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「何してる?」
振り上げた拳は水嶋によってあっけなく捕らえられた。
「 いっ…」
ぐっと痛い程に手首を掴まれ軽く捻られて、雪也は苦痛に顔を歪めた。
水嶋は笑った。
「ふっ…。この柔な細腕で一体どうするつもりだったんだ? 俺を殴るつもりだったのか? ん? お前が? この俺を?」
「は、離…ッ」
「聞こえないなあ? 何言ってんだぁッ?」
「いっ!」
語尾が強まり荒っぽい空気が漂ったと思った瞬間、雪也は水嶋の硬い拳で左頬を殴られていた。
「……っ」
「つまらない真似はよせ」
冷めた声が降りかかる。痛みと絶望とで視界があやふやになる。殴打の衝撃で頭の奥もガンガンと痛んだ。
声が出ない。
「お前の事もよくしてやるんだ。おとなしくしていた方がお互いに気持ちがいいし、問題も起こらない。雪也は良い子だから分かるよな? ん?」
言いながら水嶋はぺちぺちと自分が叩いた雪也の頬を今度は平手で軽く叩いた。
「………」
ぼやけた雪也の視界に残酷な笑みを浮かべる水嶋の姿が映った。この顔を知っている。それは昔嫌という程見せつけられて、この町に逃げて来た後も夢で何度も見た顔だった。
雪也は半ば茫然としたまま自分の上に跨るその男の姿を見つめた。
「その目だ…。本当にうっとりする…」
一方の水嶋は雪也の恐怖で麻痺したそんな無表情にも感嘆したように呟き、再びその身体を撫で回し始めた。首筋に唇を寄せ粘っこいキスを繰り返す。そうして雪也の片手を押さえていない方の手で性急に自らのズボンのチャックを下ろそうとしながら、水嶋は急くように雪也の身体へもう十分昂ぶっている下半身を擦り付けた。
「ふっ…ふ…はぁッ…」
すっかり興奮したような水嶋の荒い鼻息が雪也の顔にかかった。
剥き出しになった水嶋の性器が雪也の虚ろな視界に映る。
瞬間、雪也は目を瞑った。


「が…ッ!?」


しかし、その直後の事だった。
「くあっ…がっ…」
「……!?」
苦悶するその声に雪也は目を見開いた。
自分の事だというのに感覚がなかった。何も見えない暗闇の中で不意に聞こえたその呻き声。ドサリと何かが転がり落ちた音。と同時に、あれほど掛かっていた水嶋の体重が消えた事に気づく。
雪也は咄嗟に身体を浮かした。
「……ッ」
「ぐぐ…」
上体を起こして見た先には、床でうずくまり両手で頭を押さえながら苦しそうに息を吐いている水嶋の後ろ姿があった。
「あ、あ…!」
苦悶に満ちた水嶋の背中を見た後、雪也はわなわなと唇を震わせながらゆっくりと顔をずらし、先ほどから伸ばしたきり動けなくなっていた自らの左手に目をやった。
恐らくは枕元にあった物だろう、その手には白いカバーのついた携帯用の聖書が握られていた。
「ぐぐぐ…ちっくしょ…!」
水嶋が未だ床でもがいた状態ながら悪態をついた。
「ひ…ッ」
瞬間雪也ははっとし、手にしていた聖書を慌ててその場に投げ捨てた。
自分がやった? 自分が水嶋を殴ったのだろうか? まるで分からなかった。
「くっそ…ふざけやがって…!」
意識はしっかりしているようだが、水嶋は悔しそうに歯軋りしながらしきりに頭を押さえている。床でじりじりと苦痛に耐えているその身体は荒い呼吸を繰り返していた。大丈夫だろうか。一瞬そんな思いが脳裏を過ぎる。けれど雪也はすぐにその愚かな考えを捨て去ると、慌ててベッドから飛び降りた。逃げなければ、その想いが全ての感情に勝った。
しかしドアへ向かおうとしたその行動はあっけなく阻止された。
「この、バカ!」
「…っ…!?」
立ち上がって顔を上げた先、突然投げかけられた鋭い声と激しい殴打に雪也は再度ベッドに雪崩落ちた。
ピシャリと放たれたその平手打ちは水嶋に殴られた場所とほぼ同じだった。ただその痛み以上に、脳天を突かれたような衝撃がベッドに背中をつけた雪也を襲った。
「か……」
「何してんの?」
雪也の倒れたベッドの真正面、そこに立ちはだかった状態でその相手は言った。
「か、母さん…?」
「そうよ」
信じられないという面持ちで自分を見つめる息子に美奈子…雪也の母親は平然として答えた。
一体いつからそこにいたのか。どうやってこの部屋に入ってきたというのか。
これでもかというほどに胸の開いた真っ赤なワンピースにショールを羽織った美奈子は、別れた時のショートカットではなく、肩まで伸びた髪を栗色に染め軽いパーマをかけていた。化粧は相変わらずだ。どぎつく塗りたくった白粉にツンとした香水の匂い。長い睫から射抜いてくる蔑んだ瞳は容赦なく息子である雪也に降り注がれている。
雪也は黙ってそんな母の姿を見つめた。
「うう…。な、何だと…?」
水嶋がようやく身体を起こし、振り向きざま美奈子の姿を認めて驚きの声をあげた。まだ頭を押さえている。出血しているのだろうか、その手のひらには微かに赤い色が見えた。
「み、美奈子…。お前、何故…」
「煩いわね。殺すわよ」
「……ッ」
部屋中が凍りつかんほどの冷たい声を発して美奈子は年下の元恋人を黙らせた。そしてその迫力に茫然としている水嶋の前に、美奈子はまるで見せ付けるかのようにして自分が手にしていた物をゴロンと投げ捨てた。
それは塗料の剥げかけた銀色の四角い置き時計だった。堅いその鉄の箱はこんな緊迫した状況でもカチカチと変わらず無機的な音を立てている。
「こ、こんなもんで…殴りやがって…!」
水嶋がその時計を掴み、再度床に投げ捨てた。雪也は咄嗟にベッド下へ落とした聖書に目をやった。
自分が殴ったのではなかったのか。
「突然現れやがって、何なんだお前は!」
「いつ何処に現れようが、そんなのはアタシの勝手よ。それにね、背中からこれでザックリ刺されなかっただけあり難く思えば?」
「お、おまっ…!」
そう言った美奈子の手には、たった今腕に掛けていたバッグから取り出した小型のナイフが握られていた。刃の先が少し錆びている。雪也は目を見張った。
それは以前に母親が自分を刺した――。
「死ぬ? 今度こそ、これで」
「くっ…!」
「かなり情けない死に方だわよねえ? こんなガキを前にサカリまくって、チンポ半分出しかけたとこでグッサリやられてあの世行き。まあ変態のアンタにはそれもふさわしい最後かもしれないけど」
「ふざけんな…ッ」
「………」
激昂しているものの、痛み故に立ち上がれない水嶋、そんな相手を優位な目線で見下ろす美奈子。
雪也はただ美奈子を見つめていた。
母がいる。
自分を助けてくれた。
ドキドキする鼓動を聞きながら雪也はそろりと再びベッドから抜け出した。
「雪也ッ」
水嶋が叫んだ。折角の好機を逃してしまったという悔しさは勿論のこと、雪也がこのまま再び自分の元から消えてしまうという事を恐れたが故だろう。
しかしそんな水嶋に美奈子が嘲るように言った。
「アンタ、ホントにこの子が好きなのね。アタシと寝たのもこの子に近づく為? まったくよくやるわ、しかも結局こんな所まで追いかけてきて」
「お前に分かるか…! 雪也は俺のものだ!」
「冗談じゃないわよ。この子はアタシのものよ」
美奈子の言葉に雪也は目を見張った。
しかし雪也の心に浮かびかけた期待の気持ちを美奈子はその後見事に裏切った。
「だからこの子をどうしようがアタシの勝手なわけよ。……アンタ、この子が欲しいの?」
「何…?」
「ねえ。欲しいの?」
「……どういう意味だ?」
水嶋が意図を掴み損ねたようになって問い返した。
美奈子はくっと笑って言った。
「こんな役立たずの親不孝者、最早お金で売るくらいしか使い道ないでしょう。まったく、好き勝手にこんな寂れた町で遊び呆けていつまで経っても帰ってきやしない…。アタシが来るって言っても空港に迎えにも来ない。そんなふざけたガキはもういらないわ。だからね、アンタがどうしてもこの子と寝たいって言うなら寝てもいい。ただしタダでは駄目よ。ソレ相応の代価は貰うわ」
「母さ…」
母は何を言っているのだろう。呼びかけようとしたが、うまく声が出なかった。
そんな雪也を無視して美奈子は続けた。
「この子、男と寝るのは嫌いじゃないもの。アタシが言えば言う事きくわ。……たぶんね」
「……本当だろうな?」
水嶋の口元が微かに笑んだ。美奈子もそれに呼応するように笑った。
「………」
雪也はぼうと突っ立ったまま、ずっと会っていなかった、ずっと会いたいと思っていた母親の横顔をただ見つめた。身体全身から血の気が引いていくのが分かった。
母の感情の見えない瞳は息子である雪也のことを映してはいなかった。
「雪也。いいのよ、こいつと寝ても。股広げてやんなさいよ」
「………」
「くっ…。ったく、ワケ分かんねえババアだぜ…」
床で片膝を立てた水嶋が鼻先で低く笑い呟いた。美奈子はそれには反応せず、自らの薄い唇を舐めるとぱちりと物欲しそうに右手の人差し指を噛んだ。
伸びきった美奈子のその爪には、真っ赤なマニキュアが塗られていた。



To be continued…


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