲鳴を漏らした雪也は、ぬるとした妙な感触と共に感じた苦い味に顔を歪めた。 涼一に噛み付かれて唇が切れたのだ。 「りょ…いち…」 「くそっ…! 雪、そんな顔しないでくれ…!」 「あっ!」 言われたと同時にもうベッドに押し倒されていた。 雪也が目を見開くと、涼一は着ていたTシャツを乱暴に脱ぎ捨て、上半身を露にした格好で雪也の上に覆いかぶさってきた。 「してやるよ、雪…!」 「涼一…」 「もう駄目だぜ…? もう俺、止まんないから…っ」 「……っ」 怖い。雪也は咄嗟にそう思ってしまった。 ここへは自ら望んで来たはずだ。水嶋に与えられた熱を忘れる為、涼一の想いに応える為。 涼一への想いを確かめる為。 「りょ…ッ」 けれど雪也はその相手の名前を最後まで呼べず、逃げるようにぎゅっと目を閉じその視界を遮断した。 涼一の優しい声や優しい愛撫や優しい視線がないのが嫌だった。恐ろしかった。 これではあの男と同じ。 力で組み伏せてくるその強引な力が怖い。 「雪、雪…! くそ、服脱がすぞ…!」 「や…っ…」 「雪…ッ!」 雪也の声はもう涼一には届いていないようだった。 破かれんほどの勢いで服を脱がされ、雪也はただ目を瞑る事しかできなかった。 涼一だから、相手は涼一だから。 必死にそう思うのだが、がちがちになった身体はどうしても言う事をきいてくれない。この冷えた身体はまるで死んでいるようだと思った。 |
To be continued… |
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