―36― それから数日経っても、雪也の母親は姿を現さなかった。 「気が変わったんじゃないの。何か仕事やってんだろ? 急に忙しくなったとかさ」 涼一は雪也の母親がどんな人間かを知らない。勿論雪也が詳しい話をしないからだが、そのせいで涼一には「予告通りやって来ない母親」に大した意味があるとは思えないでいる。 けれど雪也は時間が経てば経つ程に「その事」が不安になってきていた。 そしてその気持ちを涼一に対してうまく告げる事ができずにいた。 「煩ェなあ…。分かってるって言ってるだろ!?」 そんなある昼下がり。 乾いた洗濯物を渡しに雪也が部屋に入ると、そこには随分と不機嫌な声で携帯に耳を当て誰かと話している涼一の姿があった。涼一は雪也に気がついてさっと表情を緩めるも、会話をしている相手にはやはり頭にきているのか、またくるりと背中を向け荒っぽい声を出す。 「ああ! ああ、分かってるよ! ……だから分かってるよ! しつこいぞテメエ!」 「………」 ベッドの上に洗濯物を置いてから雪也は自分から背を向けて盛んに相手を罵倒している涼一の背中をそっと眺めた。一体何だろう。思えば涼一がこのホテルに来てから、携帯電話を使っているところなど初めて見た。元々持ってきたくもなかったと言っていたけれど、やはり仕事の話だろうか。そういえば家の仕事を手伝っていると以前にちらと聞いた事があったけれど。 「はぁ? ……ったく。それはお前のせいじゃないだろうがよ…。泣くな、バカ」 不意に涼一の声のトーンが下がった。どうやら向こうが涼一の剣幕に負けたのか、それとも下手に出てなだめる作戦に出たのか。相手の態度が先刻と変わったようだ、涼一が明らかに疲弊したようになって怒りを鎮めていくのが分かった。 「………」 雪也は涼一に気づかれないようにそっと部屋を出た。 話の内容は分からないが、恐らく電話の主は涼一に帰って来いと言っているのではないか。何となくそう思った。 「おー、雪也! ちょっと来て来て!」 「あ、うん」 その時、涼一の部屋から斜め向かい側に見える4号室から、康久がドアの前で手を挙げて呼んだ。 雪也がすぐにそこへ行くと、シャツを軽く腕まくりした康久は額に汗を浮かべながら満足そうな笑みを向けた。 「見てくれよ。部屋、すっげーキレイになったと思わない?」 「あ…本当だ。掃除は俺も手伝ったのに…」 「いいのいいの。最後くらい自分できっちりやりたいじゃん。立つ鳥あとを濁さずってさ」 康久はそう言いながら、開け広げられたドアの向こう、今まで自分の住処だった4号室を感慨深気に眺めた。 部屋の中は随分とすっきりしていた。勿論、元から部屋に備え付けてあった家具はそのままだが、以前は脱ぎ散らした衣服や雑誌・小物類などが部屋のそちこちに雑然と置かれていて、康久は宿泊客の誰よりも生活感溢れる空間に身を置いていた。 それが今はすっかり片付けられた部屋に大きなボストンバックが2つだけ。その他の必要な物は昨日のうちに康久の知り合いだという人間が車で運んで行ってしまった。 「新しいアパートの方はどう?」 雪也が訊くと康久は苦笑して首を振った。 「まーだまだ。全然荷物解いてないし。あんまり物増やしたくないから家具とかそんな置きたくないんだけど、冷蔵庫とベッドとテレビだけは欲しいじゃん。それ買っただけで何か散らかった感じでさ」 まあ、あっちの部屋作りはこれからかな。 康久はどこか清々とした調子でそう言い、また自分の物だった4号室をじっと見つめた。 それからふと、思い出したように言った。 「そういやさ、知ってる? 那智さんとかも出て行くって」 「え?」 雪也が驚いて聞き返すと、康久は視線を落として小さく笑った。 「あ、まだ聞いてなかった? 実は俺も今朝聞いたばっかりだからすっげーびっくりした。何かね、うさぎが家に帰るらしいから、ついでに創と那智さんも自分ちに帰るんだって」 「そう…なんだ…」 「事情はよく知らないけど。雪也になら教えてくれるんじゃん?」 「………」 黙りこくる雪也に康久は未だ顔を上げない。手持ち無沙汰のようにぐりぐりと床の汚れを足で消そうとしながら続けた。 「よく考えたらさ、俺たち家族みたいにずっとここで一緒に共同生活っていうの? してたけど、ホントお互いの事ってあんまり話さなかったよなあ…。そのくせ何か繋がりは深いの。ヘンじゃない?」 「うん」 「あっ。繋がりが深いってのは勝手に俺が思ってただけかもしれないけど。でも、少なくとも俺はここにいると安心したし、素でいられたかな。雪也がいたし、あとの奴らも、まあ話せる連中だったし?」 「うん」 「けど、ここは家じゃないからな。いつかはこういう日も来るよな」 「うん」 自分ではないみたいに、雪也はただ康久の言葉に相槌を打っていた。 康久が出て行く事は以前から知っていたし、それなりに覚悟していたから寂しいけれどまだ驚きはしなかった。 けれど、そんな康久でさえ、いざこんな簡素な部屋を見せられると胸が痛む。 それが那智や創、うさぎまでいなくなるというのは、どことなく嘘っぽくて現実味がなくて、雪也には何とも反応のしようがない出来事だった。 「遊びに来てくれよな、雪也! 絶対招待するから!」 元気がない雪也に焦ったのだろうか、康久は慌ててわざと明るい様子でそう言い、伺い見るような視線を向けてきた。 雪也はそれでもっと慌てた。一生懸命笑って見せた。 「うん。遊びに行く」 「あ、でも、雪也も涼一の所行くんだろ? あいつの国って遠いからなあ、招待するならその前にしないとな」 「え……」 雪也の戸惑いに気づかないのか、康久は自分で出した「涼一」の名前に途端元気を取り戻すと、わざと頭にきたような顔をして両手を腰に当てた。 「あいつ、真面目に調子乗りすぎ! 雪也と両想いになったっつってさ。雪也を自分ちに連れて行くって500回くらい聞かされたんだけど。いい加減にしろっての。雪也も苦労するよなー!」 「………」 「まあ、でも、さ。雪也は涼一といた方がいいと思うよ、うん」 「康久…?」 「だって、あいつといたら余計な事考える暇ないもん。雪也がいつも元気でいられる」 「………」 康久のその台詞に雪也ははっとするものを感じたが、うまい言葉を返す事ができなかった。 「それ誉めてんのかよ」 その声に驚いて雪也がすぐに振り返ると、そこには携帯を片手に憮然とした顔の涼一がいた。 「どっからどう聞いても誉めてんだろ」 康久は自分たちに近づいてきた涼一にとっくに気がついていたようで、ニヤニヤとからかうような目をしながらそんな風に答えた。 涼一はそれにもう一度不服そうな顔をしたが、すぐにさっと雪也の方に向き直ると責めるような口調で言った。 「雪、いきなりいなくなるなよ。電話切ったらいないから」 「あ、ごめん。でも…」 「俺に遠慮するな」 「………」 「分かったか?」 「う、うん…」 「亭主関白だよなーお前」 するとそんな2人を見かねたのか、苦い笑いと共に康久が口を挟んできた。 「るっせーよ」 「で、何、お前携帯使ったの? ここにいる間使わないって言ってたじゃん」 「しょーがなく」 「家族?」 どんどんと質問できる康久が何だか雪也は羨ましかった。黙って2人の会話を聞いていると、涼一は訊ねてきた康久ではなく、そんな雪也の顔をじっと見つめながら答えた。 「家族となんか喋るかよ。俺の秘書」 「秘書だあ? お前、そんなのいるの?」 「だって俺次期社長だもん。使える奴は傍に置いておかないとな」 涼一は手にしていた携帯を見つめながら何でもない事のようにそう言った。 「大体そういうのがいなかったら、あの使えない叔父貴の部下ばっかの中で長期休暇なんか取れないって」 「はあ〜。何だか俺には異世界の話でよく分からん」 そういう話ならあまり聞きたくないと言わんばかりに、康久は片手をひらひらさせて「もういい」のジェスチャーをした。そうしてわざと僻みっぽく、「俺が路頭に迷ったらお前ンとこで雇って」などと嘯いて見せた。 「はっ、ばーか」 すると涼一はそう言った友人に対し、にっと軽快な笑みを見せた。 「あ……」 その表情に雪也は思わず声を漏らした。 「ん? どうした、雪」 「え、あ…な、何でもない…っ」 「何だよ、どうしたんだよ。ヘン奴」 「ヘンなお前にヘンとか言われたくないよな、雪也!」 「だからお前はうるっさいっての!」 「はは…」 康久と涼一の掛け合いに思わず笑みを返しながら、雪也はもう一度「本当に何でもない」と言ってかぶりを振った。涼一はそれで納得したような顔はしていなかったが、雪也はそんな相手に気取られないようにそっと目を伏せ押し黙った。 そう、涼一といると余計な事を考える暇がない。苦しい事から目を背けても平気。涼一が全部護ってくれるから、涼一に身体を預けておけば安心なのだ。 涼一が笑ってくれるととても嬉しい気持ちになるし。 「雪」 「あ…」 物思いに耽っていると涼一がすかさず声をかけてきた。慌てて顔を上げると、涼一は一瞬だけ何か探るような目を向けたものの、すぐに笑って言った。 「夕飯の後さ、ちょっと話あるから」 「え…」 「こいつはなしな。2人っきりで」 「どうせ俺は邪魔者だよ!」 「分かってんじゃん」 ぶーぶーと文句を言う康久に涼一はただ笑っていた。 (……話……) 何気ない軽い口調だった。けれどその「話」は雪也にとって決して軽いものではないという事だけは、もう分かっていた。 雪也はすっかり片付けられた康久の部屋を眺めながら、先日涼一が言ってくれた台詞を思い出していた。 『俺んとこ来いよ』 自分も。雪也は思った。 自分も、康久のようにここを出て行く事ができるのだろうか。 |
To be continued… |
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