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翌朝早く、康久は淦を出て行った。
「みんなに見送られるなんて絶対嫌だから」
康久は昨夜の食事の際何度も何度もそう言って、絶対に自分を見送るなと念を押した。
だからその約束を破った者は誰もいなかった。
ただ雪也はそれを徹底する事ができなくて、康久が下の扉を開けた音を確認したと同時、2階廊下の突き当たりの窓からこっそりと外の様子を伺った。
「あ……」
完全に読まれていた。いや、もしかすると康久も期待していたのかもしれない。
「雪也!」
真っ直ぐにこちらを見上げていた康久は、雪也と視線があうとにっこりと笑って手を挙げた。
その笑顔は淀みなく、晴れ晴れとしていてとても強い人間の顔に見えた。
雪也は精一杯笑って見せて同じように康久に手を振った。もう2度と会えなくなるわけではないのだからと、幾度も自分に言い聞かせて。



そしてその日の正午前、今度は那智が「さようならです、雪也さん」と言って雪也の部屋を訪れた。
「那智さん…」
「本当は直接自分の口から言いたかったのですけれど、なかなか言い出せませんでした。でも、今日こそは言わなければと勇気を出してやって来ました」
雪也の部屋の前で、あの以前雪也に見せた絵本を胸に掻き抱き、那智はどことなく緊張した面持ちでそう言った。中に入るように雪也が何度となく促したが、那智は「ここで結構ですから」とそれを固く拒絶した。
実は雪也はここ数日、那智とまともな会話を交わしてはいなかった。
それはつまり、うさぎと同じ理由からでだ。
雪也が那智に挨拶をしても、声を掛けようとしても、那智は口元で何事かをもごもごと呟いた後、うさぎ同様逃げるようにその場を去って行ってしまうのだ。どことなく紅潮した頬を見るにつけ、ああ那智にも配慮のない事をしてしまったのだと、雪也は罪悪の念に駆られた。
そう、那智の部屋3号室は2号室である涼一とは隣の部屋だから。
「あの…雪也さん……」
お互いに黙っていることに焦りを感じたのだろうか、那智が思い切って口を開いた。
「あの、あのですね…。私、出て行きます」
「は、はい…」
「あっ! それはもうさっき言いましたね…。ええと…つまりその、出るのは、創と同じ日です」
「はい」
「あっ! それも創が昨夜言っていましたよねっ。そうではなくて、私が言いたいのは…その…」
那智はますます焦ったようになりながら冷や汗をだっと顔中に掻き、それでいてしっかとその場に佇んで新しい言葉を捜そうと必死になっていた。
そんな那智を雪也は温かい空気に包まれるような気持ちでただじっと見守った。
「……雪也さん」
雪也のその想いが伝わったのだろうか、那智はやがて再びゆっくりと口を開いた。
「あの、ここには随分と長くいましたけれど…。一番楽しかったのは雪也さんがいらしてからです。それからの私は、何だか新しい世界が拓けるような、そんな嬉しい気持ちでここでの生活を送る事ができました」
「そんな…」
「いえ、それは本当です」
否定しようとする雪也をきっぱりと制して那智は続けた。
「それで…。いえ、だからこそ、私は自分も何か雪也さんの手助けができればいいのになあ…と、ずっと考えていたのです。ここには私、自分を癒す為に来ました。人を助ける為ではありません。でも、けれど自分にそういう風な事を思わせてくれた雪也さんに会えた事が、つまりは自分を治すきっかけとなったのです」
「………」
「あっ…。私はまた、分かりにくい事を言っていませんでしたか…?」
何も答えない雪也に那智は焦ったようにわたわたと身体を左右に揺らした。雪也が慌ててかぶりを振ると、ほっとしたように肩から力を抜く。
いつでも真面目で、一生懸命な女性だった。
「雪也さんのお陰で私、家に帰る事ができます。家は…何というか、私にとってちっとも嫌な場所じゃないんですよ。ただきっと…何かを掛け間違えていただけなんですね。それに気づけたので帰る事ができるのです。全部雪也さんのお陰です」
「那智さん…」
那智が何を抱えて、どういう想いでここへ来たのか、その理由を雪也ははっきりと知らない。ただ以前に外でちょっとした揉め事を起こした時に家族と喧嘩をして居辛くなったのだと。
ただそれだけしか。
「私、思うんですよ」
その那智が言った。
「私はたまたま帰る場所を元の家と定めましたけれど、帰る場所って…本当は自分が生まれた家とか…そういう家、じゃなくても…いいんですよね」
「えっ…」
那智の言葉に雪也は驚いて顔を上げた。那智はそんな雪也の方を見ていなかった。
ただいつもの遠慮がちな視線が足元に向かって泳いでいる。
「あの、雪也さんは剣さんとお会いして、康久さんも仰っていましたが本当に変わられました。時々辛そうですけれど、それでも頑張って前に行かなくちゃっていう気持ちが凄くよく伝わるようになったです。だから、雪也さんが帰る場所は剣さんの帰る場所と同じでも…いえ、同じ方がとても素敵だなあと思います」
「………涼一の帰る場所」
「あの…っ。すみません、余計な事をべらべらと……」
「いーや、あんたかなり珍しく良い事言ったよ」
「!?」
その声に那智がぎょっとして振り返ると、そこには涼一の姿があった。
那智を誉めた割には別段嬉しそうな顔もしていなかったが、オドオドしている気弱な女性をこれ以上威嚇する気持ちもないのか、突然2人の前に現れた涼一はいやにゆったりとした落ち着いた声色で後を続けた。
「帰る場所が俺と同じってやつ。いいね、ホント。うん、素晴らしいって俺も思う」
「…………」
「護でも、お袋でもない。ましてやここに永久に住むんでもない。雪のいる場所は俺のいる所だから。だろ、那智さん?」
「は、ははははい…!」
「……まるで脅迫されて仕方なく答えたみたいな返事だな」
「い、いいいいえっ。そんな事はありません、私はこれで…っ」
「? 何真っ赤になってんだ…。ああ…」
涼一を避けるようにさっとその場からいなくなってしまった那智を涼一は不思議そうに見送ったが、やがて得心すると苦い笑いを浮かべて言った。
「何だあの人。もしかして照れてる? 俺と雪の情事思い出して真っ赤になってんだ? はは」
「涼一」
「何? だってそうだろ? それよりさ、創が下で面白いの。オーナーと幾ら払う払わないで言い合いしてんだよ。うさぎが壊した物が相当あるみたいでさ。面白いから見に行かねえ?」
「うさぎは?」
「部屋で片付けでもしてんじゃん? 那智さんとこも荷物整理始めてるみたいだよ。あ、そういえば創はいらない本とか売りに出すって言ってたけど、雪が欲しいのあるならくれるってさ」
「本当…」
「俺にはくれるの一言もねーよ」
涼一はつまらなそうにそう言ってから、元気のなさそうな雪也を伺い見るようにして言った。
「最後になるのが嫌なら、俺の言う通り月の終わり前に出ればいいだけの事だろ。言っておくけどな、今日俺、これから飛行機のチケット取りに行くから」
「えっ…」
突然のことに雪也は思わず絶句した。
「ついでにちょっと買い物してくるから遅くなるけど。雪も来る?…って、行くわけないか」
「………」
「お前が煮え切らないなら、縛ってでも何でもして攫ってくしかないだろ?」
「涼……」
「ごめんな、俺も急いでるから」
涼一は雪也に話させなかった。そうしてさっと踵を返すともう今の会話すら拭い去るようにして階段を下りて行ってしまった。
雪也はそんな涼一を止められなかった。

屋上で答えを出さなかった事を涼一が怒っているのは明白だった。
母親を待っているのかと訊かれ、そうだとも違うとも言えない自分。けれどその沈黙こそが雪也の出せなかった「答え」になっている事を、恐らく涼一は悟った。
だから急いだのだろう。
「………」
これから出掛ける涼一は、己だけでなく雪也が新たに旅立つチケットをも手に入れてくる。それを渡された時、雪也は今度こそこのホテルにいた理由も躊躇いも全て捨て、ここを離れなければならない。そしてそうなればもう二度と、母親は自分を迎えには来ないだろうと、雪也は思った。
「う…っ」
そう思うともういてもたってもいられなくなった。
「涼一…!」
雪也は涼一の名を呼ぶと、自分も急いで階段を下りた。



To be continued…


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