―37― 涼一は「外へ行くか」と持ちかけたけれど、雪也は未だ外に出る事に抵抗があった。 水嶋が消えてからもう大分経つし、これだけ涼一のガードが固ければさすがに諦めたかもしれない、そんな思いがあるのだが、それでも雪也は未だ淦以外の場所へ行くのがどうしても怖かった。 それで2人は結局ホテルの屋上へ上がる事にした。 「雪は知ってたの。創とかがここ出るって」 最初にその話を持ちかけてきたのは涼一だった。 夕食後創が「この月の終わりに部屋を出るから」と言った時、驚いた顔をしたのは涼一だけだった。どうやらオーナーの藤堂はその事を康久よりも前に聞いていたらしい。別段何ともないような顔で「うさぎが壊した物の精算が大変だわ」などと嘯いていた。 創はちらと雪也の方を見たけれど、驚いた顔をしない相手に康久から聞いた事を悟ったのか「そういうわけだから」と、それしか言わなかった。 それが雪也には何だか寂しい事のように感じられた。何処へ行くのか、何故急に。そんな思いがあったから、雪也としては創の口からもう少し何か説明らしきものが出る事を期待していた。けれど創はあまりに平然とした態度で何事もなかったのかのように食事を再開してしまったし、他の宿泊客たちもそれ以上の会話をしようとはしなかった。涼一でさえ。 だから雪也も自分から「どうして」の一言を出す事ができなかった。突然訪れようとしている別れに心がついていっていなかったのかもしれない。 「あいつら案外あっさりしてんのな」 雪也が思っていた事を涼一が言った。いつもの定位置、物干し棒の傍に腰を下ろしながら、涼一はすっと真っ直ぐに夜の空を見上げた。 「うさぎなんかもっと泣いて喚いてさ、雪と別れたくないとか何とか言うかと思ったよ。けど全然何も感じてないって顔してメシ食ってるだけだし」 どことなく不満そうな涼一に、雪也は自分も隣に腰を下ろすと苦笑しながら呟いた。 「うさぎ、あれから口きいてくれないんだ」 「え? お前と?」 「うん」 頷くと涼一は心底驚いたというように暫し口を開けたままの状態で沈黙した。 けれど元気のなさそうな雪也の様子に気づいたのだろう、慌てて明るい声を出す。 「はっ、あいつさー。まだ雪が俺と寝た事根に持ってるわけ。いっちょ前に拗ねてやがんだ? バカじゃねえ」 「拗ねてる…のかな」 「雪なんかまだいいよ、無視だけだろ。それはつまり結局は甘えてるだけなんだって。俺なんか会う度攻撃されるからな。蹴ったり噛み付いたり物投げたり、マジどうしようもないクソガキだぜ」 「ふっ…」 思わず笑みが零れた雪也に涼一はぱっと嬉しそうな顔をしたが、すぐにそれを引っ込めるとわざと不服そうに唇を尖らせた。 「なーんで雪はそこで笑うかな」 「だって…涼一って、うさぎと本気で喧嘩するからさ…」 2人が遭遇する度に起こしている騒動を思い出して雪也は自然表情が和らいだ。 確かにうさぎは雪也が涼一の事を受け入れてしまった事を不満に思っているようで、当の雪也にもここのところずっと無視を決め込んでいた。雪也がどんなに話しかけても頭を撫でてみようとしても、さっと逃げるように遠ざかったしまうのだ。 もっとも、雪也が作った食事には誰よりも一番にやって来てがっついているし、遠目でこちらの様子をじっと伺っているのは知っているのだが。 「うさぎ、俺とは口きいてくれないけど、涼一とはいつもじゃれあってるよな。ちょっと羨ましい」 「はあ? お前、雪。それ絶対何か違うから」 雪也の発言に涼一は今度こそ本気で不服そうに口元を歪めたが、やがて思い直したようにふっと息を吐くと改めて上を見上げて何気ない口調で言った。 「誰とだって喧嘩するだろ。本気でさ」 「涼一?」 「だって雪の事だぜ? 本気にならなくてどうするよ」 「………」 突然そんな風に言われて雪也は困ってしまった。 涼一はいつだってストレートだ。自分の気持ちに正直だ。 強いと思う。 「雪、俺たちもそろそろ出ようぜ」 その時、すっと視線を雪也に戻してきて涼一は言った。 それがつまり、涼一の「本題」だった。雪也と2人だけで話したい事なのだ。 「あのさ、俺」 雪也が何も答えられないのを知っているのだろう、涼一はその後の言葉もすぐに続けた。 「もうちょっと雪の気持ちが落ち着くまで待っていてやりたかったけど、俺もそろそろ駄目なんだ。さすがに帰らないといけなくてさ。分かってるだろ、携帯だって使っちまったしさ」 仕事の事を言っているのだろうと思った。雪也はすぐに頷いた。 「言っておくけど、俺だけ一足先に帰るとか、そういうのナシだから。そういうの全然考えられないから。雪は俺と行くんだよ。俺の所にさ」 「……涼一」 「俺の所に来てくれたら雪は好きに過ごしていいよ。ま…正直に本音を言わせてもらえば、雪には家で俺の帰りを待ってて欲しいけど」 「………」 「来るだろ? 雪は俺とずっと一緒だろ?」 「………」 「好きだって言ったじゃん」 「うん…」 「だろ? ならいいよな。別にさ、康久とかオーナーとか一生会えないわけじゃないじゃん」 「………」 「……護だって」 「え……」 その名前が涼一の口から出た事で、雪也は思わず顔を上げた。 雪也の素早いその反応に涼一は案の定むっとしたようだったが。 「……俺、あいつに言ったから。雪、俺のものになったって」 「え?」 「お前の出る幕はもうなくなったって」 「涼……」 一瞬さっと身体から熱が奪われていくようで雪也は今自らの身体を支えているのが自分自身によるものなのか、それすら分からなくなった。 このところ敢えて考えないようにしていたその人物がふわりと辺りを漂い始める。 ああ、こういう不安な時はやっぱりあの人の顔が見たいと思ってしまう自分がいる。それが恋というものとは違う事を、雪也はもう分かっているのだけれど。 それでも。 「雪があいつから精神的に離れられない事知ってるからさ。だからあいつから離れてもらおうと思って病院行ったんだよ、雪に内緒で。……むかついた?」 涼一の伺いを立てるようなその台詞は、しかし決して申し訳ないという気持ちから発せられたものではなかった。むしろこんな事をわざわざこの自分にさせる雪也が悪いとでも言うかのような、そんな口調で。 けれど涼一はその後、黙りこくる雪也にもっと憮然とした様子で言った。 「けどさ…あいつ…護の奴、俺に言ったぜ。雪がこの町から離れられないのは自分がいるせいじゃないって」 「え…?」 「お前、自分で意味分かる?」 「え…分か…」 「………」 すぐにかぶりを振ったが、涼一は納得しかねるような顔をしていた。そしてすっと視線を逸らすと、面白くなさそうに言った。 「あいつって何なんだろな…やっぱむかつく。雪の事何でも分かってるような顔してさ…。モタモタしてる間に雪のこと俺に取られてどんだけ悔しがるだろうって思ってたのに、あいつが心配してるのはただ雪が…お前が幸せなのかどうかって事だけだ」 「護先生が…」 「あれ、たぶん人間じゃねーよ」 護に対してかなり失礼だと言うような台詞を涼一はズバリと言い、それからハッと息を吐いた。 「………」 2人して沈黙して、暫くの時が経った。 お喋りな涼一が黙ると何だか自分の体温だけでなく、周りの空気まで冷える気がする。雪也は途端に心細くなって無理に硬くなっている口を開いた。 「……護先生、何て言ったの」 「ん……」 くぐもった声が返ってきた。雪也はほっとして後を続けた。 「何で俺、この町から離れられないって…?」 「母親を待ってるからだって」 涼一はすぐに答えた。 「お前はずっと…この国に来た時から、ずっとそれだけの為にここにいたって」 本当かよ? 本当にそれが答えなのか? 「………」 涼一の半ば訴えるようなその目は、どことなく憐れみが込められているように雪也には思えた。 |
To be continued… |
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