―35―



「雪…雪…」
「ん……」
耳元で囁かれ目を開くと、背後から涼一の覗き込むような視線とぶつかった。
「大丈夫か雪…」
「うん…?」
問われた事の意味が分からずに雪也が曖昧に応えると、涼一は困ったような顔になりながらも笑って見せた。涼一はベッドの端に腰掛けるような体勢でいて、既に自分はシャワーを浴び終わったところなのか、髪の毛が濡れていて仄かに石鹸の香りがした。
そんな涼一は自分に背中を向けた格好で丸まっている雪也の前髪を優しく撫でながら言った。
「なんか…泣いてたのかな、と思って」
「え…?」
ぼやけた意識がその言葉ではっきりとし出し、雪也は驚いたように涼一の方を見返した。それからはたとタオルケットから片手を出して自らの頬に触れてみる。涙の感触はなかったけれど、もしかすると跡があるのかもしれない。雪也は慌てて首を振った。
「平気だよ。何でもない」
「そう、か…。ならいいけどさ…」
涼一は言いながら気まずそうに口ごもり、それからそれを誤魔化すように雪也の目元をさっと指で拭った。そうしてすぐに身体を屈めると雪也を背後から抱きしめるようにしてその耳元に唇を寄せる。
「雪…」
「んっ…」
吐息も一緒に掛けられて、そのくすぐったさに雪也は首を竦めた。それを戒めるように項をきつく吸われたが、雪也はそれには逆らわずぎゅっと目を瞑った。
先刻涼一によって与えられた熱が自らの体内でまた熱く火照ったような気がした。
「雪」
「あっ、ちょっ…」
そんな雪也の反応に気づいたのだろう。涼一は嬉しそうな声を出すと背後から雪也の露になっている肌に再び愛撫を加えてきた。タオルケット一枚隔てて涼一の身体が密着してくる。
雪也は慌てた。
「りょっ…いち、今、何時…?」
「知らない」
「あの…っ。もう、朝だと思うから…」
「だから?」
「だから…ッ…」
言おうとしたところにまた胸を撫でられ、雪也は思わず唇を閉じた。外がもう大分明るくなっているのが分かったから、昨夜とは違い数段理性が勝っている。節操のない声を漏らし続けていた自分が急激に恥ずかしくなり、雪也はカーッと顔を赤くさせた。
「なあ雪…。今日もずっとこうしてようか?」
「え?」
そんな雪也に構わず涼一は平然とそんな事を言った。後ろから首筋、背中へと執拗なキスを続けながらまるで現実感の伴わない声で。
「今日も明日も明後日も。ずっとこうしててやる。な…いいだろ」
「りょっ…でも…」
「直慣れるよ」
途惑う雪也を先取りして涼一はすっぱりと言い切った。そうして雪也の肩口を掴んで正面を向かせると、自分はその上に覆いかぶさるようにして真っ直ぐな視線を下ろしてきた。
「 ……ッ」
雪也はそんな涼一と面と向かう形になって居心地が悪くなりながらも、その視線から目を離す事ができなかった。
「雪。俺ンとこ来いよ」
「え?」
「俺の家。ここ出てさ、俺と一緒に暮らそう?」
「………」
唐突に言われたその台詞に雪也は頭の中が真っ白になった。
いつかここを出て行く、という当たり前の事を雪也は今までまともに考えた事がなかったのだ。
「な? あ、大丈夫。ウッゼー家族とか親戚はいるけど、俺は連中と一緒に住んでないし。離れた所で別に部屋借りてるから。このホテルの部屋よりよっぽど広いし、雪もきっと気に入る」
「………」
「……? 何驚いた顔してんだよ」
当たり前だろ? 俺たち、もうずっと一緒だろ?
そんな顔をして涼一は笑って雪也を見据えていた。雪也の無反応に別段気分を害したというわけではなさそうで、むしろそんな態度は想像済みという表情ではあったが、それでも涼一は自分の申し出を雪也が断るなど許さないという空気を持ってそこにいた。
「りょ…」
しかし、そんな涼一を雪也が力なく呼ぼうとした時だった。

ドンドンドン、と激しく部屋のドアを叩く音がした。

「何だ…?」
びくりとしてその音に反応した雪也に続き、涼一がかったるそうな声でドアの方へ振り返った。その間も絶えずドアは叩き割らん程の勢いで鳴っている。
涼一が雪也から離れた。
「ちっ…ったく、しょーがねえなあ、誰だよ!」
ぶつぶつと文句を言いながらドアの方へ歩いて行く涼一を雪也はただ黙って見つめた。
不安な目をして見つめた。
涼一とここを出て、涼一の住む町へ行く。
何て不思議な、まるで他人事のような話なのだろう。
「うるっせえなあ、叩くな!」
その間もドアはまだ鳴っている。涼一もその騒音に耐え切れなかったのだろう、相手を確認する事なく扉の鍵を開けた。
「うっ…!?」
その刹那、開かれたドアの隙間からひゅっと小さな影がまるで一陣の風のように涼一の横を通り過ぎた。
「あっ!」
涼一はそのあまりの一瞬の出来事に思わず声を漏らしたが、その「風」は構う事なくだっとベッドにいる雪也に向かって走ると、そのままぴょんとそこへ飛び乗った。
「うさぎ…」
「雪也!」
驚き途惑う雪也、そして全裸でいる雪也には構わず、うさぎは一言叫ぶと目一杯の力でぎゅっと強く抱きついてきた。
「て、てめ…!」
それに殺気立った声をあげて部屋に戻ってきたのは勿論涼一だ。
上体を起こし、肌を晒している雪也に擦り寄るようにして顔を寄せているうさぎ。
その姿に涼一は一気に怒り心頭の顔でホテル中に響かんばかりの大声を上げた。
「何やってんだ、テメエ!! 離れろ!!」
「うさ…」
「雪也!!」
「雪也じゃねえ! 離れろってのが聞こえないのか!!」
「涼一、乱暴は…!!」
無理やり自分からうさぎを引き剥がそうとその小さな身体を引っ張ろうとうする涼一に今度は雪也が叫んだ。しかし間に挟まれているうさぎはただ頑なに雪也の胸に顔をくっつけ、じっと固まって離れない。
「おい、この状況見て分かんねーのかよ! 雪はもう俺のもんなんだよ、お前が幾ら懐いたって遅いんだッ! 分かるか、ざまあみろ!」
「りょ、涼一…」
「死ね、エロ涼一!!」
「はんっ、そう簡単に死んでたまるか、テメエこそいい加減にしねーと痛い目見せるぞ!!」
「涼一、やめてくれって!」

「本当。子どもの喧嘩じゃないんだから」

「あ…」
すると、ざわついた室内でピンと一本ひどくよく通った声が聞こえて、一同は一斉に動きを止めた。
全員が同時に振り返ると、部屋の入り口近くに創が立っていて、呆れたような視線を向けてきていた。
「勝手に部屋に入ったのは悪いと思うけど、この際問題なのは剣君の大人気なさだと思う」
「な、何言ってんだ、お前! 突然現れて!」
「うさぎ。来いよ」
「嫌だ!」
「うさぎ」
自分の呼びかけにも応えないうさぎに創は多少困惑したような声を出したが、すぐに諦めたようになってため息をつくと、ふいと視線を背後にやった。そうして「駄目だよ、入ったら」と一言言った後、再び涼一に向き直った。
どうやら創の後ろには他の人間もいるらしい。藤堂たちだろうと雪也は思った。
そんな雪也の思いとは関係なく、依然として静かな口調で創は涼一に言った。
「まあ、でも少しはこいつの気持ちも汲んでくれ。君の部屋は2号室。俺たちの部屋は1号室。部屋の壁は薄いんでね。俺も教育上の配慮から、昨晩はうさぎと4号室の康久君の所へ避難したくらいだ」
「あ…」
途端さっと青褪めた雪也に対して、しかし涼一は憮然としているだけだ。むっと尖った唇はそのままに、傍のうさぎの耳を引っ張る。
「あ、そ。俺はてっきり康久とそこにいるオーナーも一緒に聞き耳でも立ててんのかと思ったよ」
「いやに開き直るね」
「あのな、俺たちは合意の上で寝たんだよ。誰に文句言われる筋合いもない!」
「……っ」
あからさまに言われて雪也は居た堪れなくなり、真っ赤になったまま俯いた。
部屋の外に皆もいるのが分かる。昨夜はそんな事にまで気が回らなかった。確かにこんな隣接した部屋同士、あれだけ声を上げてしまえば周りの皆にも自分たちがした事を知られて然るべきというものだ。
うさぎの恨めしそうな視線が急にちくちくと痛み出した。
「……まあ、そうみたいだけど」
暫くの間の後、創が冷静な口調で言った。一瞬涼一などは何の事かと不審な目をしたくらいだが、やがて創が雪也の表情を見て「合意の上で寝た」という言い分を信じたのだという事が分かった。
「……雪はもう俺のものなんだよ」
涼一が言った。
「雪も俺を好きだって言ってくれたんだ」
「分かってるよ」
「だったら早く出てけよ。雪だってそれを望んでる」
「分かってる。うさぎ、行くぞ」
「嫌だ!」
「行くぞ」
「………」
創の厳とした言い方に今度はうさぎも動いた。渋々雪也から離れ、それから傍に立つ涼一の足を思い切り蹴り飛ばす。
「いって…!」
「死ね!!」
「この…!!」
「涼一っ」
「う…っ…」
慌てて止める雪也の声で涼一は止まり、創はそんな2人の様子を見て小さく笑った。
それからドア向こうにいるらしい他の人間達をも追い払うようにして創は言った。
「今日の朝食はいいよ。俺たちはそれぞれ勝手にやるから。……2人でごゆっくり」
「言われなくてもそうする」
投げ捨てるように言った涼一の台詞と共に部屋のドアは閉められた。
はあとため息をついた涼一は「ったく、何だあいつら…」と言いながら改めて雪也の方を見やってきた。
「あ…」
「ご、ごめん…!」
「ちょ…何謝ってんだよ、雪…!?」
「ごめ…」
「おい…っ」
けれど雪也の方は、その後涼一が何度なだめすかせようとも、その日いっぱい、まともに涼一と視線をあわせる事ができなかった。



To be continued…


3436