―42― 何よ、その顔。何なのその手は。 まさかあんた、私を殴る気? あんた私に逆らえるの? あんたの事をここまで大きくしてあげたこの母親である私に、あんたは何をしてくれた? 何を返してくれた? あたしはあんたの為に色々なものを犠牲にして、何もかも失っても、それでもあんたを見捨てたりはしなかった。 でも捨てたのは、先にいなくなったのは雪也、あんたでしょ? 先にあたしの所からいなくなったのは、あんたよね。 「…雪、どうしたんだ!?」 まるで遥か上空から急に降ってきたみたいなその驚きの声に、雪也はすぐに反応する事ができなかった。 「雪、雪? どうした、どこか…具合でも悪いのか!? 大丈夫か!? 雪!」 「…も…る…?」 唇を微かに動かしてみたものの、自分自身の耳にすらその声は届かなかった。 それでも雪也はネジの外れた玩具のように壊れて動かなくなっていた身体を無理に揺らし、そっと顔だけを上げてみた。 「雪……」 眉をひそめ心底心配そうな顔で自分のことを見下ろしていたのは、この街に来て初めて心からの安堵をくれた人だった。 「護…せんせ…」 「そうだよ? 俺だよ、雪。雪、どうした?」 「………」 何故この人の声はこんなにも温かいのだろう。雪也はその事が不思議で仕方なかった。 護という青年の声や眼差しや、優しくこちらに触れてくれる仕草のひとつひとつが魔法のように感じられる。奇跡のように思えた。 「………」 そっと遠慮がちに、けれどしっかりと頭を撫でてくれるその手のひらを感じた時、雪也はそれまで抑えていたものをどっと噴出して嗚咽を漏らしてしまった。 「…ッ…」 淦に帰る事もできず、街角の路地で膝を抱えていただけの無力な自分。 情けなくて、けれど護の存在が嬉しくて雪也は泣いてしまった。 「……これからな、雪の所に行こうと思っていたんだよ」 護は雪也にそう言って、それから後はしきりに雪也の名前を呼んだ。 「雪、雪…」 それが雪也には堪らなかった。嗚咽は、だから余計にひどくなってしまったのだが。 けれどやっぱり温かくて。 「…ぅ…ッ…」 「雪、俺はここにいるからな…。だから大丈夫だからな…」 「う、うっ……」 雪也がここにいた理由をすぐに話せるような状態にはないと護は分かってくれていた。 訳も話さず低い嗚咽を漏らすだけの雪也に、護は屈み込んで傍に寄り添ったまま、暫くの間はただ優しい言葉だけをかけ続けた。 母の美奈子は1人ツカツカと部屋の入口へ向かい、そのドアを開くと雪也に言った。 「今夜、あんたのいるホテルに行くわ。そうね、21時くらいでいいかしらね。それまでにこの事、彼氏の涼一君に話しておくのよ。分かったわね」 背後で不満気な声を漏らす水嶋を無視したまま、美奈子は茫然と立ち尽くす息子を冷めた目で見やりながら手にしていた扇子をぱちりと閉じた。 そうして雪也が自分の言う事に逆らうなど微塵も考えていないという風な顔で「さっさと行きなさい」と言うと、後は黙ってドアの向こうを顎で指し示した。 雪也は何も返せずただ部屋を出た。水嶋の舌打ちが聞こえたような気もしたが、もう振り返る事はできなかった。 よろよろと細く長い通路を歩き、気がついた時にはもうホテルの外にいた。 ぐるぐると視界が回り、ああ眩暈がしているのだなとは歩きながらも何となく分かったけれど、それでもとにかくは水嶋から、そしてあの信じられない笑みを浮かべている母から離れたくて、雪也は必死に足を前へ動かした。 部屋に帰りたかった。でも、帰りたくないと思った。 この事を涼一に知らせるなどとんでもない。けれど母が考えている通り、自分が母に逆らえない、その事もまた事実だと思った。 どうしよう、どうしたら。 そんな気持ちでただ無意識に足を動かし続けていたら、気がついた時には通りの路地裏に座り込んで膝をかかえ俯いていたのだ。 もう何もしたくない。動きたくない。考えたくない。 「雪……?」 その時、護が呼んでくれた。 「涼一君がね、雪を連れて行くって言うから」 護は雪也に温かいコーヒーを淹れてやりながら苦笑して言った。 大分落ち着いて歩けるようになった雪也を護はすぐに自分の家へ連れて行った。病室でない、護の診察室ではない護自身の自室。そこへ入ったのはこれが2度目だった。 初めてこの部屋に入れてもらったのは、確か出会ってから2日目の夜の事だ。 あの時はただあの悪夢から逃れられない事が苦痛で、1人でいるのが嫌なくせに病室の白い空間もとても怖くて。追い詰められている時だった。 けれどそんな自分を護はこの部屋のベッドに座らせてくれて、こうやって飲み物を用意してくれた。 あの時の飲み物は確かオレンジジュースだったけれど。 「砂糖とミルクたっぷり入れた。死ぬほど甘いぞ」 おどけたように護は言い、ふと昔の事を考えている雪也に静かな微笑を向けた。雪也はベッドの端に座る自分を正面から見据えているそんな護の顔をぼうとして眺めた。椅子の背に肘を乗せてこちらを見ている護は、こうして改めてみると実年齢よりずっと若く見える。いつも落ち着いていてどっしりと構えているから凄く大人に感じるし、実際護は大人だけれど、そういえば自分とはそれほど離れていないじゃないかとふと思った。 いつまでも子どもで情けないのは自分だけなんだ。 「雪、またくだらない事考えてる」 護が言った。 「早く飲めよ。冷めるから」 「………」 答えようとしたものの声が出せず、雪也はその代わりカップにそっと口をつけた。言われるほどに甘くはなかったけれど、確かに口の中いっぱいに心地の良い味が広がった。 「……うまいか?」 「………」 また声が出せなかった。けれど今度はしっかりと頷き、はっと息を吐いた。 そんな雪也の事をやや安堵した表情で見やった護はすいと窓から見える外に視線をやりつつ言った。 「今日は久しぶりに午後から完全休養日だったんだ。何だかんだで夕方まで病院にはいたんだけど、今日は絶対に淦へ行こうと思ってた。涼一君のあの様子じゃ、俺に挨拶させてくれないまま雪を連れて行ってしまいそうな雰囲気だったから」 「……涼一」 「ん?」 「………」 声に出したものの先を言えず、護が問い返した声にも反応できなかった。 しかし護は別段害した風もなく続けた。 「涼一君って実は有名な財閥の跡取り息子だったんだって? それ聞いた時思わず笑っちゃったんだけど、当然の事ながら彼には大層叱られたよ」 「………」 「でも、その後勝ち誇ったように言うんだよ。『俺をどんなにバカにしようが、雪の恋人になったのは俺だから。あんたじゃないから』ってさ」 「ま……」 「なあ雪。俺な、この前患者さんに言われたんだ。『先生は誰かを本気で好きになった事があるんですか』って」 「え……?」 雪也が驚いたように瞳を燻らせると、護は目を細め笑うと続けた。 「俺はいつもにこにこしているだけで、そういうのは一見優しそうでいいけど、実は人間らしくないんだって。だからそんな俺には時々腹が立つんだって」 「そんな…」 護にそんな酷い事を言う患者がこの街にいたのか。雪也には軽いショックだった。 しかし当の護は涼し気な顔をしていて、そう言われた事に何も感じていないようだった。 そんな事は自分自身がとっくに知っていたと言わんばかりの顔だった。 「俺が医者になったのはさ、雪。自分で自分を治したかったからなんだ。俺はどこか病んでる。昔からずっとそう思ってて、今でも…今はまあ、時々そう思う。雪に会ってからは、その回数もずっと減ったんだよ?」 「護先生…?」 「俺は雪が好きだよ」 どきんと、雪也の胸が鳴った。 こちらを真っ直ぐに見据えてくる護から目が離せない。身体全部が金縛りになったように、ただ交錯する視線を逸らせなかった。 「でも俺は、涼一君とは違うんだよ、雪」 しかしそんな雪也に護は言った。 すっと視線が逸らされる。 護は雪也から離れて窓際に立った。 「涼一君って凄いよな。自分ってものがよく分かっていて、自分の気持ちに正直で…臆したところが全然ない。まったく敵わない」 「………護先…生も…」 「ん?」 「自分に正直でしょう…?」 「さあ…。よく分からない。俺はな、雪。雪のことずっと弟みたいに大事な存在だって、他の誰よりも明らかに特別な存在だって思ってたんだ。それなのに涼一君に恋愛感情は全くないのかって訊かれて何だか凄く驚いた。そんな風に考えた事なかったんだ。どうして考えなかったんだろう。間抜けだな」 「そんな…」 普通は考えないと思うのだが、と思った雪也の思いをかき消すように護は言った。 「くだらない世間の常識にばっかり捕らわれているから、自分自身のことも満足に分かってないから、雪を涼一君にとられてしまった。仕方ないな、自業自得ってやつだ」 「………」 けれど淡々とそう言う護の顔からは「雪也を涼一に取られて悔しい」というものは感じられなかった。 少なくとも雪也にはそう見えないと感じた。 誰にでも均等の笑顔を見せるけれど、誰にも執着しない護。 その姿は何となくバリバリと仕事をしている時の自分の母親に似ていると雪也は思った。たぶん、雪也は以前から護のことをずっとそう思っていた。勿論護は美奈子のような性格破綻者ではないし、彼女のように外面を取り繕っている反動で夜に異性を求め徘徊するという事もない。それでも、自分という人間を「どこか壊れている」と認識している護が母と似通った空気を持っていると思うのは、あながち見当はずれではないだろうと雪也は思った。 だからかもしれない。 雪也は護を誰よりも愛しく近い存在に感じていたが、それは涼一に対して抱いた気持ちとは違った。 「護…先生…」 「なあ雪。雪には幸せになってほしいよ」 護が言った。 「雪は涼一君と一緒なら幸せになれるよ」 「あ……」 雪也は護のその台詞にズキンと再び胸が痛み出すのを感じた。 そう、そういえば康久も、そして那智も。いや、きっと淦にいた人はみんな。 みんな自分と涼一はこれから先ずっと一緒にいるのだろうと思っていて。それがいい事だと思ってくれていて。 「……俺…涼一の…」 「え?」 震える唇で声を出した雪也に護が怪訝な顔をした。 「雪?」 「涼一のとこ…行けない…」 「え…どうして…?」 「………」 「雪…。どう、した?」 「行けない…」 かたかたと震える雪也の手元を護が不審気に見つめる。 けれど雪也は答えられなかった。 涼一の所へ行けば迷惑がかかる。それだけは避けなければならなかった。涼一に甘えていられない。自分を好きになってくれた涼一だからこそ、絶対に嫌な思いをさせたくない。 「涼一の所へは…行かないから…」 自分自身に言い聞かせるように雪也はそう言ってぐっと唇を噛みしめた。 あの母と涼一を会わせたくない。 |
To be continued… |
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